3.水位の上昇の理由


 イプトゥは木を運び、アユティニは寺院で祈り、サーイェンは巫女を守る。各々定められた役目があり、日々全うする。それがダナウの民の日常だ。もちろんリリにも果たすべき務めがあり、その為にリリは来る日も来る日も湖に潜っていた。
「っ、はあ……」
 湖面から顔を出して呼吸を整える。水中の桶を手繰り寄せて手を入れる。肌にまとわりつく柔らかな泥の中で、冷たく硬いものが指先に触れた。
 リリの役目は大きくふたつ。ひとつはもちろん農作業で、水上畑を保つ為に湖底から泥を掬い上げる。そしてもうひとつが、湖に沈む石――神通石を探し集めることだ。
 巫女が儀式を行うのに欠かせないあの半透明の石は、ダナウの民からは神通石と呼ばれていた。ナッ=ヤァの住まう山の湧き水はナッ=ヤァの力の化身である。神力は川となって流れながら凝集し、形を変えなかったものは湖の水へ、固体となったものは湖底の泥へと形を変える。そして膨大な力の内のごく僅か、結晶となったものが神通石なのだ。
 神の力が折り重なる湖の底で、リリは結晶化した力を『見る』ことが出来た。外の光が届かぬような暗い湖の中では視力などほとんど役に立たない。しかしリリの『見る』力は、視力とは関係ないのところで神通石を捉える。神の力が放つ『光』を『見る』能力は物心ついた頃から扱えていたから、もしかしたら生まれつきなのかもしれない。
 本来、神の力を扱えるのは巫女のみであり、リリの両親も祖父母もこのような力をもたない。先祖を遡っても力を有するものはいなかったと聞く。しかしダナウの民の族長によれば、珍しいことではあるが皆無の事象ではないらしい。得た特殊な力を気にすることはなく、むしろこの力は神に愛されている証と捉えることが出来、それはナッ=ヤァを主とするリリにとって誇りであった。
 与えられた力を活かして神通石を集めていると、つい夢中になり過ぎることがあった。ひとつ、またひとつと石を拾い上げていく内に、息が続かなくなってしまうのである。
(やばっ)
 普段は桶の中身をこぼさぬよう気を付けながら浮上するが、苦しくなってはそんなことまで気にしていられない。泥を撒き散らしながら、離れていく神通石の気配を感じながら、一心に外を目指す。
 徐々に外の光が見えてくる。しかしリリがまっすぐに目指す先には影が落ちている。上から伸びてきているのは四本の柱、あの影はどこかの家の床下だ。家をよけて別のところに上がることも考えたが今のリリに迂回して泳ぐほどの余裕はなかった。
(いいや、まっすぐ!)
 床と水面の間には十分空間を設けている。そうなるように作られているから頭を出して息継ぎくらいは出来る。
 はずだった。
 ごつん、というのは床下と頭がぶつかった音。吸い込むはずの空気がなくて、代わりに鼻から口から水が流れ込んでくる。
「っ!」
 痛みと苦しみがリリを襲うが声すら出せない。言うことを聞かない手足を何とか動かし、床を引っ掻き水を蹴る。ささくれた床底が指を切ったが痛みを感じる余裕はなかった。床の外へ泳ぎ出る頃には本当に限界で、水面から顔を出して大きく咳き込み、柱に掴まって沈みそうになる身体を支えた。
「何? 何か音がしたけど?」
 ばたばたと足音を立てながら家主が――リリの母親が表に出てきた。ああそうか、ここは自分の家だったか。吸い込んだ水を吐き出しながら少しだけ安心する。
「え、ちょっと、リリ? どうしたの? 大丈夫?」
 リリは首を振って、差し伸べられた母親の腕を掴んだ。母の手は温かかった。

 神に愛された娘、リリが神通石を集める最中に溺れかけた話は、あっという間に集落に広まった。歩くことと同時に泳ぐことも覚えるダナウの民が溺れるなんて恥としか言いようがない。しかし恥ずかしがる暇もないほど事態は深刻だった。
「湖の水位が上がっておる」
 アユティニが凛と言い放った。
「どうだ、皆。水位が上がってきたと感じている者はおるか」
 一瞬のざわめき、そののちにイプトゥが手を上げる。
「俺も、もしかしたらそうかもって、思ってた」
 一人が語れば、発言は連鎖する。そういえばうちも、だとか、あそこの橋が沈みそうだったぞ、だとか、次から次へと声が上がる。
「やはりそうか……」
 深く息を吐き出してアユティニは眉間に皺を寄せた。
 集落の人間が寺院に集まって一刻、大人たちは現状の把握に努めていた。リリの家はリリが泳ぎを覚えたばかりの頃に建てたもので、幼い子供でも家に上がりやすいようにと水面から近い位置に床を設けていた。とはいえ湖の水位上昇くらいは想定しており、数日雨が続いたからといって浸水の心配をする必要がないように設計したはずだ。それなのに、天気がいいこんな日に床下ぎりぎりまで水が迫っている。雨でもないのに水没を恐れなければならないなんて。リリの父親は頭を抱えた。
 その他、低い位置に作られた建物や橋も少しずつ、皆がそうと知らない内に湖に呑みこまれつつある。このままではやがて集落全体が水に沈んでしまうだろう。そうなればダナウの民はおしまいだ。
 何ということだ。どうしてこんなことに。ナッ=ヤァは我々を見放したのか。恐怖と混乱が広間を侵食する。
「まずは調査じゃな」
 ゆらりと立ち上がったのは族長のサマリだった。
「我々は原因を知らねばならぬ。いつから、なぜ水位が上昇しているのか。それが分からぬ限り、この集落に安寧は訪れぬだろう」
「族長の仰る通りである」
 巫女も同意して頷き、イプトゥを見る。
「お主、水位上昇の可能性に気付いたのはいつだ」
「何日か前……この間、学校の補修作業をした日だ」
「あの日に何があった」
「リマ=スンガイが氾濫した」
 ダナウの民は神の土地である山に決して立ち入らない。しかし中には例外も存在する。その内の一人がイプトゥだ。彼の家系は代々、木材加工を生業としてきた。その歴史は古く、集落が湖となる以前から続いていると伝えられるほどだ。集落が水上に移ってからも彼らの仕事は変わらず、その子孫であるイプトゥたちだけは今でも上陸し、木を伐っているのである。
 彼らは木を切り倒すと川に流して湖まで運ぶ。重いものを抱えて運ぶよりずっと安全で早いからだ。あの日もそうするつもりで第五の山・リマ=グヌンに入ったイプトゥは、伐った木をリマ=スンガイの近くまで運ぶ最中に違和感を覚えた。川の流れる音がいつもよりも大きく聞こえるのである。川に近付くにつれ違和感は大きくなっていく。固く締められていたはずの地面がぬかるんで滑る。ところによっては足が沈み込む。これはどういうことだろう。首を傾げたイプトゥだったが、リマ=スンガイを目にして吃驚した。日頃は静かに流れるリマ=スンガイから水が溢れ、川幅が増してしまっていたのである。あの日寺院を訪れたイプトゥが忙しなかったのはこの為だ。木を川に流すのは危険と判断した結果、下山に時間がかかってしまった。当然その後の作業も遅れ、アユティニの誘いも断らざるを得なかったのである。
「その時は、山の頂上は雨が降ってるのかなーくらいにしか思わなかったけど、もしかしたら」
「なんと、リマ=スンガイがそんなことになっていたとは」
 サマリは首を横に振って額に手を当てた。第五の川・リマ=スンガイが流れるリマ=グヌンの頂には祠があり、神・ナッ=ヤァが棲むという。もしやナッ=ヤァに何か起こったのではないだろうか。
「我らが神に、いったい何が……」
「族長、決めつけるのは早計だ」
 項垂れるサマリと対照的に、巫女は背筋を伸ばす。
「イプトゥの話の通り、水位上昇にはリマ=スンガイが関係している可能性が高い。しかし他に原因がないとも言えない。これより集落総出で調べよう。結論を出すのはそれからだ」
 広間を見渡し、宣言した。
「ナッ=ヤァの巫女、アユティニが命ずる。皆の者、調査に向かえ!」



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