21.


 灯台の前から港へ向かって走り、思わず足を止めた。港湾マーケットにも大きな被害が出ていたのである。
 暴風で一時的に波が荒れたらしい。いつもは穏やかな湾の中だが、今は船が大きく揺れ、波が堤防を洗っていた。より港に近い位置にあったテントは波に押し潰され、商品が沖に流された。波で流れてきた大量の泥や流木に嘆く店主、引く波に足を取られ倒れたまま起き上がることも出来ない者の呻き声が耳に入ってくる。負の感情が満ちている。ここはもう、活気溢れる港湾マーケットではない。
(くそ……っ)
 しかし塔亜には彼らを助ける力がなかった。何も出来なかった。己の無力さを呪いつつ、塔亜は目の前の現実から視線を引き剥がしてゼファを見上げる。自分がすべきこと、自分に出来ることだけは、何としてもやってのけなければならないと思った。
 騎左の腕の中から飛び立ったゼファは徐々に身体を大きくした。騎左が背に乗り、塔亜が足を掴む。それを知覚するとゼファは大きく羽ばたき一気に上昇した。
「探すならまずは国境沿いだ」
 騎左の提案に塔亜も同意を返した。
 魔術師や妖術師が術で他を制御出来る範囲には限りがある。今回のケースで言うと、魔術師が“壁”から離れるほどそれを制御する力が弱まる。言い換えれば、強固な“壁”を維持する為には、魔術師は“壁”の傍にい続ける必要があるのだ。
 その魔術師が“壁”の外にいるか内にいるか、つまり【港の国】周囲の塀の外にいるか内にいるかは分からない。しかし、この国を落とさんとしている“組織”メンバーは魔術師だけではない。他にも国内で【港の国】の機能を停止させるべくはたらく者が複数人いる。納抄、謡がその筆頭だ。そして、他メンバーに何かあった際に魔術師が援護することを想定しているのなら。
 魔術師は高確率で塀のすぐ内側にいる。
 上空の気候が急変した、というのはあながち嘘ではないらしい。或いは“見えない壁”が張られたことにより大気の流れが変わり、気候も変わらざるを得なかったのかもしれない。いずれにせよ、先ほどまでは澄み切った青だった空は、雲に覆われ始めていた。これはこちらにとって好都合である。姿消しの術の弱点である地に落ちる影も、薄暗い曇り空の下ではほぼ目立たない。
「よく探せ、絶対に見落とすな」
「分かってるってーの!」
 頭に叩き込んだ地図を脳裏に思い描きながら塔亜は眼下を見渡した。場所によっては塀が崩れ、建物が吹き飛び、地図とは異なる様相を呈している。相違点を頭の中で補完しながら、倒れた木の陰、瓦礫の陰に目を凝らした。
 この状況下で怪我をしている様子がないにもかかわらず塀の傍を離れようとしない者、それが“壁”を張っている魔術師であるに可能性が高い。この推測を元に“組織”の人間を捜す。ひとりひとりの身体的特徴から見分けていく。
 港を離れ農園地帯に差し掛かった時、塔亜の目はひとりの若い男を捉えた。
「おい!」
 上に向かって呼びかける。騎左も気付いているらしく、「あいつは……!」などと言っている。
 中肉中背。男にしては長めの、青みがかった黒い髪。髪と同じ黒の瞳。右腕には銀鼠の腕甲。筋肉質だが細く見えるのは、肩幅がやや狭い為だろう。
【砂遺跡の国】で戦った男を忘れられる訳がない。
 紛れもない、その男は“スペード”メンバーの静であった。
 静がこちらに視線を向けた。彼にこちらの姿は見えていないはずだ。しかし彼は空を舞う妖鳥に焦点を合わせていた。
 にやり、と、口元だけで笑う。静の手が胸ポケットを探る。
「ゼファ!」
 騎左が叫んだ時にはもう遅かった。ゼファが方向転換するよりも先に、静の投げたナイフは塔亜の左腕を切り裂いた。
 傷口がかっと熱くなり、熱は痛みに変わった。痛みは筋肉を弛緩させる。自身の体重を支えきれない。
 塔亜の手はゼファの足を離れた。
「塔亜!」
 騎左の声が遠退いていく。動揺しているのか、姿消しの術の効果が切れている。目に映るゼファの姿が小さくなり、代わりに地面が迫ってくる。地上では静が待っている。地面はもう目の前だ――。
 塔亜の身体は言うことを聞かなかった。思い通りに手足が動かなかった。何とか身をねじって胸部を庇い、肩を打ちつけながらも受け身を取る。地面を転がりながら、ホルスターから改造銃を引き抜く。痛みを堪えて起き上がり、銃口を静に突きつける。ゼファがその向こうに降り立ち、騎左も大刀を抜いた。
 二人に挟まれ、静は尚も笑い顔を貼り付けていた。
「ああ、やっと姿を見せてくれたね。塔亜君。騎左君。僕は君たちに会いたくて会いたくて仕方なかったんだ」
 言いながら腕甲のロックを外す。金属が擦れ合う音と共に、漆黒の両刃が現れる。
「蓮は死んだ。蓮はもう、この世にはいない。なぜか。それは、君たちが殺したから」
 左手で両刃をなぞる。
「だから僕は! 君たちを殺す! 君たちが蓮にしたように!」
 静が両刃を振りかぶった。塔亜の脳天目がけて落ちてきた刃を横に飛んでかわす。更に追ってきた刃は、距離を詰めてきた騎左が刀で受ける。火花が散る。両者睨み合う。
 静は二人が戦わなければならない相手だった。戦い、そして打ち勝たなければならない相手だった。それは静が、【砂遺跡の国】を襲い【港の国】を襲おうとし、行商団を、更には日和を傷つけた反政府組織“スペード”の構成員だからであった。そして彼こそが、かつて二人が過ごしていた【東端の島国】の孤児院に放火し、居場所と日常を奪った憎むべき犯人だからであった。静は、“スペード”は、二人にとって絶対的な悪であった。
 その悪、憎い敵に対し、二人は違和感を覚えていた。静の容姿は【砂遺跡の国】で相対した時と変わらない。しかし今目の前にいる静は、以前とは違う異質な何かを静は身にまとっていた。それは、ある者は覚悟と呼び、ある者は心の病と呼ぶのであろう。とにかく今の静は、健全で全うな人間がもち得ない狂気を備えていた。気の狂いが静の力の源だった。
 そしてその負のエネルギーは、塔亜と騎左と『死』を紐付かせた。
 心底楽しそうに両刃を振り回す静の笑い声が二人の肌を撫でた。全身が粟立ち、背筋に冷たいものが走った。
 願ってもない再戦の機会。だが二人の戦意は狂気に対する恐怖に砕かれた。
 二人の力ではこの男に勝てないことを、悟った。
(戦えば、絶対に死ぬ――!)
 静は、“組織”は、いつかは戦わなければいけない相手だ。だがその時は今ではないと、言うことを聞かない足が言っている。戦っても死ぬだけだ、と。実力のない者が気合いだけで勝利を収められるだなんて幻想だ、と。死にたくない……と。
 この場は『逃げ』が正解だった。維遠だって、『戦わずに俺に報告しろ』と言っていたじゃないか。しかし、妖術で姿を消したゼファの位置を、気配だけで正確に捉えた男である。彼の鋭い五感……いや、直感を加えた六感の前で、背中を向けてはいけない。それこそ死を意味する。逃げることなど出来ない。
(じゃあ、どうすればいいんだ……!)
 塔亜は太腿に手を伸ばした。
「死ね!」
 振り下ろされた黒刃を、騎左が再び刀で受け止めた。その間に塔亜は静の死角に入る。少しも譲らない静目がけてナイフを放った。
 ナイフが塔亜の手を離れる瞬間、静は首を回してこちらを見た。駄目だ、避けられる、そう感じた。一歩引いて騎左から離れ、余裕でナイフを避ける静の幻影すら見えた。
 しかし実際は、ナイフは静の肩に突き刺さった。
 静は肩にナイフが刺さったまま騎左を押し切り、更に腹を蹴り上げた。
 突き飛ばされた騎左は、体勢を崩したまま妖術を発動させた。翼を広げたゼファの前で、大樹が地面を突き破って現れた。大樹の枝から垂れ下がる無数の蔦は、一斉に静に襲いかかった。蔦が静の腕を、脚を絡め取り、自由を奪う。首に巻きつき呼吸を奪う。静を締め上げる。動きを止めた静に向かって、改造銃が構えられる。両手で構え、トリガーを引く。銃弾が二つ吐き出される。
 一つ目は静の右踵を砕き、二つ目は左の太腿にめり込んだ。身体に鉛玉を撃ち込まれ、血が飛び散ったというのに、静の表情は変わらなかった。
 それどころか、何でもないように身体に巻きつく大樹の蔦を引き剥がし始めたのである。
「妖術が効かない……!?」
 刀を構え直した騎左の唸り声が塔亜の耳にも届いた。唸りたいのは塔亜も同様だった。
 肩にナイフが刺さり、足には二発の銃弾を浴びているのに痛がるそぶりを見せない。静はまるで、痛みを感じず、破壊衝動とそれに伴う快楽しかもち得ない人形のようだった。彼の心は本当に壊れてしまっているのかもしれないとさえ思えた。
「これで終わりじゃないでしょ?」
 静の笑い顔は不気味だった。口元は笑っていても、目は見開いて血走っていた。
 繰り出される黒刃を避ける以外、塔亜と騎左には出来なかった。身体を傷つけても動き続ける静をどうしたら止めることが出来るのか、皆目見当がつかなかった。撃っても斬っても膝を折らず、妖術も効かない。距離を取ればすぐ詰められる。そんなことをしている間にも時は過ぎていく。まさかこのまま刃から逃げ続けるしかないのか、体力が尽きるまで、この国が潰れるまで――そんな考えが頭の隅でちらつき始めた時だった。何者かの足が静の首を正確に捉え、蹴り飛ばした。
 何者か。それは。
「捜したぞ、二人とも」
 指令所の前で別れたはずの時雨だった。維遠の言動に不信感を覚えた彼女は、塔亜たちを捜しに追ってきたと言うのだ。
「何考えてんだよ師匠!」
 声を上ずらせた塔亜に、時雨は肩をすくめてみせた。
「そりゃあ、弟子とその仲間のことさ。弟子の面倒を見るのが師匠の役目だからな」
「無茶苦茶だ!」
「無茶で結構」
 そう返しながら、横目で静を見る。時雨が静から滲む異常な狂気と殺気を感じ取るまでにさほど時間はかからなかった。静が何をしようとしているのか、塔亜と騎左がどうしたいのかさえ、時雨は見抜いているようだった。
 二人を背にして立ち、静に向かって身構える。
「お前たち」時雨は肩越しに二人を見た。「あの中尉から何か言われているんだろう?」
「知ってたの?」
「知らないよ。でも、あれだけ意味深にこそこそされたらどんなに馬鹿でも察しはつくってもんさ」
 肩から地に落ち倒れた静に視線を戻す。
「だから……ここは私が引き受けてやろう」
 静という脅威を前にして、突然の時雨の申し出は受け入れがたいものだった。
「なっ、何言ってるんだよ!」
「言葉のままさ。早く行きな」
「しかし……!」
 塔亜がその真意を確かめ、騎左もかぶりを振る。確かに時雨は強い。塔亜はもちろん、時雨と出会って日が浅い騎左も、それは承知している。軍を退役してもなお道場で鍛錬を続ける時雨は、歳若く体力の有り余っている塔亜や騎左よりも経験豊富で戦闘に長けている。それでも、死を想起させる危険な男の前に時雨ひとりを置いていけるはずがない。
「師匠、駄目だ」
「気にするな。ただ、約束をしただけさ」
「約束? 何の……」
 塔亜は眉をひそめたが、身を起こした静が腕を背中に回し、肩のナイフを抜き始めたのを見て口をつぐんだ。
 抜いたナイフを、静は気だるげに見つめると投げ捨てた。顔は伏せたまま、目だけをこちらに向けている。塔亜は騎左を見た。騎左は小さく頷き返した。時雨を信じるしかないと、互いに認識した。
「……ごめん」
 謝罪を絞り出して、二人は時雨に背を向けた。
 時雨は強い。それは事実。だからこそ塔亜は拳を握り締め、静かに怒りを握り潰した。



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