10.娘の愛の中


 名を、呼ばれた気がした。
(だれ?)
 問いかけようにも声が思うように出なかった。誰かがリリを呼んでいるのに、それに応えることが出来ない。
 首を回してみる。何も見えない暗闇が広がっている。どこに立っているのか、名を呼ぶ人物がどこにいるのか、それどころか自分の手元足元すら見えない。足を動かしたが移動する感覚がない。手を振ってみても何にも触れない。
 果てしない闇に不安と焦りを覚え始めた頃、小さな光が現れた。リリはそれを目指した。必死に手足を動かした。光は徐々に大きくなった。こちらが近付いたのか、それとも向こうから近付いてきたのかは定かではない。いずれにせよ光は眩しく周囲を照らす。そっと触れると今度ははっきり聞こえた。
「リリ」
(その声は……)
 腕を掴まれる感触。深い底から強く引き上げられる感覚。身体が、意識が、浮上して。
 リリは上体を起こした。
「リリ! 気が付いたか!?」
 アユティニが顔を覗き込んでいる。何事かと記憶を辿ろうとしてはっとした。
「わたし……」
 目を覚ましたそこは寺院だった。木板の天井や壁の広い空間、記憶にある通りの、よく知った一柱寺だ。しかしいつもと雰囲気が違うように思えるのは、この場に人が多いせいだろう。数日前、リマ=スンガイをはじめ集落周辺の川や湖底を調査した結果を報告し合った時も多くの人間が集まったが、あの時と同じくらいか、それよりも多いくらいかもしれない。
(まさか!)
 飛び上がるようにして立ち上がる。水を吸った衣装が貼り付き満足に動かせない足で窓に駆け寄る。暴れる心臓を押さえつけて窓枠を掴む。
 外に広がっていた光景に、リリは息をのんだ。
 湖の水量はかつてないほどに増大していた。水面近くに作られた橋は全部水没した。床下、床上浸水した家屋も見える。板の破片が流れているから、一部の家屋は倒壊したことが窺える。方々に舟が浮きまっすぐこちらに向かってきているのは、それら建物から退避せざるを得なかった証だろう。
 多少雨が続いた程度ではこうはならない。確実にリマ=スンガイの氾濫の影響だった。
「酷いものだろう」
 隣に立った巫女が奥歯を噛んだ。
「リリ、怪我はないか?」
「ちょっとかすり傷があるけど、平気」
「そうか、よかった」
「アユティニこそ大丈夫?」
「ああ。私だけではない、サーイェンもイプトゥも」一度言葉を切ってから、「族長はまだ目を覚まさないが、目立った怪我もないし、命に別状はないそうだ」
「そっか……」
 どう返すべきか迷い、その後の言葉が続かない。どちらからともなく視線を外して眼下を見る。
「私たちはあの男の喚んだ水に流された。あれが全てここに溜まってしまっている。集落の皆は、異変に気付いて自主的にここへ避難しに来たそうだ。流された者はいない、皆無事だ。しかし」
 アユティニは首を横に振る。
「このままでは……ここも長くはもたないだろう」
「そう……だよね」
 集落で最も高いところに位置する寺院である、浸水の心配はほとんどない。気になるのは柱の方だ。一本柱が水の暴力にどこまで耐えらえるか、誰にも分からない。寺院が倒壊すれば、その時は本当に終わりだ。
 ふと、ひとつの小舟が目についた。荷物などほとんど持たず、ずぶ濡れで櫂を握る夫婦が乗っている。その夫婦を知っているなんてものではない。あれは、リリの両親だ。
(うちも……やっぱり)
 やはり根本から解決する他ない。その為にせねばならぬことは、ひとつ。
「っと」
 リリは窓枠に右足を掛けた。
「ちょっリリ! どうするつもりだ!」
「わたし、あのワヤンって人ともう一度話してくる」
「何を言って」
「話して、こんなことやめるように説得する」
「やめろ! 危ないから、やめるんだ!」
 左足も掛けようとしたが、アユティニが腰回りを掴んで妨害してくる。二人の攻防を見たイプトゥも駆け寄ってきてアユティニに加勢した。
「何やってんだお前!」
「ちょっと二人とも、離してよ」
「離したら飛び降りるつもりだろ! 危ないって!」
「でもワヤンを止めないことには、何も解決しないから」
「それは……」
 アユティニもイプトゥもぐっと押し黙る。正論には頷かざるを得ない。
 リリは笑ってみせた。
「きっと、大丈夫だから」
 脱皮するように袖から腕を抜く。日頃から身に付けている簡素な服が現れる。二人の抑止から解放され、リリの身体は窓枠を越えた。壁を蹴って頭から落ちていく。最中、身を反転させると何事か叫ぶアユティニとイプトゥ、それからいつものように屋根の上に立つサーイェンが見えた。彼女らに小さく手を振って、リリは湖に飛び込んだ。
 山から流れ込んだ水は冷たかった。土をも運んできた水は濁っており、水面近くの明るい場所でもろくに先を見通せない。しかしその程度、リリの障害にはならない。剥き出しになった肌が水を感じる。水の温度はリリの感覚を尖らせる。今のリリには目の前に流れる砂粒ほどの神通石の結晶すら『見る』ことが出来た。
 深く、深く潜っていく。日の光届かぬ、神の力さえない真っ暗闇だ。なぜ寺院下の湖底に力を感じなかったのか、ワヤンの話を聞いた今なら分かる。先代の巫女はアユティニに全てを託し、ワヤンを残して他界した。これを発端とする負の感情が、山に渦巻く神の力の流れを変えてしまったのだ。言い換えればワヤンの意識は、この寺院に縛られているということ。とすると、湖底からなら彼と対話が出来るはずだ。
 潜る途中で掴んできた神通石の細かな粒を握り締めて胸に当てた。
 ――あの、聞こえますか?
 静寂。水の流れる音だけが耳の奥で響く。徐々に息苦しくなってくる。あまり長くはもたない。一度浮上してもう一度潜るべきか。考えていると、さらさらという硬質な音が流れに交ざった。目を凝らせば輝く粒が一点に向かって集まっている。それはやがて人の形となり、ワヤンの顔が暗闇に浮かび上がった。
 ――もうこんなこと、やめましょう?
 ワヤンは首を横に振る。
 ――族長がこれまでしてきたことならこれから皆で話し合うから。だからあなたも。
 ――ふざけるな!
 ワヤンの声はリリの頭に直接届いた。
 ――やっぱり……族長が許せませんか。アユティニを受け入れられませんか。
 ――当たり前だろう!
 ――でも……!
 更なる説得を試みようにも、そろそろ息が続かなくなってきた。それを察したワヤンはリリを押し戻すように水流をつくる。
 ――立ち去れ。
 リリの身体が押し上げられる。ワヤンの顔を形作る光の凝集体が遠ざかっていく。
 ――待って、まだ話が終わってません!
 流れに逆らい水を蹴る。苦しい。もう無理だ。息を継がねば死ぬ。意識が遠退いていく。
 しかしある時、ふっと身体が軽くなった。もう苦しくなかった。手足は水中を滑るように動き、軽快に水を掻いた。周囲は明るく、呼吸が出来た――ここは湖の底なのに!
「何これ!」
 驚くリリの頭の中でワヤンの舌打ちが響いた。
 ――ナッ=ヤァか。
「えっ、何?」
 聞き返している間にも周囲の明るさは増し、リリを包み込む。光はリリの冷えた身体を優しく温める。
 ――神に愛されし娘、そういうことか。
 山に神はいない。しかし同時に、どこにでもいる。例えば言い伝えられる神話の中に。例えば人の信仰の中に。
 ここには全てを押し流し無に帰そうとするワヤンと、全てを救おうとするリリの、相反するふたつの望みがある。二人の信仰から現れた神・ナッ=ヤァはこれらの望みを前にして、リリの手をとった。集落の存続があるべき世界の姿なのだと、神が導きを示したのである。
 ――それが神の答えって訳だな。
 全てを諦めたように、溜め息混じりにワヤンは言う。そして、やがて。
 水の流れが緩んだ。
 リリは目を見開いて光の凝集体を振り返った。近付いて、輝く腕を取ろうと手を伸ばす。しかし光はリリが触れる前に霧散した。
「どうして!」
 ――俺は神ではない。
 ちょうどリリの目の前を魚が通った。魚は突然痙攣して身を横たえる。わずかの間ぴくりともせずにたゆたい、そしてまたひれを動かし始める。魚は何事もなかったように泳ぎ、深く潜っていった。
 ――そして、人とも異なる存在になった。
 感情で草を枯らす。魚を死なせ生き返らせる。神の使いを従えて山の水を操り、集落の生活に影響を及ぼす。山で過ごした時間は、ワヤンを人ならざるものに変えるには十分だった。
 ――最後だ、お前にもうひとつ人ならざる力を披露しよう。
 光が再び凝集し、鳥と獣を形作った。その間に集まった光は腕の形になる。腕はリリの手を取り、強く握る。
 ――これでお別れだ。
 視界が光に包まれ、やがて暗転した。



   ◆



 目を覚ましたそこは自宅だった。初めに目が合ったのは母親で、起き上がるやいなや娘を抱きしめた。
「ああもうあんたは、危ないことを! でも無事でよかった……」
 日頃そんなことをされることなどほとんどない。リリは驚いて母親の身体を押し返した。
「やだ、お母さん? どうしたの?」
「リマ=グヌンから戻ってきて、そうしたらまたすぐに増水した湖に飛び込んだっていうから!」
「飛び込んだ? 誰が? わたしが?」
「……覚えてないのか?」
 父親からの問いかけにリリは首を横に振る。
「ううん、全然……」
 リリの最後の記憶から既に三日が経っていた。湖の水位が急上昇した直後にサマリを含む五人は流されてきて、リリはそのあと湖に飛び込んだ。しばらく経っても浮上せず誰もが心配していたが、突然水位が下がり始めた。寺院に避難していた者たちが何事かと螺旋階段を降りたところ、寺院下の足場にリリが倒れていたという。
 ある者は言った、ナッ=ヤァの加護だと。
 またある者は言った、さすが神に愛されし娘だと。
 無事に目を覚ましたことを報告する為イプトゥに連れられ寺院に出向いたリリは、そこでアユティニから一部始終を聞いた。
 湖の水量は元に戻った。水に沈んでいた建物が水面より上に出た。しかし元通りになったとは言えない。半壊、或いは全壊した建物がある。家財が流された家も多い。長い時間はかかるだろうが、これから元に戻していかなければならない。「復旧作業は族長を中心に行う予定だ」と巫女は言った。
「族長のしたことは許されることではない。しかし我々は神の導きに従うまでだ。神は濁流の中でも我々の命を奪わなかった。つまりそれは、生きよという神の意思なのだと、私は思う。ならば族長は、今後もダナウの民の役に立ってもらわねばならぬな」
「いいんじゃない? これまで俺たちをまとめてきたのは族長だ。今は集落が混乱してるんだから、族長に役目を負ってもらわなきゃ」
 イプトゥが肩を竦め、壁際で立っていたサーイェンが小さく頷く。リリも同意する。
 窓の外を見れば、橋の泥汚れを落とす者、屋根の補修を始めている者、木材を舟で運ぶ者も見える。集落は早速動き始めていた。
「これもリリのおかげだ。リリが水位を下げてくれたから、集落はまた生まれ変われる」
「そんな、わたし、何もしてないよ」
 顔の前で手を振って見せる。何も覚えていないし、何かをした自覚もない。おかげ、だなんて言われても困るだけだ。ただ……じわりと温まる感覚を覚え、リリは胸に手を当てた。
「わたし、ナッ=ヤァと話をしたような気がするの」

 山に神はいない。しかし同時に、どこにでもいる。例えば巫女の祈りの中に。娘の愛の中に。



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