0.


 湿気を含んだ風が峰葉の頬を撫でる。舗装された道の割れ目が歩みを妨げる。割れた灰色の空は重くのしかかってくるようで、気分が沈んできてしまう。足が止まる。
 肩に停まった魔鳥のチモが肩の上で飛び跳ねた。頬に頭を押しつけられて峰葉ははっとする。
(いけない、いけない)
 チモの頭を優しく撫でて、右目を覆う眼帯をなぞり、まっすぐ前を見据えて一歩踏み出した。
 その一角には自動車の残骸が積み上げられていた。車種はばらばら、一般的な乗用車から
大きな荷台のついた業務用大型車までさまざまで、隙間には二輪車が押し込まれている。比較的新しいものもあれば、窓が割れドアが外れ錆びて朽ちたものもある。
 かつて隆盛を極めた産業の成れの果てだ。
 二百年以上も前のこと。蒸気エネルギーでタイヤを回す自動車が、この国で誕生した。人類初の、動物を使わずに走る自動車だった。しかし人類の欲は止まらない。もっと速く、もっと長い距離を走れる乗り物が欲しいと考えた人間は、蒸気を上回るエネルギー源を求めた。電気、石油と自動車は進化し続けた。それに伴って蒸気エネルギーは徐々に姿を消した。今ではもう、街を走る蒸気自動車など一台もない。
 ではどこにいったのか。
 ここだ。
 ここ、自動車の墓場だ。
 かつては誰かの愛車だったそれが、今ではこの場所でごみと化していた。大切にしていたのは昔のこと。新しい自動車を手に入れてしまえば、古いものには見向きもしない。必要のなくなったものは捨てるだけ。それが積もり積もって、この廃車の山が出来上がってしまったのだ。
 そしてここは、いつしか『何でも捨てていい場所』となっていた。
「あ、峰葉だ!」
 鉄くずの間から少年が顔を出して手を振った。峰葉も振り返し、走り出した少年を追う。子どもの背なら難なく通れる廃車の隙間を、身を屈めてチモに先導してもらいながらゆっくりと進む。
 抜けた先はちょっとした広場になっている。その中央にあったのはタイヤを失った大型のバス、そしてバスの窓から顔を出す子どもたちだった。
「みねは! みねは!」
「ひさしぶり!」
「そうでもないだろ、一昨日も来たぞ」
「あれ、そうだった?」
 口々に言う子どもたちを宥め、峰葉はひとりひとり順に声を掛けていく。
「黎武、この前転んだ時の怪我はもう治りましたか?」
「血はとまったよ」
「それはよかったです。玖浦も、喉の調子はどう?」
「まあまあかな」
 子どもたちと話しながらバスに乗り込み、まっすぐ奥まで進む。最後列では包帯で目を覆った少年が横になっていたが、峰葉の気配に気づいたのか上体を起こした。
「こんにちは、峰葉」
「ええ、こんにちは、源」
 源は生まれつき目が見えなかった。視力がなければ、健常者とは同様に生きられない。大人になっても他者の力を借りなければ生きられない。
 だから彼はここに捨てられたのだ。
 源だけではない。他の子どもも何かしらの理由――例えば病弱だとか、口減らしだとか――でここへ来た。かつて栄えた産業と同じ。不要となれば捨ててしまえばいい。そうして様々なものが流れ着き、貧民街が形成された。
 悪いのは子どもたちではない。彼らを支えることの出来ない社会だ。そして峰葉には、社会を悪だと言えるような力はない。峰葉に出来るのは、たまにこうしてここまで出向き、子どもたちに読み書きや算術を教えることくらいである。
 これがいいことなのか悪いことなのかは分からない。しかし峰葉の教えが子どもたちの武器となり、未来を生き抜く助けとなればいい、とは思う。
「みねは! あたらしい字をおしえて!」
 波菜から声を掛けられて振り向いた時だった。不意に眼帯の奥、縫い付けた右まぶたの奥がちりちりと痛み出したのだ。
 顔を上げる。自宅の方……ではない。市街地でもない。ではどこで、何が。周囲を見回して、“それ”が見えたのは港の方だった。
 峰葉の右眼がぐるぐると回って訴えている。“それ”――すなわち災厄が訪れようとしている、と。気のせいだ、で片付けることは出来ない。峰葉の眼は常に正しい。
「いったい何が来るって言うの……?」
 しかし何があったとしても子どもたちは守りたい……いや、守る。彼らを守ることが出来るのは、峰葉だけなのだ。



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