25.


 時雨が初めて風谷と出会ったのも五年前のことだ。日和が家に塔亜を連れてきて間もない頃だった。当時の風谷は【世界の中央】所属の中尉だったというのに、わざわざ【東端の島国】にある時雨の道場まで足を運んできたのであった。
「最近子供を一人拾ったでしょう。塔亜という名前の」
 自己紹介もそこそこに風谷はそんなことを言いだした。塔亜のことを特に誰かに言った覚えはない。それなのにこの軍人はどこでその情報を仕入れたのか。時雨は眉間に皺を寄せた。
「だったら何だい」
「その子供のことでお願いがあるんです」
「お願い?」
 頷く風谷の襟元で、緑二つ星が光を反射する。
「ええ……いや何、難しいことじゃありません。ただ、塔亜の世話をしてやってほしいんですよ」
 何かとんでもないことを言われるのかと思ったら、何だ、そんなことか。風谷の要求の内容に時雨は拍子抜けした。
 塔亜を家に置くことに決めたのは偶然だった。あの日、日和が塔亜と出会わなかったら、おせっかいを焼いて家まで連れてこなければ、時雨と塔亜は出会わなかった。そして出会ったとしても、塔亜が『俺を強くしてくれよ!』と言わなければ、あの眼差しを見ていなければ、彼を預ける施設を探していただろう。
 というのも、時雨の道場は決して裕福ではなかったのである。それでも面倒を見ようと思ったのは、塔亜を突き動かす熱源に自分と似たものを感じ取ったからだった。
「わざわざ言われなくても。いたずらにあの子を引き取った訳じゃない。途中で見捨てたりしないさ」
 時雨の発言を聞いた風谷は胸を撫で下ろした。
「それを聞いて安心しました。必ず、いつ何時でも、あの子を助けてやってください」
「……? それはどういう……」
 言葉に違和感を覚えた。聞き間違えたのかとも思った。
 幼い子供を『助ける』のは確かに保護者の仕事だ。困っていれば手を差し伸べ、しかるべき方向へ導いてやる。それは『世話をする』ことの一環であると言える。だが『いつ何時でも』という条件がついたらどうか。道を違えぬよう監督するというよりは、降りかかる災厄から身を挺して守れと言っているように聞こえる。
『世話をする』のと『いつ何時でも助ける』のとでは意味が違う。風谷がどういうつもりで何を話しているのか、言葉の裏を推し量ることが、時雨には出来なかった。
 時雨の無言をどう捉えたのか、風谷は更に付け加えた。
「ただ助けてやれと言っている訳ではありません。代わりと言っては何ですが……あなたが求めている情報を提供します」
「情報?」
「ええ。陽永さんの死の真相、突きとめましたよ」
 鈍器で殴られたかのような衝撃に襲われた。まさか、世界軍の軍人から陽永の名を聞くとは思わなかった。
 陽永――それは時雨の亡き夫の名前だった。
 民間人でありながら実力を買われ【東端の島国】王家直属軍に入隊した時雨は、同じく体術部隊に所属していた陽永と結婚した。基本的に世襲制であり外からやってくる人間がほとんどいない集団の中では苦労も多かったが、夫に愛され、娘も誕生し、時雨は幸せだった。
 しかし十一年前、陽永は殉職した。国外無法地帯調査役に選ばれてすぐのことだった。島の周りを巡回中に海賊からの攻撃を受けて船が転覆した、そう説明を受けた。
 そんな馬鹿な。時雨は思った。無法地帯をうろつく海賊船の装備など、たかが知れている。対してこちらは、国の研究者の技術を結集して作られた、王家の巡回船だ。海賊から攻撃を受けたくらいで船が沈むものだろうか。疑問に思った時雨は何度も訊ねたが、軍からの返答はいつも同じだった、『海賊との交戦の末、船が転覆しました』と。
 その後の時雨の決断は早かった。まだ五歳だった日和を連れて、王家直属軍を去ったのだ。王家直属軍にいては、いつまで経っても夫の死の真相に辿り着けないと判断したからであった。
 軍を退いてから六年。道場を構え、護衛任務などに就きながら、時雨は少しずつ情報を集めてきた。ジャーナリストから聞いた話によれば、陽永が乗っていた船は、【東端の島国】から少し離れたところで別の船と交戦していたらしい。それは時雨が王家直属軍で聞いた事実とは異なっていた。
 六年かけて時雨が調べてきた答えを、目の前の風谷という男が握っている。
 時雨が求め続けてきたものを、風谷はもっている。
「約束を、しよう」
 気付けば時雨の口からは、そんな言葉がこぼれていた。
「あの子を必ず守る、そう約束する。だから、教えてくれないか? 私の夫が、本当はどこで、なぜ死んだのか」



   ◆



 時雨は五年前に聞いた風谷の言葉を思い出していた。
 骨折が数カ所。身体中の切り傷からは血が流れ出ており、止まる様子はない。着物がたっぷりと血を吸い濡れているはずだが、特に不快には感じない。痛みも感じない。感覚が鈍っている今、時雨は酷く穏やかな気持ちだった。
 もし時雨が塔亜たちと静との間に割り込んでいなかったら、塔亜は死んでいたかもしれない。今自分が死にかけていることが何よりの根拠だ。
 言い換えれば、時雨は身を挺して塔亜を守ったということである。
 いつの間に現れたのか、薄茶色の目が時雨を見下ろしていた。身体が薄く、濃紺の軍服を着て青一つ星をつけているのに威厳がない。頼りない外見だが、時雨が知る中で誰よりも強く、誰よりも食えない男だった。
 最期の力を振り絞り、時雨は濃紺に向かって手を上げた。
「約束、守れた……よ、な?」
 持ち上げられた手を握り返された。痛みすら感じない身体だというのに、風谷の手はじんわりと温かかった。
 辺りの木々の梢が揺れ出したと思うと、その枝が大きくしなった。大気の流れに逆らえずに、蝶が飛ばされていく。そして強風は時雨をも襲った。着物の血を乾かし、髪を煽って顔を隠す。
 しかし時雨が髪を払うことはなかった。
「師匠!」
 愛弟子の声にも応えない。
 彼女はもう、動かなかった。



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