20.


 病院は騒然としていた。
 強風に煽られて転び頭や腰を打った者、転んだ際に骨を折った者、強風で割れた窓ガラスで怪我をした者が、続々と病院に現れたのである。正面玄関前はあっという間に患者たちでいっぱいになった。
 痛い、まだ診てくれないんですか、医者はいないのか――そんな言葉が院内を飛び交う。申し訳ございません、順番に診ています、もう少々お待ちください――看護師たちも叫ぶ。こんなところで言い争っている場合ではない。塔亜は待合室を目指して駆けだし、騎左とゼファもその後を追った。
 患者がこうも多くては、診察室や処置室の数が圧倒的に足りない。廊下の隅や窓際のソファでも治療が行われている。待合室も例外ではなく、看護師たちが忙しなく怪我人の手当をする中、日和は時雨とソファで肩を寄せ合っていた。
「日和! 師匠!」
 塔亜の呼び掛けに二人は顔を上げた。
「塔亜! お前、今まで……!」
 立ち上がりかけた時雨だったが、塔亜に手で制されて座り直す。一呼吸置いてから再び口を開いた。
「全く、急にいなくなったと思ったら……どこ行ってたんだい」
「ごめん。それより今の、大丈夫だったか?」
「うん、あたしたちはずっとここにいたから」
 待合室の窓ガラスも割れて散らばっており、突風が吹き込んだのか鉢植えの観葉植物が倒れていたが、それで更に怪我を負うことはなかったと言う。それまで二人に付き添っていた紅露は様子を見る為に外へ出ていき、塔亜たちが戻ってきたのはその直後という訳だ。
 この状況を受けて最初に思い出したのが“組織”の存在だ。“奴等”が何かしたに違いない。【砂遺跡の国】での爆破事件のこともあり、初めは爆発が起きたのかと思った。しかし、病院に運び込まれてくる患者の中には火傷をした者がほとんどいないことから、爆発ではないことが窺える。となると、外では何が起こっているのだろうか。気がかりだが、それ以上に気にかかるのは日和たちのことである。彼女たちから離れることが出来ず、かといって落ち着いてもいられず、割れた窓から無為に外を眺めている間に紅露が汰施を連れて戻ってきた。
「上空の気候が急変したという報告を受けました。その為に国内全域で突風が吹き荒れたようです」
 そう言ったのは紅露だ。そんなことがあるのか、と日和も時雨も怪訝そうに眉をひそめたが納得せざるを得ない。「そうですか」などと頷いている。
 もちろん嘘だ。汰施の目が言っていた。
 ――これは“組織”の仕業だ。
 また“組織”の人間が何かを企んでいる。塔亜は鼓動が早まるのを感じた。
「それで、オレンジメッシュは何でここに?」
 塔亜の発言に呆れ顔を見せた汰施だったが、いちいち構っていてはきりがない。「傷害事件の聴取だよ」と返すと時雨に向き直り、「汰施少尉であります」と敬礼した。
「ご息女を襲った犯人ですが、いまだ逃亡を続けており、まだ見つかっておりません。犯人確保の為にも、事件当時のお話を伺いたいのですが……」
 日和が時雨の顔を見上げる。それを見て汰施は「もちろん、今すぐにとは言いません」と付け加えた。
「時間を置いて、気持ちを落ち着かせてからで構いませんから」
「ううん、あたしは大丈夫です。あたしの証言が、事件解決のきっかけになるなら」
 汰施に話しているようで、その言葉は実際、日和自身に向けられていた。自分は大丈夫なのだと言い聞かせることで何とか心を奮い立たせ、事件の恐怖から一歩踏み出そうとしているのである。それを察したのか汰施は余計なことなど口にせず、「ご協力感謝いたします」とだけ言い、頭を下げた。
 事情聴取は指令所で行うという。汰施の先導で一行は病院を出、道路を隔ててすぐ向こうにある【港の国】指令所へと向かった。
 指令所正面に回りガラス戸をくぐった汰施に、日和、時雨も続いた。塔亜、騎左も当然のようにそれを追おうとして、しかし紅露に呼び止められる。
「お二人は私についてきていただけますか」
 塔亜は首を傾げた。
「えっ何、どういうこと?」
「維遠中尉がお呼びです」
「おかっぱが?」
 疑問に思ったのは塔亜だけではなかった。足を止めた塔亜たちに気付き、時雨が引き返してきた。
「どうかしたのか?」
「いえ、中尉が彼らに用があると」
 紅露が身を反転させる。彼女の視線の先で、一台の軍所有車が止まった。運転席のドアが開き、襟元に緑二つ星の輝く濃紺の軍服が半身を外に出す。
「時間がない、話は後だ。貴様ら二人、早く後ろに乗れ」
 維遠は口早に言って再び車内に戻り、それを聞いた塔亜と騎左は車に駆け寄った。ドアに手を伸ばしたが、二人と車の間に滑り込んだ時雨の身体に阻まれる。顔を上げれば時雨は、まっすぐに維遠を睨みつけていた。
「ちょっと、この子たちをどこへ連れていく気だ」
 対して維遠は時雨を見ようとせず、ハンドルに伸ばした手を見つめている。
「申し訳ない。が、今は説明する時間も惜しい。先を急がせてもらう」
 両者が口を閉ざす。周りの騒ぎが耳をつく。
 塔亜は時雨を半ば強引に押しのけるとドアを開け、後部座席に転がり込んだ。間を開けずに騎左とゼファも続き、時雨の鼻先でドアを閉める。
「……申し訳ない」
 もう一度繰り返して、維遠は紅露を見た。
「上は頼んだぞ」
「了解しました」
 紅露が敬礼を返すと、車は急発進した。時雨の視線を後頭部に痛いほど感じたが、塔亜はそれに気づかないふりをした。そうする他なかった。
 維遠の運転する車は余計な道など通らず、最短距離で貿易港に向かっていた。道の両脇の建物は病院と同様窓ガラスが割れ、屋根の一部、或いは全部が吹き飛んでいる。歩道には大怪我を負い自力で動けなくなった者がうずくまり、怪我の軽い者が手を貸している。
 外の光景は、港に近付くほど酷くなっていった。頭から血を流してただ座り込む老人、店が横倒しになり呆然と立ち尽くす飯屋の料理人、泣き叫ぶ子供を抱える母親。どの顔にも困惑と恐怖の色が見える。
「これは……」
 息を飲んだ騎左に維遠が頷いた。
「間違いない。“組織”だ」
 この事態を受け、早くも軍内部には対策本部が立てられた。先ほど【港の国】内を襲った突風の原因についても調査が進められている。調査の結果既に分かっているのは、【港の国】を覆うように“見えない壁”が作られているということだ。
“見えない壁”の正体は分厚い空気の層である。これを作る為に大量の空気分子をかき集め、その際に局所的に大気の流れが速まり、突風が発生したのだ。国境付近の被害が大きいのも、“見えない壁”が国を覆うように国境に沿って作られたからだと考えられる。
 大気を操り“壁”を作るなど、普通の人間が出来ることではない。しかし、世の中にはそれが出来る技術をもった者も存在する。それが魔術師だ。
 一国を覆い尽くすほどの魔力をもち、扱いにくい気体を大量に操ることの出来る魔術師は、維遠の知る限り世界軍にも【港の国】王家直属軍魔術部隊にもいない。特別に訓練を受けたことがないであろう一般国民の魔術師たちの中に、これをやってのける者がいるとは考えにくい。
 そこで浮かび上がってきたのが“スペード”メンバーの魔術師である。
「“組織”が次の行動に移ったのだと考えていいだろうな」
「何で!」塔亜が身を乗り出して運転席のシートを掴んだ。「納抄が言ってたよりも早いじゃねーか!」
「何も驚くことじゃないだろう」
 維遠はミラー越しに後ろを振り返った。
「納抄が俺のところに来た時は、作戦の決行日時は明日だったんだろう。だがあの宣戦布告は納抄の独断行動だ。奴の勝手に他の“組織”メンバーが気付き、軍人である俺に情報が流れたことを危惧した。その結果“奴等”は予定を変更せざるを得なかった……そんなところだろうな」
「……そう、か」
 もっともな推測である。というより、なぜこれまでその可能性を考慮しなかったのか。塔亜は色の抜けた髪をくしゃりと掻いた。努めて冷静であろうとしていたが、実際にはそれが出来ていなかった。気がはやり、適切な判断が出来なかったために、『“組織”が宣戦布告通りに行動するとは限らない』という可能性をちらりとも考えなかったのである。
 眩しい白色の灯台が見えてきた。見張り台には濃紺の制服が立っている。手にした双眼鏡で見ているのは海側でなく陸側で、しばらくこちらを見ていたと思うと、灯台の中に引っ込んだ。
 車は灯台の手前で停止し、シートベルトを外した維遠が後部座席に向き直った。
「対策本部から会議招集がかけられた。俺もそれに出席しなければならない。だが、会議の間にも“組織”は動き続ける」
 維遠の言葉に塔亜も騎左も頷く。
「だから俺は、協力要請に基づき、貴様らに“見えない壁”の解除を依頼したい」
 現在、【砂遺跡の国】に派遣した部隊の一部に対し、【港の国】へ帰還するよう命令が下されている。その部隊がもうじき到着予定だ。しかしこのままでは“見えない壁”の所為で入国が不可能。帰ってきた部隊を受け入れ【港の国】の戦力を増強する為にも、“壁”を早急に取り払わなければならない。
「“壁”を消すのが最優先だ。“壁”を作り出している人物を探し出し、何が何でも止めろ」
 言い含める維遠の声を聞きながら、騎左は顎に手を当てた。
「魔術師以外の“組織”メンバーを見つけたらどうする? 戦うか?」
「いや、優先すべきは“壁”だ。魔術師以外の“組織”の人間を見つけても戦わずに俺に報告しろ」
 了解の合図代わりに、騎左はゼファの背を撫でた。大気がわずかに震え、騎左の妖術が発動した。
 それまでこちらを見据えていた維遠の目が泳いだ。二人と一羽の姿が突然映らなくなったのだ。視線は後部座席を一往復し、前方に戻る。
 車を降りた維遠は灯台から出てきた緑三つ星の軍人に声を掛けた。
「お迎えにあがりました、大尉。間もなく会議が始まります。急ぎましょう」
 大尉が維遠に頷き返す。維遠が後部座席のドアを開く。
 その隙間をすり抜け、塔亜は地面を蹴った。
 ふいに足元を駆け抜けた風に大尉が動きを止める。その隙に騎左が、ゼファが車を降りる。
 また“組織”と戦う、復讐するチャンスがやってきた――震える腕を押さえつけ、必死に足を動かす。二人の意地のみが、今の二人の身体を突き動かしていた。
 視界の端で、一隻の黒い船が波に揺られていた。



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