8.神の使いの導き


 先に進むにつれて山の斜面は大きくなり、道は険しくなった。獣道すらなくなった。踏まれて折れた形跡のない草が生え放題で、踏み締められていない地面は柔らかく、一歩進む度に足が沈み込む。足場を確認しながら下草を払う作業はイプトゥにすら重く、彼が進む速度はがくっと落ちた。前に進むだけで精いっぱいだった。ただ足の裏が痛かった。
 それでも日は規則正しく昇り、沈んでいく。明るい間は先を急ぎ、暗くなったら身体を休める。時には倒木の陰で、時には大岩のくぼみで。疲労のせいかそんな場所でもすぐに眠れてしまう自分に驚きを隠せないリリだったが、それでも横になってから眠るまでのわずかな間には、いろいろと考え込んでしまうことがあった。というより、歩いている間は何かを気にかける余裕すらなく、眠る直前になって不安が押し寄せてきてしまうと言った方が正しいかもしれない。
 例えば神の使いの襲撃の意味するところである。考えれば考えるほど湖底の暗闇を思い出してしまう。冷たく暗く、ナッ=ヤァの力及ばぬ集落の中心、寺院の下。やはりナッ=ヤァは集落の人間に敵意を抱いているのだろうか。だからリマ=スンガイを氾濫させ、全てを押し流そうとしているのだろうか。これについては一度だけ、アユティニにそっとこぼしたことがあった。彼女はリリの腕を抑えて首を横に振った。
「あまり考えるのはよそう。山頂に着けば答えはあるんだ、今悩む必要はない」
「そう……だよね」
 巫女に諭されれば安心出来る気がした。空気が冷える中、触れた彼女の手の温かさで眠りにつく日々が続いた。
 湖を発って数日、リマ=グヌンの頂上も近付いてきた頃。その日の空は厚い雲に覆われていた。山頂の雲は大気中の水分を取り込みながら重さを増し、山肌に沿って下りてくる。次第に視界が悪くなり、気づけば少し先を歩くイプトゥですら輪郭がぼやけるようになってしまった。こうなってはもう進めない。四人がはぐれてもいけない。一行はその場で足を止めた。
「少しここで休憩だな。霧が晴れたらまた進もう」
 斧を地面に突き刺してイプトゥがその場に座り込む。リリもそれに倣って腰を下ろし、疲れ切ったふくらはぎをさすりながら大きく息を吐いた。
「山頂、遠いよねえ。どうしてナッ=ヤァはそんなところにいらっしゃるんだろう」
「祠がそこにあるからな」
「その祠をわざわざ頂上に建てたってのがまた……」
「ナッ=ヤァは頂上にいるんだから、頂上に建てるのは当然だろ」
 うんうん、と聞いていたアユティニがここで首を傾げる。
「待てイプトゥ、お前、おかしなことを言っているぞ」
「おかしな?」
「祠が山頂があるから神はそこにいらっしゃる、神が山頂にいらっしゃるから祠をそこに建てた。矛盾していないか?」
「……あ、ほんとだ」
 神話によれば、神は五山を作ったのちにその内のひとつであるリマ=グヌンに留まったという。リマ=グヌンのどこかとは伝えられていても、それが山頂かどうかにまでは言及していない。「下の世界がよく見渡せるようにじゃないの?」というイプトゥの推測はもっともらしく聞こえるが、それが史実と等しいとは限らない。
「仮にそうであったとしたら、祠を建てた人間はかなり……」
 そこまで言って、巫女は口を押さえた。
「祠を建てたのは……誰だ?」
 祠の存在は、これまでダナウの民の間で当然のように語られてきた。リマ=グヌンの頂の祠には神・ナッ=ヤァがおわすと、集落の子供たちは皆教わってきた。それが唯一無二の真実である、と。
 しかし今までなぜこの事実に気付かなかったのだろう、落ち着いて考えれば分かる話なのに!
 ダナウの民は山に入らない。イプトゥたちであっても、伐るのはせいぜい山の中腹程度の木である。山頂に祠を立てるなどありえない。また、五山の外の人間が立てた可能性もないと言っていいだろう。彼らが陸地で生活していることが何よりの根拠だ。ナッ=ヤァを神と崇めているとは考えにくい。
 ならば、誰が祠を建てた?
 誰がリマ=グヌンの頂上に祠があると伝えた?
「神の居場所を知り、なおかつ祠を建てる技術をもつ者……いったい誰が」
 誰もが疑わなかった祠について、しかしこの場にはこれを異なる視点で見ることが出来るものがいる――巫女は横目で従者を見遣った。
「サーイェン、何か知っているか?」
 彼は過去にナッ=ヤァに会っている。伝承にはない、『神の使い』なるものの存在を知っている。ならば他にも、アユティニたちが知らない、彼だけが知っていることがあるのではないだろうか。
「どんな些細なことでもいい、何か……」
 アユティニの手がサーイェンの肩に触れたその時だった。
 目の前の木が激しく燃え上がったのだ。
「何だ!?」
 突然の出来事にサーイェンは立ち尽くし、イプトゥは身構え、アユティニはリリをかばうようにして抱き締める。リリは湖底を泳ぐ時のように目を凝らす。
 燃え上がった木は――いや、木は燃えていなかった。燃えるように見えるそれが、木の枝に降り立ったのだ。
 ほんのわずかに先でも見失ってしまうような霧の中で、炎のようにも見えるその光ははっきりと見えた。光を纏う正体の姿かたちは鳥に似ており、燃えるような赤い色の身体は丸々としていた。身体の大きさに対して頭は小さく、しかし一見そう見えないのは後頭部から垂れる飾り羽の為。身体の大きさから察するに、今は畳まれている翼を広げればリリの身長を優に超すだろう。
 サーイェンはゆっくりとアユティニを振り返った。
「巫女様、私の知っていることのひとつです。あれはブルム。先日のハリマオと同じ、神の使いです」
「神の使い? また……?」
 困惑する巫女に、一行に、ブルムは甲高く鳴く。
『ハリマオから忠告があったでしょう? それなのにあなたたちは、なぜ聞かないのですか』
「我々はナッ=ヤァと話さねばならぬことがある」
『それでここまで登ってきた、と? まったく、ご苦労なことですね……』ブルムの声音は呆れたとでも言いたげだが、『とはいえ、ブルムはハリマオのようにあなたたちを追い返そうとは思いません』
 ブルムが大きく翼を広げて羽ばたいた。風が巻き起こる。
『彼との対話があなたたちの望む結末をもたらすとは、ブルムは思いません。しかしそれでも望むというのなら、彼の元へお連れしましょう』
 風は木々を揺らし、リリの衣装をはためかせ、深い霧を払う。雲がなくなり太陽が顔を覗かせる。
 霧が晴れた先に、祠が見えた。
 大樹の根元に祠はあった。湖の寺院と同じく一本の柱が小さな建屋を支えており、それを枝葉から漏れた日の光が照らしている。
「ここが、祠……」
『ええ』
 ブルムの返答に自然と足が動いた。棒のようになっていた足がまだこんなに速く動く。それをどこか他人事のように見ている自分がいることに、リリは驚いた。祠の前に着く頃にはほとんど駆け足で、息を切らしながら膝をつき祠の扉に触れた。
「ナッ=ヤァ、わたしたちの話を聞いてくださいませんか」
 さわ、さわ、という木の葉が触れ合う音、ブルムの羽音が聞こえてくる。問いかけに対する神からの応えは、ない。
 代わりに獣の唸り声が耳朶を打った。聞き覚えのあるそれに肝を冷やしてそろそろと振り返る。目を見開き、両手で口元を抑えているアユティニが視界の端に入る。既にイプトゥが斧を手に身構え、サーイェンが矢をつがえている。
 三人の向こう側で白い巨躯が跳ねた。音もなくひらりと着地し、爪を立てて再び唸る。全身の毛を逆立てたハリマオの背には誰かが――まさか、人が乗っている?
「よし、いい子だ」
 その人物はハリマオの首筋を撫でて滑り降り、顔を上げてこちらを見た。目鼻立ちがはっきりとした男性だった。
「あなたが」リリの声は震えていた。「あなたが、神・ナッ=ヤァ……?」
「違う。俺は神ではない」
「それでは、あなたはいったい」
「俺は」
 男性はゆっくりと腕を持ち上げ、まっすぐにアユティニを指差す。
 肌は褐色で、藍の双眸はらんらんと輝き、宵闇のような暗い藍の髪には艶がある。この男性は。
「俺は……そこの巫女の、兄だ」



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