24.


 時雨に背中を向けてからこっち、塔亜は幾度となく振り返ろうとしてやめ、「くそっ!」と吐き捨てていた。静とぶつかったあの場所から離れた今、振り返ったところで時雨の姿を見ることなんてもちろん出来ない。しかし塔亜は気になって仕方がなかった。
 師匠なら大丈夫だ、きっとうまくやっている――何度も自分に言い聞かせた。振り返らないことで時雨への敬意を表せるような、信用を証明出来るような、そんな気がしていた。しかしその度に静の見開かれた瞳孔が脳裏をよぎり、冷や汗が塔亜の背中を伝った。
「急ぐぞ」
 騎左の声で我に返った。顔を上げると、巨大化したゼファが足を折ってこちらを見ている。乗れと言いたいらしい。二の腕の切り傷をきつく握り締め、塔亜はゼファの背に体重を預けた。翼の付け根を掴むとゼファはすぐさま飛び上がった。騎左がその脚にしがみつくと一瞬沈んだが、ゼファはそれをものともせずに宙を叩き高く舞った。
 静に妖術を見破られてしまったものの、この術を簡単に見破れるような人間はほとんどいない。再び姿消しの術を発動させた騎左は、先ほどまでと同様に国境沿いを飛ぶようゼファに指示を出した。
「よく捜せ、鼠一匹見逃すな」
「何言ってんだ、俺たちが探してるのは鼠じゃねーぞ」
「例え話に決まっているだろう。いいから探せ」
 塀は国境に沿って作られており、国境は地形に沿って定められている。緩やかな曲線を描く箇所があるかと思えば複雑に入り組んでいる箇所もあり、死角が多い。頭の中の地図を見て影になりがちな場所をピックアップし、そこを重点的に調べて回った。
 幾度目かの空振りの後、初めに違和感に気付いたのはゼファだった。ゼファが騎左の指示に背き、それ以上進むのを嫌がったのだ。
「どうした?」
 騎左が問うてもゼファは目を伏せるばかりである。何事かと身を乗り出した塔亜は進行方向を見遣り、愕然とした。
「ありゃあ何だ?」
 塔亜の頓狂な声に遅れること数秒、騎左も「あれは!」と息を飲む。
 彼らの前方では大気の密度が大きく変わり、光が屈折していた。辺りの樹木や畑、建物が揺らめき、宙に浮いているようにも見える。
 それは目に見えるほどに凝縮された、あまりにも強い魔力であった。
 静を前にした時のような禍々しさはなかった。しかし莫大な不可視の力を肌で感じ、腹の底をぎゅっと握り潰されるような感覚に襲われる。見えないはずの魔力を視覚で捉えられるまでに濃縮するその魔力量に圧倒され、地に下り立ったゼファは翼を折り畳んだ。
 魔力で歪められた空間の中には一人の青年がいた。ゼファから降りた二人は、建物の陰に姿を隠しながら彼を窺った。
 彼はあぐらをかき、国境の塀に背中を預けていた。歳は塔亜たちよりも年上だろうが、燃えるような赤色の瞳は少年のように輝き、壊れかかったこの世界においては異物そのものだ。目を引くのは左肩の大きな刺青。少し視線をずらせば左手の甲にも模様が刻まれている。間違いない、あれが目当ての魔術師だ。
 青年はしきりに辺りをきょろきょろと見回しており、癖の強い髪がそれに合わせて揺れていた。
「何か探しているのか?」
「『何か』ねえ……奴の仲間か、それか、敵を警戒してるとか?」
「或いは全く別の第三者か。……ゼファ」
 騎左が声を掛けると、ゼファは一度首を伸ばし、そして横に振った。獣の五感で拾える範囲に敵、即ち魔術師の仲間はいないらしい。今は一人でも、後から仲間と合流されては厄介である。やるなら今の内だ――塔亜は腰のホルスターに手を伸ばした。
 騎左を乗せたゼファが再び翼を広げ、塔亜を残して高く舞い上がった。騎左の術の有効範囲圏内を抜けたせいで、塔亜に掛けられた術が解ける。白髪の青年からも塔亜の姿が見えるようになったという訳だ。その事実は塔亜の心臓を暴れさせたが、身体は自然に動いた。改造銃のグリップが手に馴染んだ。狙うは魔力の塊の中にいるあの男。物陰からわずかに上半身を出し、両手で銃を構える。
 塔亜は男に銃口を向け、トリガーを引いた。
 青年目掛けて飛んだ銃弾は、凝縮された魔力の層の中で威力を失い、融けて地面に垂れた。それに反応した男が顔を上げる。彼の目が塔亜の姿を捉えた。
「あっ!」
 白髪の青年は満面の笑みを浮かべたが、その笑顔はすぐに曇った。
「あれ、塔亜君っすよね? 君、一人っすか?」
「見ての通りだよ」
「そうなんすか? 君たちはいつも二人で行動してるって聞いてるんすけど」
「必ずしもそうだとは限らねーだろ」
 彼は首を傾げながら立ち上がり、塔亜と目を合わせた。「あれーおっかしいなあ」などと言いながらこちらに歩み寄ってくる。
「ま、いいや。俺の名前は秦礼、よろしくっす」
 名乗りながら左手を差し出す。
(――今だ!)
 秦礼が次に足を置いたその場所から炎が上がった。
「あっつ!」
 脊髄反射で飛び退いたが、退いた先まで炎が追いかける。炎の舌先が秦礼のハーフパンツの裾を舐める。更に飛び退く。
 炎に誘導され、遂に秦礼は塀の際まで追い詰められた。どこからともなく現れた鎖が秦礼の足元を這いずり回る。鎖は秦礼の足首を捕らえ、次は太腿、その次は腹、胸、そして首にまで巻きつこうとする。
 しかし。
「やっ……やめろおおおおお!!」
 秦礼の叫び声は魔力となり、波が同心円状に広がった。凄まじい量のエネルギーに煽られ、立っていることすら出来ない。魔力の波に煽られ、塔亜は後ろにバランスを崩して転がり、騎左はゼファの背から振り落とされた。
 妖術が解けて炎と鎖から解放された秦礼は、心底ほっとした様子で胸を撫で下ろした。一息ついて、ようやく立ち上がった二人を交互に見遣った。
「やっぱり君たち、二人じゃないっすか」
“見えない壁”から注意を逸らさせて“壁”を解除させるつもりが返り討ちにされた――塔亜は、ぎり、と奥歯を噛んだ。分厚い“見えない壁”、歪められた空間、そしてこのエネルギーの放出。これだけのことをやってのける秦礼の魔力量は並大抵のものではない。唯一勝機を見込んでいた不意打ちに失敗した今、桁外れの魔術師にどう対応すべきか。必死に頭をはたらかせていた塔亜だったが、秦礼の次の台詞で思考が停止した。
「俺は君たちを待ってたんすよ」
「『待ってた』……? とは、どういうことだ」
 剣呑な騎左の声に秦礼は笑顔を返す。
「言葉のままっすよ。俺はここで君たちを待ってたんす。君たちがここまで来ることを予想してたから」
 まさか、そんなはずが――言葉を飲み込む二人をよそに秦礼は続ける。
「『“見えない壁”を支える為に、国境近くに“組織”の魔術師がいるはず』」
「!?」
「君らはそう考えたんじゃないっすか? その考えに基づいて国境近くを移動して、そうして俺を見つけたんじゃないっすか?」
 秦礼は握った右の拳を左の手の平に打ち込んだ。
「だから俺はここで君らを待ってたんすよ。君らと戦う為にね」
 まずい、と自覚した時には既に遅かった。秦礼の拳が地を割り、その破片が塔亜に襲いかかってきたのである。身を引いてよけた先では秦礼が待ち構えている。身構える間もなく背中に蹴りを食らった塔亜は宙に投げ出された。視界が目まぐるしく変わり、認識が追いつかない。気がつけば塔亜は騎左を巻き込んで地面に転がっていた。
「……っつ!」
「何をやっているんだお前は!」
「俺だって真剣なんだよ!」
 ただ、真剣に戦ったところで相手は“組織”の構成員だ。自分たちと秦礼との間には大きな実力の差があることくらい容易に想像出来る。
「いいか、必ずしも勝つ必要はない」
 騎左の耳打ちに塔亜は頷いた。
「奴の注意を“見えない壁”から逸らせればいいって言うんだろ」
「そういうことだ」
「それは分かってるよ。けど……」
 秦礼は“見えない壁”を支える片手間に塔亜たちと戦っている。相手のその余裕をなくさせ全力で戦わせるように仕向けることが出来れば、秦礼はこちらに立ち向かう為に邪魔となる“壁”の術を解かざるを得ないだろう。これは小手先の技術云々でどうにか出来ることではない。
「簡単に言うなよ。それ、すげー大変だぞ」
「まあな……それは俺たち二人で奴とどれだけ渡り合えるかにかかっている」
「ふざけんじゃねえよ」
 第一、相手が本気でこちらに向かってきたとして、自分たちがあの魔力に太刀打ち出来るとは思えない。“壁”を消すことは出来ても自分がこの世から消えてしまうようなことがあれば本末転倒だ。
 しかしやるしかない。
『ここは私が引き受けてやろう』
 師匠の声を思い出す。ここでの秦礼との戦いは時雨が与えてくれたものだ。時雨は塔亜のことを信じてくれている。だから、逃げることは許されない。
 塔亜は立ち上がり、パーカーの汚れをはたき落とした。やってやる……いや、やってやらなければならない!
 大刀を抜いた騎左が秦礼に向かってまっすぐに突っ込んだ。斬りかかる。もちろん簡単によけられる。だがそれだけでは終わらない。騎左の頭上でゼファが翼を広げ、眩しいほどに光がこぼれた。薙いだ刀の切っ先から火花が散り、電気の刃が秦礼に突き刺さった。電気の刃は秦礼の神経に触れ電気信号となる。それは秦礼の感覚を狂わせ、反応を鈍らせた。
 間を空けずに塔亜が撃ち込む。銃弾の回避など、普段の秦礼であれば造作もないことなのだろう。しかし今の秦礼は塔亜の動きに追いつけない。よけ切れない。
 塔亜の銃弾は秦礼の肌を裂き、地面に突き刺さった。
「やるじゃないっすか!」
 撃たれたというのに秦礼は余裕の態度を崩さない。この状況を楽しんでいるようにも見える。こちらが本気で戦ってもなお、互いの実力差が大きいことなど分かっている。しかし秦礼の余裕はそこからきているものではないのではないか。塔亜は秦礼の態度に違和感を覚えた。
 秦礼は純粋なのだ。決して己より弱い塔亜や騎左をいたぶって悦んでいるのではない。塔亜の目には、純粋に戦うことを楽しんでいるように映っているのだ。そんな人間が、圧倒的優位な立場にいるという理由で余裕をもつものだろうか。
「お前は……」
 騎左も同じことを感じていたらしい。刀を構え直して口を開いた。
「一体、なぜそこに立っている?」
「どういうこと?」
「なぜ俺たちと戦うんだ。何を守っている? “壁”か?」
「そんなこと、言える訳ないじゃないっすか」
 秦礼が顔の前でひらひらと手を振った。
「それよりも今は勝負っす。白黒はっきり……」
「はっきりさせるのは後回しだ」
「えっ!?」
 台詞の途中で割り込まれ、秦礼は目を丸くした。
 一陣の風が吹き、塔亜たちと秦礼の間に黒いローブを着た男が現れた。髪と瞳の色も真っ黒で、しかし前髪の一房だけは鮮やかな緑色だ。男の顔色は悪く、くぼんだ目の下にははっきりとくまが残っている。一見不健康で力仕事とは無縁そうだが、顔色一つ変えることなく、人間をひとり肩に担いでいた。
「何なんだ、お前は!」
 声を上ずらせる塔亜のことなど意に介さず、黒尽くめの男は秦礼を見遣った。
「事情が変わった。ここは引くぞ」
「えっ、何で!? これから面白くなるところだったんすよ!?」
「何ででもだ。早く!」
 黒尽くめの男は口早に言うと、まだ事情を呑み込めていない秦礼の腕を掴んだ。秦礼をあいている方の肩に担ぎ上げ、こちらに背を向ける。ローブのフードからは、男同様に真っ黒な鳥が顔を覗かせている。鳥の目がくるりと光り、男は地面を蹴った。常人ではあり得ないほどに男の身体は跳び上がり、あっという間に彼らの姿は小さくなった。
 突然のことに呆気にとられていた塔亜だったが、黒尽くめの男が担いできた人物を思い出して両腕をさすった。パーカーの下では鳥肌が立っていた。
 男が背中を向けた時、ちらりと顔が見えた。瞬間、見開かれた瞳孔がフラッシュバックしたのだ。
 間違いない。あれは確かに静だった。
「戻るぞ」
 声が喉に貼りついて上手く喋れなかった。
「急がねえと、何か、すげーやばい気がする」
 塔亜の言葉にゼファは素早く翼を広げた。背に塔亜を乗せ、大きく羽ばたく。その足を騎左が掴む。
 この時、黒尽くめの男たちを追おうなんていう発想は一切湧かなかった。つい先程静と出くわしたあの場所に、とにかく戻らなければならないと思った。ただそれだけだった。
 担がれた静は意識を失っているようだった。ならば時雨は? 時雨は一体どうしているのだ? 嫌な想像が渦を巻き、かぶりを振ってそれを追い払った。よくない予感はしたが、所詮そんなものは予感である。だから大丈夫だ。そう、自身に言い聞かせた。そうであってほしいと願った。
 しかし現実はトーアの願いを裏切った。
「師匠……!」
 赤色が目に入った。遠い上空からでもその色はよく見えた。その赤の中で、時雨は横たわっていた。
 そんな彼女を、維遠と風谷がただただ見下ろしていた。



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