6.出発の日の朝


 そうして集落の夜は明ける。

 第一の山・サトゥ=グヌンの向こう側が白み始める頃、リリは数日分の食料を入れた袋を舟に積んで自身も乗り込んだ。櫂を手に取り、自宅の柱に括りつけてあった縄を解いて、両親にしばしの別れを告げる。
「じゃあ……行ってきます」
 櫂が水を掻く。舟が前進する。何軒もの家を行き過ぎたところで肩越しに後ろを見ると、両親はまだ家に入らず、寺院へ向かうリリを見送っていた。小さく手を振って、その手を強く握り締める。再び前を向いてからは、リリはもう振り返らなかった。
 建ち並ぶ家屋の間を抜け、寺院近くの広い水路に出たところでイプトゥの姿を見つけた。
「イプトゥ、おはよう」
 リリの声に反応したイプトゥはこちらを見て目を丸くする。
「リリ? どうしたんだ、その服」
 驚くイプトゥにリリはふふと笑う。足元を覗き、水面に映る自分の姿を見てまた笑みがこぼれた。
 いつもの胸元と腰回りを覆うだけの簡素な服とは違い、昨晩母からもらった空色の服はリリの日焼けした肌によく馴染んだ。日頃は素足で過ごしているが、この日ばかりは靴を履いた。いつもと違う自分になったようで、これから山に登るというのに、リリの気分は高揚していた。
「どうかな、似合ってる?」
「いつもと全然違うからびっくりしたよ。まあ、いいんじゃない?」
「ん、ありがと」
 衣服をがらりと変えたリリに対し、イプトゥは普段とそう変わらない姿だった。身体に対し少し大きめの服を着て、革製の靴で脹脛下までを覆い、腰から斧を吊るしている。イプトゥが仕事で山に入る時の格好そのままだ。強いて異なる点を挙げるとすれば大きな布袋を背負っていることくらいで、これはリリと同様、食糧等が入っているのだろう。
「さ、アユティニとサーイェン連れて、とっとと行こうぜ」
「そうだね」
 寺院下の足場に舟をつけて見上げる。屋根の上に立っていたサーイェンが二人に気付き、するりと下りて寺院の中に消える。次に姿を見せた時には荷物を抱え、アユティニ、サマリと共に階段を下りてきた。
「おはようございます。族長もいらしてたのですか」
「こうなったのは儂にも責任があるからな」
「早くからご苦労だなあ」
「イプトゥ、族長に失礼だぞ」
「おっと、すみません」
 イプトゥを諌めるアユティニもまた、いつもとは雰囲気が違っていた。巫女衣装ではあったが、そこへ更に装飾品を多く重ねているのである。石をいくつも縫い付けた肩掛けをし、首からも紐でつなぎ合わせた石を下げている。石同士がぶつかり合い、かちかちと音を鳴らす。石は全て、神通石だった。
 しかし彼女よりも目を引いたのはサーイェンの弓だった。弓は彼の背丈ほどもあり、弦を肩にかけ、矢を入れた筒を背負っている。木製の黒い弓は磨き込まれており、朝日を鋭く反射していた。
「弓? どうして」
「巫女様を守る為だ。さあ、行くぞ」
 イプトゥの舟にサーイェンが、リリの舟にアユティニが乗り込んだ。寺院から出ることがほとんどないアユティニは舟に乗り慣れず、揺れる舟の上でバランスを崩す。膝をついた彼女を支えて座らせ、リリはサマリに向き直った。
「では、行ってまいります」
「くれぐれも、ナッ=ヤァの怒りに触れぬよう、気をつけよ」
「分かっておる。私が不在の間、集落を頼むぞ」
 アユティニの念押しにサマリが頷く。
「お任せを。残った者たちで橋や建物の保全を進めておきましょう。それから……不安のある者は寺院の広間に避難させますが、よろしいですかな?」
「もちろん。民の安全が最優先だ」
「承知」
 イプトゥの握る櫂が動き、舟が前進する。リリも後に続いた。
 舟は寺院を離れ、影が徐々に小さくなっていく。寺院と共に朝もやの中に輪郭をにじませる族長から目を話し、巫女は「すまないな」と俯いた。
「え?」
「湖の底……いや、寺院の下に神の力を感じなかったのは、私が神から信頼されていない証だろう」
「やだ、やめてよそういうの」
「悪いのは私だ、私だけだ。それなのに、私の力が足りないばかりに皆を巻き込んで……山に入ってナッ=ヤァの領域を侵せば、リリたちまで神の怒りを買うことになるかもしれない」
「んん……」
 リリは片手を櫂から外し、口元に当てた。
「その可能性はあるけど、まだ分からないよ?」巫女を振り向いて、「分からないから行くんでしょ?」
 ね? と、彼女は微笑んだ。
「気にし過ぎだよ。確かにわたしたち、小さい頃から山に入っちゃ駄目って言われ続けてきたから怖くないって言ったら嘘になるけど……でも、駄目って言われてることをする時って、ちょっとわくわくするよね」
「リリ、しかし……っ!」
 アユティニの言葉は続かなかった。舟が大きく揺れたのである。体重のかけ方を調節し、舟の傾きを小さくして顔を上げた。舟はもうリマ=グヌンの目の前、少し先にはリマ=スンガイの河口が見える。どうどうと流れ込んだ川の水が湖とぶつかって飛沫を上げ、リリの肌を濡らした。
「何これ、リマ=スンガイってこんなことになっちゃってるの?」
「うん。危ないから、離れよう」
 というより、一所懸命に漕いでやっと流されずにいられる程度なのだ、近付くのは難しい。先行するイプトゥの舟が川から離れる方向に舵を切り、リリも続けて進路を変えた。
 イプトゥが向かった先は、湖と陸地との境界線が複雑に入り組む場所だった。ここは川の流れも風向きも水面に影響せず、舟が流される心配もない。イプトゥたちが仕事で山に入る際に舟着き場として利用しているところなのだと言う。舟をぶつけないよう慎重に進め、先人が打ち込んだ杭に縄をかける。舟に積み込んだ荷物をゆっくりとかき集める。それらを全て背負い、意を決してリリは立ち上がった。
 同じく立つアユティニの手を取った。互いに支えながら目を合わせて頷く。
「せーの」
 掛け声、そして同時に舟床を蹴り。
 リリは初めて、自身の足で大地を踏んだ。
「わっ」
 舟や水上畑とは違い、大地は沈みこまなかった。リリの足を強く押し返した。未知の感覚に反応し切れず、身体が傾く。今度は尻から着地する。大地はやはり尻も押し返す。強い衝撃がリリを襲い、思わず呻き声を上げてしまった。
「うう……」
 身を起こそうと両手をつく。いつも畑に盛っている、湖底からすくい上げた泥とは違う。締められた土はリリに反発する。触った感触はざらざらして固い。なぎ倒されて折れた草は独特の匂いを放つ。草は地面を覆い尽くすように生えていて、見渡す限り一面緑色で。
 ここは水上とは違う世界なのだと、リリは改めて思い知った。
 わざわざ泥をすくってこなくてもここには土がある。種をまけば芽が出て、植物は育っていく。いつかは花を咲かせ、やがて実をつけるのだろう。人間が手を加えずとも、だ。
(これが、神のおわすところ……)
 今更ながら、大地に立った意味を理解した。
「おいリリ、大丈夫か?」
 身を屈めて顔を覗き込むアユティニに頷き返す。今度こそ両足で立ち、大地を踏みしめ、背筋を伸ばす。今から、神を訪ねていくのである。下を向いている訳にはいかなかった。
 母からもらった服をさっそく汚してしまったことはリリを落ち込ませたが、これはまだ序の口だった。地面から伸びる青々とした草はリリの足を絡め、伸び放題の小枝は服に引っかかった。履き慣れない靴はリリの足を守ってくれるが、代わりにリリの足取りを重くした。
「はあ、はあ……」
 対して、前を行くイプトゥはどんどん先へ進み、その背中がみるみる小さくなっていく。時折腰の斧を手に取って、行く先を塞ぐ木の枝や下草を切っているというのに、ただ歩くだけのリリよりもずっと速い。
「なあ、大丈夫か、リリ」
「やっぱり慣れないね、なかなか。歩きづらい……かも」
 日頃は素足で過ごし、足まで覆うような衣服をめったに着ないリリである。自身の意思と異なる動きをしようとする靴も、両足にまとわりついてくる服も、日々の生活では遭遇することのない感覚だ。違和感はリリの足を鈍らせて遅らせる。歩幅は徐々に狭まっていく。
 後ろが続かないことに気付いたイプトゥが戻ってきた。何事かと首を傾げていた彼だったが、足を気にするそぶりを見せるリリを見て合点がいったようだった。
「地面が固いから、歩いた時の衝撃が全部足に返ってきちゃうんだよな」
「え? うちの床も集落の橋も固くてしっかりしてると思うけど、こんな風に感じたことないよ」
「あれは風とか波とかに耐えられるように少しはたわむように作ってるから」
「そうなんだ」
 へえ、と納得して頷いてみるが、原因が分かったところで疲労が抜ける訳ではない。向かう先は五山の中の最高峰、リマ=グヌンの頂上である。先は長い。
「やはり、こまめに休憩を、取らねばな」
 話を聞いて、したり顔で頷くアユティニもまた、似たようなものだった。早くも息が上がり、額から汗が滴っている。リリのように湖に潜ることも、サーイェンのように水面近くから寺院の屋根の上まで飛び回るように動くこともない彼女は、とにかく体力がなかった。そういう意味ではリリよりもアユティニの方が、この先の道のりは不安だ。
「ねえ、この調子で行くと、頂上まではどれくらいかかるのかな」
 リリの疑問にイプトゥは「ん、そうだなあ」と腕を組んだ。人差し指で何度か二の腕を叩き、答える。
「ぶっ続けで歩いたとしたら、二日か……いや、三日かな」
「三日!?」
 イプトゥが出した数字は『ぶっ続けで歩いた』場合である。暗くなってからの移動は危険だからそこで足を止めることになるし、休憩も取らなければならない。となれば実際はその倍以上の時間がかかると思っていいだろう。
 しかし――目的地は神の地、会いに行くのは神である。簡単に会える存在ではない。
「このくらいの困難があるのは当然だし、想定内だ。私たちはそれでも行かねばなるまい」
 アユティニの言葉に、リリは強張り始めた足を軽く叩いた。
 行かなければならない。リマ=スンガイを鎮める為に。水上集落を守る為に。



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