5.特別講義


 メーアからああでもないこうでもないと口出しされながらも、何とか荷造りを終えたその週末、チケットに記載された出航の日。食堂でメーアと待ち合わせし、軽く朝食をとってから港行きのバスに乗り込む。「よく荷物がトランクに収まったわね」だとか「ねぇ、もうちょっと違う服なかったの?」だとか、そんな嫌味を聞き流しながら窓の外を眺め続けた。
 市街地を抜けると建物がまばらになり始める。緑が目立ち、背の高い木々の間からは海が見え始める。水面で乱反射した太陽光がちらちらと揺れる。
「ちょっと聞いてるの?」
 シャツの襟を引っ張られ、メーアの怒り顔が視界に割り込んできた。
「聞いてるよ」
「じゃあ私が今何の話をしてたか言ってみなさいよ」
「僕に服のセンスがない話」
「そんなのとっくに終わった話じゃない」
 ふいと視線を外し、足を組む。
 そう、だいたいこれがいけないのだ。
 制服以外では、いつもパーカーだとかジーンズだとか、シンプルで動きやすい服を好んで着ているメーアが、どうしたことか、今日に限ってリボンのついたブラウスと膝上丈のスカートである。これから船で海に出るというのに、行き先を何か勘違いしているのではないだろうかと疑いたくもなる。彼女の足に行きかけた目を窓の外に向け直し、溜め息をついた。
 確かに隣にいるのはメーアなのに、いつもと印象が違い過ぎる。女の子らしい彼女に緊張している自分がいる。相手はいつもと同じあのメーアだぞ、男子棟を我が物顔で歩き回るメーアだぞ、と言い聞かせているのだが、どうにも落ち着かない。雑誌を見ながらあんな奇抜な革パンツを進めてきた割には、可愛らしい服を着るじゃないか。
 会話らしい会話がないまま、バスは港に着いた。港は目的地であり、また、この旅のスタート地点でもある。メーアのトランクも運ぼうかと申し出たが「結構です」と断られたので、自分のものだけ担いでバスを降りた。
 潮の香りを思いきり吸いこんで伸びをした。海まで来るのは久しぶりだ。今の学校に入学してすぐの課外活動で、海沿いの宿泊施設に泊まって以来である。
「メーア、覚えてる? 海でやった課外活動」
「ええもちろん。リベルったらずっと、何をするにもアインにくっついてたわね」
「そんなことは覚えてなくてもいいよ」
 どちらかといえば消極的な人間に分類されるリベルだが、アインとは早い段階で打ち解けることが出来た。ルームメイトだということの他に、アインの積極性に助けられた部分が大きい。そんな彼に入学当初は外交を全て任せていた為、授業も食事も、何をするにもアインと一緒だった。それは事実である。
「本当、飼い主とその犬のようだったわ」
「ちょっと、人のこと、犬って……」
「あれを考えると成長したわねぇ」
「うっ」
 事実であるので、強く言い返せない。
 メーアと初めて話をしたのも、その課外活動だった。堤防で釣りをしていた時に、偶然隣り合ったのだ。一向に当たりの来ないメーアの隣でリベルがほいほいと魚を釣り上げていた、それを見て彼女が絡んできたのである。「何であなたばっかり釣れるのよ!」と。
「懐かしいな、船から釣り出来るかな」
「出来ても私はやらないわよ」
「そう? 楽しいのに」
 嫌そうな彼女の顔を見て、やり返してやった! と思うのは、性格がひねくれている証拠だろうか。
 出航までまだ時間がある。実家が山奥にあるリベルにとって、海は馴染みがないもの。物珍しさに堤防を歩き回ったり港の魚市場を覗き回ったりしていた。
「……リベルったら、よくそんな気になるわね」
 もちろん、トランクを抱えたまま、である。トランクを右手から左手に持ち替え、右肩を回すメーアの顔には、『肩凝ったわ』と書いてあった。
「え、だって、楽しいじゃん」
「そう?」
「僕は田舎の山育ちだからね、こういう市場は新鮮だよ」
「まぁ、あなたはそうかもしれないけど」
「ほら見て!」早くも疲れた、と言いたげな彼女を無視して、リベルが指差す。「魚がたくさん見えるよ!」
 言われてメーアも船着き場から海を覗き込むと、小さな魚が舞っていた。一匹や二匹ではない、何十匹、もしかしたら何百匹もが船の周りを行き交っている。陽光が鱗の一枚一枚で反射し、水面で散乱した光がまた別の角度から鱗にぶつかり、魚の上で複雑な色味を生じさせていた。
「青くなったり、緑になったり、黄色に見えたり、面白いね」
「あっ本当、綺麗!」
 しかし不思議なのは、魚たちは船の周囲にのみ集まっているということ。燦々と陽射しが降り注いでいる明るい場所に、ターコイズブルーやエメラルドグリーンを見ることは出来ない。
 どうしてだろう、という二人の疑問を。
「魚の習性だよ」
 知らない声が解決してくれた。
「その魚の天敵……海鳥から身を守る為に、船の影に隠れているんだ」
 そう説明してくれた彼の肌は黒く日に焼けており、白い目、白い歯、白いシャツとのコントラストが眩しかった。シャツの襟と袖には空色の二本線がすっと走っている。この港から定期便を出している旅客船会社の制服だった。
「その魚たちは主に南の沖に生息している種類なんだけどね。より暗い影を見つけるとすぐ逃げ込んで、そこからなかなか出ようとしない臆病な魚なんだよ」
「南? そんな遠い海にすんでる魚が、どうしてここに」
「それは、この船がここと大陸南端の港を往復している連絡船だからだよ。向こうからこっちの港に来る途中で、魚の群れの近くを通ったみたいだね。船の影に魚たちは隠れた、その船が移動するとその影も動くから……」
「魚たちも影と一緒に移動してきたのね!」
 凄い! と再び海を覗く。そんなことはお構いなしに、魚たちは海中を泳ぎ回る。
 しかし、この鮮やかな色のせいで海鳥から狙われているのではないか? 新たに生まれた疑問にも、リベルが口にするより先に答えが出た。
「南の海は青くて透明なんだ、空から海底もよく見える。そして底にはカラフルな海藻や珊瑚がいる。そんなところで身を隠すには、鮮やかな色の方がいいだろ?」
 フィシェと名乗った彼は、かつてはリベルたちの学校に通っており――つまりは先輩で、当時は海洋学を専攻していたのだとか。卒業してからは更に勉学を重ねる為に進学したり、船舶の操縦免許を取ってみたり、漁師生活を送ってみたり、とにかく海を泳ぎ回ってみたり、思いつく限りの時間を経て。
「今はこの会社で、定期便のクルーをやっているよ」
 落ち着いた生活をしているらしい。
「海が好きなんですね」
「ああ、好きだ」
 その笑顔が、少しだけうらやましいとリベルは思った。
 好きなものを、まっすぐ好きと言えることが、眩しかった。
「……あら」
 メーアの声に反応して身体をそちらに向けると、彼女は腕時計に視線を落としていた。
「今、何時?」
「そろそろいい時間だわ」
 彼女の発言はつまり、謎のチケットに記されていた船の出航時間が近付いていることを示しており、同時にその『謎』が明かされる時が近付いていることも意味していた。
 アインはこのチケットを『偽物かもしれない』と言ったが、リベルはそう思っていなかった。そうでなければいいな、という期待半分。そして残りの半分は、これは本物だ、という違和感と直感。
 チケットに記載されたポート番号を確認し船着き場へ移動しようとするメーアを抑え、リベルはフィシェにチケットを見せた。
「僕たち、船に乗りたいんです」
 そしてフィシェはリベルの直感通り。
「ようこそ、俺たちの船へ」
 と笑ったのであった。
 フィシェに案内されたポートでは、既に船が堤防と繋がれていた。波に流されぬよう船を引き止めているロープが風に揺れている。鳥が二羽、そのロープの上で寄り添っている。堤防から甲板に渡された板橋の上を、リベルたちと同様荷物を抱えた少年が歩いている。
「リベル、私たちも乗りましょう」
 改めてフィシェにチケットを渡す。チケットのミシン目が切り取られ、半券が返ってきた。
「揺れるから気をつけてくれよ。トランク、俺が運ぼうか?」
「大丈夫よ」
 フィシェの心配をよそに、易々と堤防から板へ、板から船べりへ。そしてリベルの心配をよそに、船べりから甲板に飛び降りるメーア。
「……メーア、ちょっとは気をつけなよ」
「え、落ちたりなんかする訳ないじゃない」
 言明するのを避けると分かっていただけなかったらしい。後を追って甲板に飛び下り耳打ちした。
「スカート短いんだから、飛んだり跳ねたりするとめくれるよ」
「分かってるわよ」そこで言葉を切りこちらを見て、「……見たのね?」
「いいえ見ていません」
「見たのね!」
「決めつけはよくないよ」
「リベル!」
 断じて見ていない、神に誓って見ていない。
 ふたりの後から乗り込んできたフィシェに案内されたのは、甲板一階の船室だった。扉を開けると、ベッドがひとつと作りつけの棚があるだけの、殺風景な部屋と対面する。船が波に揺られるのに同期して、天井から吊られた電灯のかさが揺れ動く。こんな狭い部屋が同じフロアに十並んでおり、メーアはこの隣の部屋に案内されていた。
「もうすぐ出航だから、荷物を置いたら甲板まで来てくれよ」
 フィシェがそう言って頭を下げる。「はぁ、はい」と気の抜けたような返事をし、つられてリベルも頭を下げた。
 もとより部屋の中にこもる気などなく、外で海を眺める予定ではあったが、甲板に出ることを求められるとは。
「……メーア」
 隣の部屋のドアをノックした。「出られる? 甲板行こう」
 甲板には、既に他にも数名が集まっていた。ああ、と思わず声を漏らす。交友範囲の狭いリベルでも、彼等の顔には見覚えがあった。休暇に入ってからも毎日、食堂で共に食事をとっていたのだから。
 汽笛が鳴り響いた。エンジンの回転数が上がったことが、床から足に伝わる振動からも分かる。時計を見ると、チケットに記されていた時間ぴったりだった。ゆっくりと陸の景色が流れ始める。つい先ほど立ち寄った魚市場がだんだん小さくなっていく。
 リベルが移り行く景色を確認する間にメーアがしていたことは、甲板にいる人間の確認であった。自分たちを含め全部で九人、男が五、女が四。
「ねぇここにいるのって、全員私たちとよく顔を合わせている人たちよね」
「うん、そうだね。毎日会ってた」
 しかし食堂以外では会ったことがない。学年、専攻が違うせいだろう。メーアもそうに違いない、過去に彼らと会話をしたことがあるのなら名前がぽんぽん出てくるはずだから。
「今年だけじゃない、去年の学年末の休暇でも顔を合わせていたはず」
「よく覚えてるね」
「私、記憶力いいのよ」
 要するに、例の白い封筒を受け取ったのは全て同じ学校の生徒。尚且つ、学年末の休暇に入っても例年帰省をしていない生徒。そんな生徒は限られている。実家で生誕祭に関係のある仕事を請け負っている者たち――実家が名誉ある神殿指定造屋であるにも関わらず、その家業を継がないことを決めた者たちだ。そんな生徒たちの家庭環境を把握しており、手紙を出した人物とは……。
「学生諸君!」
 言葉通り、声が降ってきた。見上げると、船室二階の上、手すりから身を乗り出している老齢の男性が。彼を確認するや否や、生徒たちが顔を見合わせた。あれは。
「……学校長でしたか」
 リベルたちの通う学校の長、シュレー学校長その人であった。彼だけでない、その脇にはベルグ先生やフロラ先生等、教師陣が並んでいる。
 思えばベルグ先生は、リベルが何も言わない内から、この週末に何かあるであろうことを知っていた。ベルグ先生の手伝い以外に先約があることを知っていた。
 当然だ。
 手紙も。
 チケットも。
 船も。
 全て学校が用意したものなのだから。
 シュレー学校長が声を張り上げた。
「特別講義を執り行う」



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