9.山の祠の真実


「兄、って……ええっ!?」
 彼の口から発せられた言葉に、リリは頓狂な声を上げた。イプトゥは斧を、サーイェンは弓を下ろした。アユティニは一歩、二歩と後ずさり、膝が力なく折れてその場に座り込んだ。リマ=グヌン山頂の祠に現れたのは神ではなく巫女の兄で、人間である、と? そう言われても頭がついていかない。
 神の光と力に包まれたハリマオとブルムを従える様は温かく、眩しく、また古くからずっと知っているような懐かしさをも覚えた。あれが神なのだと言われればああそうかと納得する。しかし髪や目、肌の色、顔立ち等の特徴は、驚くほどにアユティニと似通っている。
 まさか、本当に?
「アユティニの、兄さんだって言うのか?」
 イプトゥの問いかけに、巫女の兄を名乗る男は頷いた。
「ああ。先代の巫女の第一子、名をワヤンという」
「まさか……」
 なぜ巫女の兄が、ダナウの民がここにいるのか。
 それはいつからのことなのか。
 ナッ=ヤァはどこにいるのか。
 疑問がいくつも生まれては言葉にならずに消えていく。唾を飲み込んでも喉の奥はからからで、声がうまく出てこない。
「では」リリの声はかすれていた。「神は、ここには」
「神はここにはいない」
「っ!!」
 何ということだ! なぜリマ=スンガイが氾濫したのか。湖の水位上昇を食い止める手立てはないのか。神と対話する為に族長の反対を振り切って陸へ上がったというのに、対話する相手がいないとは!
「道中おかしいと思っただろう。神話に登場しない『神の使い』なんてものが現れて、しかも敬虔なダナウの民を追い返そうとしたのだぞ? ここへ来る前から何かが変だと感じていただろう?」
「しかしわたしたちはナッ=ヤァを信じて」
「信じた結果、ここにいたのは俺だった。山に住むただの、ダナウの民だ」
「そんな」
 一行は言葉をつまらせた。何も言えなかった。ブルムの羽ばたき、ハリマオの喉鳴らし、風が梢を揺らす音すらうるさく聞こえる。
 そんな中口を開いたのはアユティニだった。
「サーイェン」
 絞り出すような細い声だった。
「はい、巫女様」
「これは、夢か何かだろうか」
 頼む、そうだと言ってくれ。言外に巫女の願望が伝わる。
 しかし真実とは残酷なものだ。
「いいえ巫女様、夢ではありません。現実です」
 従者の返答に巫女は顔を上げた。地を蹴り、彼に近寄って腕を引く。
「お前は知っていたのか、あの男のことも、全部!」
 俯いたサーイェンはいやいやと首を小さく横に振る。なおも詰め寄るアユティニから顔をそらす。二人の様子を見て、ワヤンは高らかに嗤った。
「無駄だぞ、巫女。そいつは何も言わない」
「っ! お前にサーイェンの何が分かる!」
「分かるさ、そいつは黙ることを義務付けられているのだからな」
「義務? 誰から……」
「それは」
 茂みががさりと鳴り、それを見たワヤンはにいと口の端を上げた。
「あいつがよく知っているさ。なあ……族長?」
 陰から姿を見せた老人はよく知った人物――族長のサマリだった。
「族長? なぜここに」
 驚いて目を丸くするアユティニに、サマリは刈り上げた白髪を撫でて肩をすくめる。
「我々には山に入ってはならぬという掟があるからの、やはりお主らが心配で、あとを追ってきたのじゃ。何事もなければそれでよし、先に下山して、湖でお主らを待つつもりじゃったが……」
「白々しい!」
 サマリの言葉を遮ってワヤンは吐き捨てた。ワヤンの足周りの草が萎びた。
「嘘をつくな。正直に言え、俺がこいつらに会って、大事な秘密を漏らしはしないか見張りに来たのだと!」
「山の子よ、空想でものを言うでない。儂はお主のことなど」
「知らないとは言わせぬぞ、俺をここへ捨てに来たのはお前ではないか!」
 ――何だって?
 皆の視線がサマリに集まる。族長は何も言わずに、わなわなと唇を震わせた。
 ワヤン曰く。ダナウの民の巫女は古より女の務めであった。巫女が身籠った女児は、生を受けた瞬間に次代の巫女となることを定められる。そして生まれ落ちるその時に全ての力を母より託され、代わりに力を失った母は死ぬ。こうしてダナウの民の巫女はこれまで受け継がれてきた。
 しかし巫女も、神に近い存在とはいえ、人間である。女児を産むこともあれば、男児を産むこともある。男児は子を産むことが出来ぬ、それゆえ寺院に不要。この為巫女の元に生まれた男児は、ダナウの民が絶対に立ち入らない山の中へと捨てられていた。この役目を担ってきたのが族長の家系である。族長はリマ=グヌンの山頂に祠を建て、ここに男児を捨て置いた。生後間もない男児が山中で生き長らえることが出来るはずもなく、彼らは人知れず死んでいった。当事者が死すことで族長の不誠実は隠蔽されてきた。彼らは巫女を守る為に、民の神への信仰心を逆手にとって真実を隠してきたのである。
「だが綻びが生じた。先代の巫女は、生まれた俺を山へ捨てることをよしとしなかった」
 先代の巫女は生まれた息子を手放すことを拒んだ。彼女は寺院の自室にワヤンを匿い育てた。例え民に不要と言われようと、先代の巫女は息子と一緒に生きることを願ったのである。
 それでも時は訪れる。第二子は女児だった。まばゆい光が先代の巫女と次子を包み、巫女の力が引き継がれていく。ワヤンが母の手を握ると母も握り返してくれた。その手は温かく、しかしすぐに力を失った。産声を上げる妹の傍らで、母は静かに息を引き取った。
 次代の巫女が生まれたという知らせはすぐに族長の耳にも入った。先代の巫女が死すればもう邪魔をする者はいない。要らぬ男は捨てるまで。ある晩族長はワヤンを連れ出すと山へ分け入り、そして。
 彼を一人、置き去りにした。
「これが族長の、本当の役目だ」
 ワヤンが話し終えてもなお、サマリは無言を貫く。ひとつ息を吐き出して、ワヤンは今度はリリを見た。
「神に愛されし娘。お前のその力、不思議だと思わないのか」
「不思議……とは思いますけど……そういうこともあるのだと族長は」
「俺の話を聞いて、あいつの態度を見て、まだあいつを信じるか!」彼は族長を指差し、「何が『そういうこともある』だ、ある訳ないだろう! お前に能力を与えたのは俺なのだから!」
 死の間際の母に触れ、ワヤンはひとつだけ、本来であれば妹に継がれるはずの力を奪い取った。それは、結晶化した神の力を『見る』能力だった。ワヤンにとってその能力に価値はない。ただ全てが妹にだけ継がれていくのが面白くなかった。だから奪った。奪うことそのものに意味があったのであって、力をもっていても仕方がない。要らない。集落にとっての自分と同様だ。なら捨てればいい――判断した彼はすぐ行動に移した。強引に手を引かれ舟に乗せられ山へ向かう途中で一人の少女と目が合った。母から奪った能力を全て少女に押し付けてワヤンは湖を去った。
「その子がリリだった、ってのか……?」
 イプトゥの問いかけに彼は頷いた。これが今の、ダナウの民の真実なのだ、と。
「じゃあ、サーイェンがいろいろと知っているのは」
「山に迷い込んできた時に俺と会ったからだ。サーイェンは俺に訊いた、『なぜひとりなのか』と。俺は全てを話した。それを知った族長は、俺のことを口外することを禁じた。集落への滞在を許可する代わりに、山で見聞きしたことを何一つ話すなと命令した上で、巫女の従者の役目をもたせたのだ」
「そんな……私はそんな話、聞いたこともないぞ」
 アユティニの声は震え、上ずっていた。よろめいて転びそうになった彼女をサーイェンが支えた。
「族長、本当か」
 サマリは両の拳を握り締めた。
「……いずれ時が来たらお伝えしようと思っておりました」
 その返答は、全てを肯定したのと同義だった。
 サマリ最大の誤算は、捨てた男児が死ななかったことだった。生まれてから捨てられるまで僅か数年ではあったが、その間に彼は成長し、身を守る術を知ってしまった。自力で危機から脱却する術を身に着けてしまった。ハリマオやブルムに出会ったことで生き方を見つけてしまった。それがなければこうして捨てたはずの男児と再び相対することもなかったのに。あの時死んでさえいればワヤンはサーイェンと出会うこともなく、サーイェンは何事も知らないままだったのに。
 複数の要因が重なり合い、事実は白日の下に晒される。
「歴代の長は表に出ないところでやってきたが、それも限界ということじゃな」
 やれやれとサマリは嘆息した。
「まさか……なぜ、このような」
「ダナウの民の、古くからの慣わしゆえ」
 今までずっとそうだったから。
「……っ! そんなつまらない理由で殺された人間が、過去に何人いると思っている!」
「これが信仰というものじゃ」
「誰かの命を犠牲にせねばならぬとは、それは邪神というものだ!」
「言葉を慎め!」
「ふざけるな!」
 ワヤンの足元で草が枯れ、そこからごぽりと水が湧いた。初めは小さな水溜まり程度、それがみるみる大きくなる。
「長い時間がかかった……だが俺は、やっとこの術を会得した」
 水はワヤンの足元だけに留まらなかった。水は意思をもったかのように地を這っていく。向かった先は、リマ=グヌンから湖へ向かう川、リマ=スンガイ。川は更に水量を増して湖に流れ込む。
「リマ=スンガイの氾濫はお前の仕業だったのか!」
 アユティニの叫びに、ワヤンは無言を答えとした。
「全てを流そう、族長の罪を。集落ごと」
「何をするつもりだ」
 サーイェンが放った矢は水溜まりから飛び出した水の刃に弾き飛ばされた。力なく落ちた矢は流れに飲み込まれ、すぐに見えなくなった。
「お前も邪神を信じるというのか、サーイェン」
「違う、私が仕えるのは巫女様だけだ」
「同じことだ。だったらお前も……」
 ワヤンが手を上げるとハリマオが唸り、ブルムが強く空を打った。地が震えだす。勢いを増した湧き水が高く噴き上がる。幾本も立った水柱は再び地に落ち、風に煽られてうねり、全てを押し流す濁流となる。
「消えろ!」
 何が起こったのか理解する前にリリの視界は反転した。空が見えたかと思ったら今度は水面に叩き付けられ、波に襲われる。水に沈んだ木々が走るよりも速く流れていく。どれだけ水を掻いても流れに逆らえない。水から顔を出すことも出来ない。苦しい。息が出来ない。意識が、だんだん、遠くなる。
 そして――。



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