26.


「お母さん、ねえ、お母さん!」
 時雨の遺体を指令所まで運んだ塔亜たちを待ち受けていたのは、日和の悲痛な叫びだった。
 つい先ほどまで並んで歩いていた母が亡き者として帰ってくるなど、日和が想像していたはずもなく。遺体安置室で時雨と再会した日和は膝から崩れ落ちた。彼女の肩を支える汰施の表情も暗い。
 そんな彼女にかける言葉を、塔亜はもち合せていなかった。どんなに考えても、今の日和にかける言葉が思いつかなかった。塔亜はただ黙って、扉の内側から漏れる彼女の声を聞いた。叫びが脳を揺らし、吐き気を催した。
 耳を塞いでしまいたかった。しかし塔亜にはそれが出来なかった。
 現実から目を逸らすのは簡単だ。目を、耳を、そして心を閉ざせばいい。しかしそれは逃げだ。逃げることなど許されない。引き裂かれてぼろぼろになっても、塔亜は正面から立ち向かわなければならなかった。
 時雨は死んだ。塔亜の代わりに死んだ。これは曲げようもない事実なのだから。

 今回の戦闘で世界軍は“組織”構成員の静、越村に深手を負わせた。特に静は回復するまでに時間がかかるだろう。一方で、世界軍の維遠は肩に銃弾を受け、紅露は腹部の広範囲に火傷などの重傷を負った。王家直属軍の城外警護部隊は全滅し、多くの民間人も負傷した。死者も一名、出てしまった。
 事件現場を目の当たりにし、時雨の最期にも立ち会った風谷と維遠は、報告の義務を果たすべく【港の国】指令所最高責任官の元を訪ねていった。軍人二人を見送り、遺体安置室前で座り込んだ塔亜は、彼らが戻るのを待ちながら頭の中を整理しようとした。しかし駄目だった。何を考えてもまとまらない。言葉が形にならず、塊になっては融けてゆく。
(俺がもっと強ければ……)
 この言葉と日和の叫びが共鳴して頭痛を引き起こす。頭を抱え込む塔亜の隣に、騎左はそっと腰を下ろした。反対側ではゼファが丸くなった。
 塔亜と騎左の名が呼ばれたのは、それから程なくしてのことだった。顔を上げれば目の前には維遠が立っている。二人も立ち上がり、維遠と目線を合わせた。
「ひとりか? 風谷は」
「まだ話があるらしい。俺だけ先に戻ってきた。……それよりも」
 維遠は塔亜と騎左、二人を交互に見た。
「今後のことについてだが」
「その話か」
 騎左が目を伏せる。『今後』――それはつい先ほど【東端の島国】政府が出した帰国令に関する質問だった。
 今回の【港の国】襲撃事件を受け、【東端の島国】は素早い対応を見せた。【港の国】のみならず、国外に滞在する【東端の島国】民に対して早急に帰国するよう緊急法令を発表したのだ。『世界の法律』の下に定められた国の法令である、逆らうことは出来ない。塔亜たちも法令に則り、国へ帰らなければならなかった。
 しかし。
「冗談じゃねーよ!」
“組織”に一方的にやられ、反撃する前に逃げられてしまった。このまま引き下がれない。故郷に帰る訳にはいかない。
 塔亜は維遠に詰め寄った。
「俺、世界軍に入る」
 法は絶対である。国の民はこれを順守しなければならない。そうすることで世界の秩序は保たれ、平和な社会が形成される。
 だが、どんなルールにも必ず穴がある。今回の法令も例外ではなかった。
『【東端の島国】籍を所有する者は速やかに帰国せよ』――これが緊急法令の内容である。しかし『【東端の島国】籍を所有する』にもかかわらず帰国を強要されない者がいた。それが世界軍所属の軍人である。人を守るのもまた人、【東端の島国】に危険が及ばないよう戦うことを命じられた軍人は、継続して国外で任に就くことを許されているのである。
 世界軍に所属していればこのまま戦い続けることが出来る。それを塔亜は知っていた。
「しかし塔亜」騎左が塔亜の肩を掴んだ。「俺たちは、軍に志願出来ない」
 騎左の言うこともまたもっともであった。軍に志願するにあたって満たさなければならない規定の内のひとつに、『年齢が満十八歳以上であること』がある。塔亜も騎左も現在十七歳、まだ規定を満していない。だからこそこれまで軍を頼ることなく二人で旅を続けてきたのである。
「そんなの、俺だって分かってる。でも」
 まっすぐ維遠を見据えた。
「どうにでもなるんだろ?」
「……何が言いたい」
「お前らなら世界軍のルールの穴を知ってるんじゃねーの?」
 維遠の目が少しだけ見開かれ、続けて呆れ声がこぼれた。
「貴様という奴は、本当に単純だな」
「何だよ、馬鹿にしてんのか」
「まあ……いや、あまりに想像通りのことを言われて驚いたんだ。貴様が世界軍への入軍を希望することも、その為に無茶を要求してくることも、風谷さんは既に予測していた」
「オッサンが?」
「ああ。だからこそ風谷さんは【港の国】まで来たんだ」
 これまで世界軍により隠されてきた“スペード”という名の反政府“組織”が、一般市民にも知られ始めている。国家反逆者をも有する“スペード”を何年も解体させることが出来ずにいる世界軍への信頼は下がりつつあり、逆に“スペード”を支持する者も現れた。
 この現状を打破する為、白羽の矢が立ったのが風谷だった。先の【砂遺跡の国】での事件を含め、これまでの功績を考慮した結果、風谷の中佐への昇進と異動が決定した。
 異動先は【世界の中央】世界軍本部、裏部隊。
「受け身の戦争はもう終わりだ。こちらからも手を打っていく。その為の裏部隊だ。例え貴様らが拒んだとしても、我々世界軍は貴様らを風谷中佐の部下として迎え入れる」
 裏部隊とは特殊な権限をもった集団である。入軍するにあたって特別に必要な資格などなく、部隊内部の人間から指名されれば例え十八歳未満でも所属が可能だ。『世界の法律』が適用されない部隊であり、だからこそ規律が厳しいという噂もある。
 そう、あくまで噂である。軍内部の人間である維遠も、裏部隊のことはほとんど知らない。世界軍という組織の中で裏部隊は隔離されており、暗闇の中で蠢く存在なのだ。
 話の展開の早さについていくだけで精一杯だった。横目で騎左を見れば、彼も塔亜同様驚きを隠せていない。ただ、一言も聞き漏らさぬよう維遠の言葉に集中していた。
「汰施と俺も本部に異動、風谷中佐の指揮下に入る。それに伴い、俺たちと貴様ら、計四人は特殊訓練を受けることが決定した」
「訓、練……」
 塔亜のかすれ声に維遠が頷く。
「こちら側の手筈が整い次第、【西端の島国】にある世界軍の訓練施設に移動予定だ。いつでも出発出来るよう準備をしておけ」
 維遠の言葉はそれで全てだった。風谷からの伝言はそれが全てだった。
 聞くべきことは聞いた。あとは身支度を整えて時を待つのみである。塔亜はその場に背を向けて歩き出した。
「日和に何も言わないつもりか」
 背中に騎左の声が突き刺さる。
 塔亜は足を止めて首を横に振った。息が苦しかった。
「言える訳、ねえだろ……!」
 騎左はそれ以上何も言わなかった。黙って塔亜の隣に立ち、歩みを合わせた。

 この世界は欠陥品だ。世界を構成する大切な要素が欠落してしまっている。だから、誰かが自身を砕いて世界の欠落を埋めていかなければならない。犠牲を厭わない誰かが。
 塔亜は自分を救ってくれた人を失い、救いの手を差し伸べてくれた人を切り捨てる決断を下した。塔亜にとって大きな犠牲である。この決断が正しい選択だったとは思っていない。だからこそ自身の手で終わらせなければ気が済まなかった。犠牲を無駄に終わらせる訳にはいかなかったし、この決断を間違いにしたくはなかったからだ。
 やってやる――塔亜は誓った。騎左は選んだ。それは二人が大きな欠落を抱えた瞬間でもあった。



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