7.神の使いの忠告


 少し歩いては休み、また少し歩いては休み、を繰り返す。なかなか先へは進まないが、それでもリリの身体は陸上の環境に慣れてきた。歩を進めながら周りを見回す余裕さえ出てきた。頭上で鳥の群れが飛び立ったかと思えば足下で握り拳ほどもある虫が跳ね、それを追いかける小さな動物が駆け抜けていく。一匹目は素早くあっという間にいなくなってしまったが、続けてやってきた二匹目三匹目の動きは緩慢だった。先程のよりも一回り小さいから、おそらく子供だろう。全身の淡茶色の毛は柔らかそうで耳と尾がすらりと長く愛らしい姿ではあったが、毛で隠れていても分かるほどに後ろ足が太く、筋肉質だった。
「可愛い! ねえイプトゥ、これはなんていう動物なの?」
「クリンチだよ。うちの父さんはそう呼んでた」
「山にならどこにでもいるの?」
「んーそうだなあ、そういやいろんなところで見かけるな」
 見事虫を捕らえた親クリンチが戻ってきた。くわえていた虫を放し、子クリンチの前に置く。二匹の子供がそれに噛みつく。確かに姿は可愛らしいが、食事する姿はちょっと……リリはその光景から目を逸らす。さ迷った視線は後方に流れ、そこでは疲れを隠せず額の汗を拭うアユティニの顔を、サーイェンが覗き込んでいた。
「巫女様、お加減がよろしくないようでしたら、この先は私がお連れいたします」
「どういう意味だ、サーイェン」
「私が巫女様をおぶさって……」
「断る!」
 むきになった巫女が歩みを早める。もちろん長くは続かず、すぐに肩で息をし、遂には足が止まる。膝に手をついて息を切らすアユティニを支え、リリは先頭のイプトゥを呼び止めた。
「イプトゥ、待って。ちょっと休憩しよう」
 その場で腰を下ろしたアユティニの隣で膝をつき、背負ってきた袋の中から水の入った革袋を取り出す。それを受け取ったアユティニは一口だけ含み、すぐにリリに返した。
「え、もっと飲んでいいよ? すごく汗かいてるし」
「いや、まだ登り始めたばかりだ。ここで飲み干すことは出来ない」
「そうだけど……」
「まったく、ここまで体力がないとは、自分でも呆れるよ。これまで神通石の収集をリリに任せっぱなしだったツケが回ってきたな」
「でもそれは」
「ああ、仕方のないことだ。私にはナッ=ヤァの力が『見』えないのだから」
 こんな時に、巫女は自虐的なことばかり言う。何か、話題を変えなければ……リリは正面に立つ黒尽くめの少年を見上げた。身体のほとんどを黒い衣装と防具で覆っているサーイェンだが、唯一目元だけは外から見ることが出来る。まっすぐな黒髪、宵闇のような瞳の目は切れ長で、肌は透けるように白い。リリが日焼けをしていることを差し引いても肌の色が全然違う。それは人としての由来が異なっていることを示していた。
 サーイェンは、元は集落の人間ではない。五山の外からやってきた、乱暴な言い方をすればよそ者である。大人たちの噂話を齧り聞いた程度にしか知らないが、五山の外の村の住人だった彼は、幼かった頃に村の何かしらの都合で山に捨てられた。たった一人では何も出来ぬような幼い子供である、そのまま山で命を落とすはずだった。しかし彼が今も生きているのは、ナッ=ヤァが彼を救ったからだった。神の加護もあって奇跡的に山を越えた彼は湖のほとりでダナウの民と出会った。神の加護を受けた者は神に近しい存在である。ダナウの民は小さな来訪者を歓迎した。そして今サーイェンは、こうして巫女の従者を務めている。
 ……そうだ、彼はもともと陸の人間だ。
「ねえ、サーイェンは、山の向こうから来たんでしょう?」
 リリの声に振り向いて従者は頷く。リリはそれに少しだけほっとした。寺院に神通石を届ける都合で頻繁にアユティニのもとを訪れていたし、その度にサーイェンとも顔を合わせていた。しかし彼はただ静かに巫女の傍に控えているだけで、リリたちの会話に入ることも、必要以上に近付いてくることもなかった。ろくに話したことはなく、顔見知りの割にリリはサーイェンのことを知らないのである。
 そしてダナウの民の集落は、五山の外側とほとんど交流がない。皆無と言ってもいい。ダナウの民はナッ=ヤァに守られた湖から出ようなんて思わないし、外側の人間も五山を越えてまで水上集落を訪れようとはしない。だから、サーイェンのように外からやって来て、その上集落に住み着くなんていうのは前例のないことだ。ということは、もしかしたら過去の話は彼にとって触れてはいけない話題かもしれない。それでもし怒らせてしまったら、という一点が気がかりだったのだ。
 相変わらず表情はよく分からないが、何かしらの返事をくれたということは、リリと会話を続ける気がない訳ではないのだろう。そう受け取ることにして言葉を続ける。
「山を越えてきた時のこと、覚えてる?」
「まあ、多少は」
「その時ナッ=ヤァには会ったの?」
「それは……」一度言葉を切り、少し考えてから「多分、少しだけ」
 幼い頃の記憶だから事実とは異なるかもしれないが、とサーイェンは前置きした。
 山の向こうの集落は、ダナウの民のように水上ではなく陸上に居を構えていた。水に入るのは身体を洗い清める時だけ。畑も陸上に作り、舟ではなく家畜に乗って移動した。野生の動物に出会えば男たちが矢を飛ばして仕留め、その肉は集落皆で分け合うご馳走だったという。
 その日も大人の男たちは動物を仕留めんと出掛けていった。幼かったサーイェンも同行した。初めての狩りだった。大きな角をもつ動物を追いかけた。何本も矢が飛んだ。しかし大きな角の動物は足が速く、なかなか捕まえられない。逃げる動物を追って大人たちは山に入った。サーイェンも続いた。
 山に入ってすぐにサーイェンは大人たちを見失った。姿が見えないどころか皆の声や家畜の足音すら聞こえない。皆、帰ってしまったのだろうか。自分を置いて? 忘れられてしまったのか? 疑問が頭をめぐったが不思議と悲しくはならなかった。誰かがすぐそばにいてくれた気がしたから。
「それがナッ=ヤァ……なの?」
「そうだった、ように思う」
「そう……本当に、ナッ=ヤァに……」
 サーイェンの話はリリにとって新鮮だった。神は山にいて、人間は谷間の湖に住む。人間は山に入ってはいけない。だから人間は神に会うことがない、会えるはずがない。それは当たり前のことだ。しかしサーイェンは神と出会った可能性がある。そんなことがあるものなのかと、リリは驚く他なかった。
 それに、ダナウの民には狩りをする習慣がない。そもそも陸に上がらないのだから、家畜以外の動物を見かけることもない。湖の上空を飛んでいく鳥くらいであれば目にするが、山に棲む生き物は神の使いである。それをとって食べるなんてことは、ダナウの民はしない。あまりにも馴染みがなく、『狩り』という言葉はリリの腹の底を握り潰すような、後味の悪さを残した。
 狩り……ということは? リリの目は再びサーイェンの弓に向いた。彼は頷いた。
「向こうの集落にいた男たちのものを真似した。動物を狩る為のものだ」
 ふと出立前にサーイェンが言っていたことを思い出す。『巫女様を守る為』――それで弓が必要というのなら、彼はいったい何と戦うことになるのだろう。
「守るって、何から……」
 言いかけたその時だった。草をかき分ける音、低木の細い枝が連続して折れる音、そして獣の低い唸り声が響いた。
「何だ!?」
 イプトゥが身構える。サーイェンの手が矢筒に触れる。アユティニがリリを抱き寄せる。
 草木の間から脚が伸びてきた。鋭い爪がぎらりと光る。イプトゥが振るった斧がはじき返す。全てが一瞬で、何が起こったのかリリにはとっさに判断がつかなかった。
 イプトゥが払った白い巨躯の獣は、赤い目が爛々としていた。目の周りと尾には緋色の縞があり、四つ脚は太く、地が震えるような声で唸る。口元からは牙がのぞき、見るからに獰猛そうではあるが、その毛並みは美しい。淡く光を反射するさまは神々しくもあった。
 リリにはその獣が明るく輝いて見えた。眩しいが決してぎらぎらしている訳ではない、優しさのある光だ。例えば暗い湖底でひとつの光を見つけた時のような、温かく慈愛に満ちた力を感じる。リリはこの力をよく知っている。
「まさか、あれがナッ=ヤァ?」
 リリは息をのんだが、サーイェンは首を横に振った。
「違う、ハリマオだ」
「え、ハリ、マ……?」
「ナッ=ヤァの使いだ」
「えっ!?」
 困惑するリリをよそにサーイェンが矢をつがえる。放つ。矢をかわしたハリマオは態勢を整え前脚を振り上げる。下ろされる前にアユティニが肩掛けの神通石をひとつ握りしめる。突如見えない壁が出現し、ハリマオの爪を受け止めた。
「神の使いだと?」
 壁で爪と競り合いながら、アユティニが横目でサーイェンを見る。
「そんなもの、聞いたことがないぞ」
「しかしあれは神の使いです。名はハリマオ、間違いありません」
「その使いというのが攻撃してきたということは、我々は神に歓迎されていないということだな」
「おそらくは」
「そんなの冗談じゃないぜ」
 イプトゥの斧が競り合いに加勢する。斧の背が爪を捉えてハリマオを押し返す。再びサーイェンが弓を構える。ハリマオも今度はかわしきれない。矢は頬をかすめ、一筋の傷を作った。
「サーイェン!」アユティニが叫ぶ。「傷つけてはならぬ!」
「しかしこのままでは巫女様が!」
「ならぬ!」
 巫女の命令で従者は矢を下ろした。ハリマオからの追撃を覚悟したが、ハリマオも後ずさった。二歩引いて、三歩目に背中を向ける。神の使いはあっという間にいなくなり、残されたのは踏み倒された草木と爪跡と。
『帰れ』
 ハリマオのこの一言だけであった。



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