4.湖の底の気配


 集会から一夜明け、リリは寺院の下にいた。
「すまない、リリ。昨日あのようなことがあったばかりなのに」
「大丈夫だよアユティニ」
「しかし怪我をしたのだろう? 傷の具合はどうだ」
「ちょっとした切り傷だから。心配しないで、わたしに任せて」
 リリはアユティニの肩を軽く叩いて、湖に向き直った。
 この湖に流出入する川は全部で十本。五山から湖へ流れ入る川と、五山の間の谷を抜けて麓へと流れ出る川だ。朝から集落中の人間が手分けしてこれら十の川の調査に出向いていた。リリの両親は早くからサトゥ=グヌンとドゥア=グヌンの谷へ向かったし、先ほどはリマ=スンガイへ行くと言うイプトゥとすれ違った。
 しかし水の出入りはそれだけではなかった。ダナウの民の水上集落は神話にもある通り、小さな山の山頂に湧いた泉から始まった。あれから長い時が流れたが、湖底からは今でも水が湧いているという。その湧水地点が寺院の下、寺院を支える一本柱のすぐそばにあるのだ。
 湖の水位変動に関わるもの全てが調査対象であるから、湖底の湧水点もそれに該当する。そして湖底の調査の担当として、リリに白羽の矢が立った。ダナウの民なら湖底まで潜るなんて容易いことである。しかし光の届かない水の中で何が起こっているのか見ることが出来る者はそういない。視力が利かないとなれば神力で『見る』しかない。それはこの集落で、リリにしか出来ないことであった。
「本当なら、私がすべきことなのに……」
「もう、やめてよ。ほらっこの話はおしまい!」
 皆まで言わせず強引に会話を切り上げて、リリは湖に飛び込んだ。わざと立てた水飛沫がアユティニの足元を濡らす。
「リリ!」
「じゃあちょっと『見』てくるね」
 寺院下の足場の柱を軽く蹴った。浮力に反してリリは湖底を目指す。アユティニが何か言ったようだったが、耳元で鳴る水の音でよく聞こえなかった。
 濁った水がリリを包んだ。水草が腕に絡み、脇を数尾の魚が泳いでいく。いつもと変わらない。むしろ違うのはリリの方だ。湖底の泥を掬い上げるのに使う桶を今は持っていないから余計な抵抗もなく泳ぎやすい。リリの身体は水の間を滑るように進む。
 徐々に光が届かなくなり、視界が閉ざされてきた。目のすぐ前にあるはずの自分の手が見えない。見えないのなら目はいらないと、リリは目を閉じて水を掻く。周囲を満たす水も、泥も、全てナッ=ヤァの力だ。流れ舞う力を知覚しながら更に奥深くを目指した。
『本当なら、私がすべきことなのに』――アユティニの言う通りだ。神通石の『光』を『見る』力は、本来巫女が備えているものであり、農家の娘がもつべきではない。しかし実際はリリが能力を有し、そしてアユティニは神の力が放つ『光』を『見る』ことが出来なかった。先代の巫女であるアユティニの母は、彼女自ら湖に潜って神通石を集めていたというから、アユティニには能力が引き継がれなかったことになる。この事実をアユティニは非常に気にしており、リリが神通石収集の役目を代わりに務めていることを負い目に感じていた。
 リリとしては、ナッ=ヤァの巫女の身の安全を考えると、巫女以外の人間が神通石収集を任されることは悪くないと思うのだが。今回のリリのように慣れていても溺れてしまうことがある。万一何かあった場合に、農家の娘の代わりはいても巫女の代わりはいないのだから、危険の可能性がある役目を巫女に負わせるべきではないのではないだろうか。今だって、光の届かないような湖の底まで潜ってきているのだし……。
 ――と。水を掻くリリの指先が流れを捉えた。湖底に溜まる淀みとは違う、冷たい流れだ。どうやらこれが湖底の湧水点らしい。
 以前ここまで潜ったことのある者によれば、湖底の流れは泳ぐのに差し支えない、緩やかな川の流れ程度だという。実際を確認しようと手足を止めると、身体ごと流されているのが分かった。ちゃんと水を蹴れば逆らえるから激しくはない。聞いていた通りと言って差し支えないだろう。
 しかし。
(……変だな)
 違和感がリリを襲った。湖底の様子がいつもと違う。何が? リリは閉じた目を開いた。眼前に広がるのは湖底の闇。そう、ここは光届かぬ場所、真暗な水の底である。こんな場所でこそはたらくのがリリの『見る』力だ。神の力は寄り集まって結晶となる。リリにはそれを、視覚とは異なる感覚で『見る』ことが出来るのに。
 ここにはそれがなかった。結晶が秘める光にも似た力が、なかった。
 こんなことは初めてだった。川を流れてくる力も、畑の泥に混ざる力も分かるのに、ナッ=ヤァの力そのものである水の中で、これほどまでに神の存在を感じ取ることが出来ないなんて。湧き出す流れがリリの肌をざらりと撫でた。リリの身体を上へと押し上げた。流されるままにリリは浮上する。
 少しずつ太陽の光が見えてくる。寺院の一本柱、寺院下の足場を支える柱が輪郭をもつ。手を伸ばす。指先が空気に触れ、その手を掴まれる。湖面に顔を出すと、リリの手をしっかりと握ったアユティニと目が合った。
「おかえり」
「あ……た、ただいま」
 アユティニの手を借りて足場に上がる。大きく息を吸って呼吸を整えていると、大判の布が背に掛けられた。一枚の薄布だが、湖底で冷えたリリの身体を包み込む。
「これ……あったかい……」
「ナッ=ヤァの力を込めたからな」
「そう」
 リリは小さく頷いて、胸の前で薄布を引き合わせた。深く息を吐くリリの背中をアユティニがそっとさする。
「少し休め。それから、湖底の様子を聞かせてくれないか」
「湖底の……」
 温かさを覚えたのも一瞬だった。冷たい流れの記憶が背筋を這い、リリは両腕を抱えた。
 ナッ=ヤァの力が満ちる湖、集落では、仮に怪我をしても病気になっても大事にならないことが多い。しかし湧水点近くではナッ=ヤァの力を感じなかった。言い換えれば、湖底ではナッ=ヤァに守ってもらえない。真暗な湖の底で、神にも守られずたったひとり。万一何かあれば、光の届かない場所で人知れず死ぬことになるのだ――今更ながら恐怖に襲われ、リリは薄布を身体に巻きつけた。
「……リリ? 大丈夫か? まさか、何かよくないことが『見』えたのか?」
「ううん……うん、『見』えたというか『見』えなかったというか」
「どういうことだ」
「えっと……」
 何から伝えたものか。リリ自身の役目と湖底の様子を改めて思い出し、一言ずつ確認するように話し始めた。
「あのね、まず、湧き水の量は聞いてた通りだった。泳ぐのやめると流されちゃうけど、ちゃんと水蹴っていれば逆らえるくらい」
「ということは、湖底の湧き水は水位上昇と関係ないと考えていいだろうな」
「うん。だけどちょっと気になったことがあって」
「それが『見』えたとか『見』えないとかの話か」
 うん、とリリは小さく頷く。
「湖底は本当に暗かった。神通石がなかった。湧き水には、ナッ=ヤァの力を感じなかったの」
「それは、つまり」
 湧水点があるのは寺院の柱のすぐそばだ。湧水は一本柱の周囲に流れ留まる。ということは、寺院を支える柱の根元には神の力など存在せず、大切な土台が神の加護を受けていないことになるのだ。ナッ=ヤァの巫女であるアユティニが、ナッ=ヤァに守られることなくこれまで生活を続けていたのだ。
「何ということだ、そんな」
 神が巫女を見放したというのか。
 そのようなことがあるものなのか。
 震えるアユティニの手を、今度はリリが握りしめる。湖の水位上昇以外の面からも、この集落には危険が迫っている。
 神に、集落に、今何が起こっているのだろうか。



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