5.ダナウの民の決断


「湖底で見たことは、今は皆には知らせないでおこう」と言い出したのはアユティニだった。リリも同意した。言うはずがない。言えるはずがなかった。
 ダナウの民は、水面に浮かぶ畑で採れた野菜や湖を泳ぐ魚を食べる。家は巫女が術を施した木材で建てる。同様にして建てた小屋で育つ家畜の毛で糸を紡ぎ布を織る。営みの全てにナッ=ヤァが関わる。ナッ=ヤァは絶対。そして巫女はその神と民を仲介する存在だ。それなのに寺院の土台が神の加護を受けていないとなると、ダナウの民とナッ=ヤァの関係性が壊れてくる。ただでさえ湖の水位上昇で多くの人間が戸惑っているのに、こんなことまで知れば皆の余計に混乱させるだけだ。これ以上皆の不安を煽る訳にはいかなかった。
 リリとアユティニが二人だけの約束を交わしてから数刻。調査の結果を報告し合う為に集落中の人間が再び寺院に集まり始めた。第四の山・ウンパ=グヌンの向こうに太陽が隠れ、第一の山・サトゥ=グヌンの向こうからは宵闇が迫る、昼と夜の狭間の頃だった。  壁に掛けられた松明にサーイェンが火を灯す。押し寄せていた闇が追い返され、寺院に明かりが戻る。アユティニは一段高い場所に立ち背筋を伸ばし、リリは壁際で膝を抱えて座った。リリの両親やイプトゥの家族も間もなくしてやってきてすぐ近くに腰を下ろした。
「リリ、身体の調子はどう?」
「うん、平気。ちゃんと調査も出来たし」
「そうね、水の中にはナッ=ヤァがいらっしゃるものね」
 よかったと頭を撫でてくる母親の言葉がちくりと胸を刺す。このまま続けても上手く答えられる気がしない。次の言葉が出てくる前に「お母さんたちはどうだった?」と振った。
「サトゥ=グヌンの方に行ったんでしょ?」
「ええ、でもいつも通りで特に気になるところはなかったかな」
「そうなんだ」
 じゃあ、とイプトゥを振り返ったが、「集まったか」という声に口を噤んだ。寺院に集まった人間の視線が巫女に集中する。アユティニは部屋をぐるりと一周見回した。
「皆、ご苦労であった。調査の結果を聞きたい。まずはサトゥ=スンガイへ向かったものから話を聞こう」
 巫女を中心に、順に調査結果を報告し合う。
「サトゥ=スンガイを見てきましたが、いつも通りでした」
「ドゥア=スンガイも特におかしなところはなかった」
「ティガ=スンガイ、問題なし」
「普通だったぜ、ウンパ=スンガイも」
 誰もが異常なしと報告する。そんな中イプトゥだけは難しい顔で、眉根を寄せて立ち上がった。
「リマ=スンガイは俺が前に見たまま。水が増えちゃってて、近付くのも難しかったよ」
「ああ、やはり」
 サマリが頭を抱える。異変があったのはリマ=スンガイのみ。水位上昇の原因はリマ=スンガイの上流、ひいては神にあると、今回の調査結果は告げているのだ。
 問題は対策だ。このまま水位が上がり続ければ、湖に住むことは出来なくなる。しかしここは古来よりダナウの民が信仰し続けてきた神・ナッ=ヤァがおわす地であり、守られた地であり、先祖が守ってきた地でもある。異変の原因が神とはいえ、湖を捨て別の場所へ移住することなど、ダナウの民には出来ない。となれば、水位の上昇を食い止めるようナッ=ヤァに祈るしかない。
「かつて集落に危機が訪れた時には、神に贄を捧げたものじゃが」
 刈り上げた白髪頭を撫でてサマリが呟く。
「……何だと?」
「集落の子供をひとりリマ=グヌンに送り込む。子供の命と引き換えに、集落を……」
 サマリの視線が床を這う。幼い子供を連れた親たちが息を呑んで子供を抱え込む。アユティニは彼らから目を反らして拳を握り締め、「ふざけるな!」と族長の提案を一蹴した。
「誰かの命を代償に生きるなど……贄など許さぬ!」
「では、他にどうすると言うのですか」
「私が行こう、私が直接神と対話する!」
 しかし巫女の代案は、大人たちに受け入れられるものではなかった。幼子の親たちですら、表情を曇らせる。
「巫女殿、それはなりませぬ!」
「なぜだ」
「巫女殿の代わりはおりませぬ故」
「私以外の者だって、代わりなどいないではないか!」
「しかし……!」
 サマリが次の言葉を口にする前に、アユティニとサマリの間に割って入る影があった。サーイェンだ。それまで気配を感じさせず、一言も発さず、ただ静かに控えていたサーイェンが、手の動きでサマリを制した。
「巫女の意思である。従え」
「サーイェン! ナッ=ヤァがお怒りになっていらっしゃるかもしれないのじゃ、入山は危険が伴うじゃろう。お主も巫女の付き人なら巫女を止めぬか!」
 族長の訴えをサーイェンは「問題ない」と突っぱねる。
「私も同行する。私が共に行く以上、巫女に危険は及ばない」
「なぜ言い切れるか!」
「それが私の役目だからだ」
 サーイェンの圧力に、遂に族長も黙り込んだ。「何を考えているのやら」などとぶつぶつ呟きながらも、最後は首を縦に振った。
「そこまで言うのならば……どうか、ご無事で」
「ああ、必ず戻ると約束しよう。私も、サーイェンも」
 アユティニには山へ登らなければならない理由があった。神と対話せねばならないことがあった。しかし、アユティニもサーイェンもリマ=グヌンに――山に登ったことはない。巫女は腕を組んで首を傾げ、少し考える素振りを見せた後、「イプトゥ」と呼んだ。
「お主も同行しろ。力になってくれるな?」
「はいはい、仰せのままに」
「頼むぞ。それから……」
 アユティニがまっすぐにリリの目を見る。リリもアユティニを見返した。
「神に愛されし娘、リリ。お主も頼めるか?」
 山に入ってはならない。神の領域を侵してはいけない。それがダナウの民の、ナッ=ヤァを信仰する者の掟だ。しかし……湖底で見たものを伝えた時のアユティニを思い出す。手も声も震え、堂々と立つ巫女からは想像出来ない姿だった。
 今、この集落には何かが起きている。何かは分からない。分からないから山へ登る。ナッ=ヤァとの対話を試みる。その一端を担えと巫女が言うのなら。それがリリの役目であると言うのなら――。
 リリは立ち上がり、アユティニの前に歩み出た。両手で巫女の手をそっと包み込む。
「わたしでよければ。一緒に行こう」
「ああ、よろしくな」
 ナッ=ヤァの巫女、アユティニ。
 巫女の守護者、サーイェン。
 神の山を知る者、イプトゥ。
 そして、神に愛されし娘、リリ。
 神の元へ向かう四名が決定した。出発は明朝。四名は支度を整えたら日が昇る頃に再び寺院に集うように――こうサマリが締め括り、閉会となった。リリも皆に続いて部屋を出ようとしたが、アユティニに呼ばれて足を止める。
「リリ、ちょっといいか」
「どうしたの?」
「いや……ちょっと」
 手招きされ、部屋の奥に案内される。背後の気配に振り向けば、リリの母親がついてきている。
「お母さんまで? どうしたの?」
「ちょっとね」
「えー何なのー」
 母に追い立てられ、訳も分からず部屋の最奥に立つ。壁には梯子が立てかけられており、天井に開いた穴の向こうまで続いている。上は巫女とその付き人の居住空間だ。そこへ上がれと巫女は言う。促されるままに梯子に足を掛け、上階に上がった。
 下の広間は何もなくだだっ広いだけであるが、ここには壁が作られ、いくつかの部屋に区切られていた。梯子から見て手前が付き人であるサーイェンの部屋、奥が巫女・アユティニの部屋である。後から梯子を上がってきたアユティニに続いて奥へ向かい、彼女の部屋へと足を踏み入れた。
 人ひとりが生活するにはやや広い空間には、家具がいくつか点在していた。衣装を収納する棚や机、寝床などの大きな家具は先代の巫女――アユティニの母親から受け継いだものだそうだ。机横の小さな棚には茶器や茶菓子が並んでおり、神通石の入った小籠がその上に乗っていた。
 何度も訪れたことのあるこの部屋の中に唯一、見たことのないものがあった。服である。衣装棚に広げて掛けられたそれは、アユティニが普段身につけている白い巫女衣装ではない、優しい若草色の服だ。ゴシの葉の繊維で織った布は柔らかで、丈はふくらはぎに届く程度。袖や裾、胸元には花や草を象った刺繍が施され、華やかな印象を受ける。
「わあ、これアユティニの服?」
「いや、それはリリのだよ。リリの母上から術を掛けるよう頼まれていたんだ」
「私の……?」
 母を見上げれば、彼女は「ええ」と頷いた。
「お母さんが作ったの?」
「もちろん。いつかリリに着せようと思って、巫女様に儀式をお願いしていたの。そうしたら、こんなことになったでしょう? だから『いつか』は、今かなって」
 そう言って母は、リリを両腕で抱き寄せた。
「本当はとても心配よ。私たちは、山へ入ってはいけないんだもの。それでもしナッ=ヤァがお怒りになったらと思うと……でも巫女様はリリをお供に指名したから、リリにしか出来ないことがきっとあるから」
 リリを抱く腕に力が入る。
「明日はこの服を着て行って。山の上は寒いというから」
 刺繍が施された服は特別だ。刺繍の一針一針に、仕立てた者の願いや祈りが込められる。刺繍が広範囲に及ぶほど、込められたものも大きくなる。
 布を織り、縫製し、刺繍する。一朝一夕で出来るものではない。農作業の合間の時間を使って、何日も、或いは何十日もかけて作ったのだろう。その服を今日リリに見せてくれたことに理由が、意味がないはずがない。
「うん、分かった」
 母の肩を、リリは抱き返した。
「ありがとう、お母さん」

 母娘を送り出したアユティニは大きく息を吐き出した。母娘の会話を傍で聞きながら、自分は邪魔ではないだろうかと終始落ち着かなかった。リリとは日頃から親しくしているが――いや、親しいからこそ触れてはいけない領域があるように思えたのだ。
(だというのに……)
 アユティニはちらと暗がりに視線を投げた。
「サーイェン、盗み聞きだなんて悪趣味ではないか」
「私にそのような趣味はありません」
 茶化したつもりが、真面目に返されても困る。全く。影から現れたサーイェンに改めて向き直ると彼もこちらを見返した。
 サーイェンの口がゆっくりと開く。
「なぜですか」
「何がだ」
「巫女は、なぜ山に登ると仰ったのですか」
「何だ、お前もやはり私を止めようと言うのか」
「違います。ただ、理由を知りたく……ダナウの民は陸地へ上がるのを嫌います。それなのになぜ巫女自ら、そのような選択をされたのですか」
 いつになく流暢に話すサーイェンの目はまっすぐだった。アユティニにはそれを見返すことが出来ない。迷った視線は窓の外、薄い三日月へと向けられる。
「……なぜだろうな」
 アユティニはぽつりと漏らした。
「なぜ……自分でも分からぬ。私は何も知らぬ。だからこそ山へ登らねばと思った。山に登れば、ナッ=ヤァと対話すれば、全ての答えが見つかる……私はそう思うのだよ」
「巫女……それはどういう」
「さあ、この話は終わりだ」
 なおも食い下がろうとするサーイェンの目の前で、アユティニは両手を打ち鳴らした。その音で一瞬動きを止めた隙に背後へ回り、彼の背中を押して強引に部屋へ向かわせる。
「明日の朝は早いぞ。寝坊も遅刻も許さぬ。今宵はもう下がれ」
 部屋の中へ半身を押し込まれたところでサーイェンも諦めたらしい。抵抗するのをやめて身を引き、巫女に頭を下げた。
「では失礼します」
「ああ。明日は、よろしく頼む」
 部屋の暗がりにサーイェンが消え、寺院の通路にはアユティニがひとり残された。柔らかな星明かりが降り、心地よい夜風がアユティニの長髪を揺らした。



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