2.神の巫女の儀式


 寺院と言っても、建物の外見は他の民家や店、学校と大差ない。木の壁に干し草の屋根は、見回せばどこでも見かける造りである。しかし寺院は、確実に他の建物と異なっていた。集落の中心にある寺院は遥か頭上で、すっくと立った一本の柱に支えられているのだ。
「先に行ってて」と言うイプトゥに頷き、リリは籠を抱えると水面の足場から伸びる螺旋階段に足をかけた。柱を二周し宙に浮く足場まで上る。視線を感じて屋根の上に目をやれば、小柄な男がこちらを見下ろしていた。全身を黒い衣装で覆い、更に両膝から下と右肩から右手の先までを黒い革製の防具で固めている。長い黒髪で輪郭を隠し、顔の下半分から首にかけて黒い布を巻いており、露出しているのは宵闇のような黒い瞳のみ。素顔を見たことはなかったが、腹の底に響くような低い声から男だと知った。彼に軽く会釈してリリは建家に足を踏み入れた。
 リリの家より広く、天井も高いこの空間には、特別に何かがある訳ではなかった。壁板をくり貫いて作った窓からは自宅よりも高い目線で集落を見渡すことが出来たが、ほとんどの家庭に置かれているはずの机や棚といった家具や装飾品の類が一切ない。ただ広い床があり、一段高くなった奥半分が簾で仕切られていて、その向こう側に影が見えるだけである。
「名乗れ」
 深みの影の声にリリは膝をついた。
「リリでございます。神通石をお持ちいたしました」
「そうか……サーイェン」
 一瞬室内が暗くなって振り返る。入り口にはいつの間にか、あの屋根の上にいた黒尽くめの男が立っている。男は音もなく部屋に入るとリリをちらりともせずに脇を通り過ぎ、部屋を区切る簾を巻き上げた。
 そこには少女が座っていた。体型を隠してしまうような、ゆったりとした白色の衣装を纏っており、褐色の肌と背に流れる深い藍の髪は夜の川を思わせる。一部の髪は耳の上で丸く結い上げられ、そこから下がる飾りがちらと揺れる。『ナッ=ヤァの巫女』――この集落の者は皆、彼女をそう呼んだ。
 リリは巫女の方へと籠を差し出して深く頭を下げた。
「どうぞ、お納めください」
 一段下りてリリと同じ高さに立った巫女は「ふむ」と頷いてサーイェンを一瞥する。すっと動いた彼が籠を抱えて下がると、リリの正面で肩を竦めた巫女は「ふざけておるのか?」と溜め息混じりに言った。
「何だ、その態度は」
「と仰いますのは」
「私を馬鹿にしているのなら今すぐやめろ」
「滅相もございません。貴女様はナッ=ヤァの巫女。一介の民であるわたくしが、まさか巫女様を馬鹿にするなど……」
 思わずといった様子でリリが顔を上げる。すぐ目の前に巫女の顔がある。口を不自然に歪め、しかし必死に引き結んで笑いを堪えている顔だ。平静を保てていない彼女の表情に刺激され、リリは思わず噴き出した。
「やだあ何それ、変顔? そういうのやめようよお」
 つられて巫女も声を上げて笑う。
「それはこっちの台詞だ、妙な小芝居など始めおって」
「たまにはいつもと違う感じでやりたかったんだけど」
「だからって、いったいどこでそんなものを覚えたのだ……そこまで低姿勢の人間、ここには誰一人として来たことがないぞ」
「ああやっぱり、そうだよね」
 もう一度目を見合わせて、笑い合う。改めて、とリリが巫女に向き直った。
「遊びに来たよ、アユティニ」
「ああ、リリ。待っておったぞ」
 リリの髪が、アユティニの巫女衣装の裾がふわりと揺れた。
 アユティニはリリの手を引いて立ち上がらせながら、「茶でも淹れようか」と尋ねた。
「族長からジェードの砂糖漬けをもらってな」
「へえ、美味しそう」
「実際美味いのだが、とてもひとりでは食べきれない量で」
 言いながら部屋の奥に足を向ける。リリもそれに続きたかったが、階段の下には丸太の縄を解く友人がいる。
「待って待って!」
 リリは巫女衣装の袖を引いた。
「下にイプトゥがいるの。そっちを先にお願い」
「奴も一緒だったか」
「うん、丸太持ってきてる」
「そうか」
 踵を返した巫女はサーイェンに手で小さく合図する。部屋を出て階段を下りていくアユティニの後をサーイェンが静かに追い、リリも彼に続いた。
「あ、巫女様だ!」
 声を上げたのは、集落中に張り巡らされた木橋を走る幼い兄弟だった。巫女に気付いた子供は立ち止まり、こちらを見上げて手を振る。少し遅れてやってきたのは子供たちの祖母だ。建物が増える度に継ぎ足して作る橋は入り組んでおり、でたらめに走る子供を追いかけるのは容易ではない。何とか兄弟に追い付いた祖母は後ろから子供を抱きかかえ、息を切らしながらも膝をついて巫女に手を合わせた。
 他の者も同様だった。橋を、水路を通りがかった民が皆、巫女の姿に足を止める。巫女に、そして巫女を通じて神に祈りを捧げる。民の視線を一身に集め、巫女は片手を上げてそれに答えた。
 階段下の足場では、イプトゥが縄を解いた丸太を引き上げているところだった。アユティニがサーイェンを見遣ると、彼はさっと階段を駆け下りてイプトゥに手を貸した。
「助かったぜ、ありがとな」
 イプトゥの礼に軽く頭を下げ、サーイェンが一歩下がる。代わって前に出たアユティニが丸太を見下ろし、袖の下に手を入れた。
「立派なものだな。家でも建てるのか?」
「いいや、学校の補修に使うんだ」
「なら、入念に術を掛けねばな」
 再び袖の下から現れたアユティニの左手には、あの半透明の石があった。
「これより儀式を執り行う」
 前に差し出した手を強く握った。淡く光を反射する硬質なそれは、しかし彼女の手中で容易く砕けた。白い光が溢れ、アユティニの手を包み込む。
「ナッ=ヤァの祝福があらんことを」
 ゆっくり開かれた指の隙間から零れ落ちた光の粒が、二本の丸太に降り注いだ。光は丸太に触れると木の芽に似た緑へと変色する。炎のような光が丸太全体を包み込んで燃え上がったがそれもすぐに収まり、残った丸太は術を掛ける前と変わらぬ様子でアユティニの足元に横たわっていた。
「さあ出来たぞ」
「おーありがとう」
 儀式を見届けた皆が散っていく中、イプトゥは丸太を再び縄で括り付けた。湖面へ落としたそれにそっと足を乗せる彼を、アユティニが「もう行くのか?」と呼び止める。
「これからリリと茶を飲もうと話していたのだが」
「あーごめん、ちょっと急ぎの仕事なんだ。今日中に終えないといけないんだけど、作業が遅れててさ」
「何だ。なら早く行った行った」
「冷たいなあ。ったく、言われなくても」
 丸太にゆっくりと体重をかけ、イプトゥの身体が完全に足場を離れた。「じゃあな」と軽く手を振り、来た時同様丸太の上でバランスを取る。片足で櫂を操りながら行き交う人々に紛れていった。
 光の前後で特別変化が見られなかった丸太。しかしそれは見た目だけの話である。簡素ではあったが、たった今ここでアユティニが執り行ったのは儀式だ。神の守りを受ける為、神・ナッ=ヤァの力を借りる儀式なのだ。あの丸太は近い将来学校の柱となる。丸太に宿ったナッ=ヤァの力は校舎を支え、そこで学ぶ子供たちをも守るだろう。
 その目は神の存在を捉え、その耳は神の声を聞き、その口は神の言葉を代弁する。その手で神の力を人へ移し、神と人を繋ぐ。その役目を担うのがナッ=ヤァの巫女であり、アユティニなのだ。



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