1.水の上の民


 集落中の人間が床につき寝静まった頃のこと。山風が湖面を揺らし、波音は絶え間なく響いていた。湖岸の草むらで鳴く虫、遠くの山からは鳥の鳴き声。毎夜と同じの夜の静けさである。
 空の上では月が煌々と輝いている。月明かりが部屋を照らす中で。
(おと……?)
 少女は一人、目を覚ました。
 いつも通りの、夜の音であった――そのはずだった。しかしそれに紛れて、異音が確かに聞こえてくるのである。ぱしゃり、ぱしゃり、と一定のリズムを刻む音は、水面を叩く櫂の音に似ている……いや、櫂と舟を連想した今となっては、少女にはもうその音にしか聞こえない。こんな遅くにいったい何だろう。少女は隣で眠る両親を踏まぬよう月明かりを頼りにして窓辺に寄った。
 その時である。す、と影が少女の前を過ったのだ。
(だれ?)
 問いかけようにも声が思うように出なかった。少女は窓から身を乗り出した。小さな舟に大きな影と小さなかげ、二人が乗っている。大きな影が櫂を操り、ぱしゃり、ぱしゃりと水を叩いて進んでいく。やはりあれは櫂の音だったのだ。しかし少女にとって直感の正解など些細なことで、それよりも影の正体の方が気になった。集落の誰もが眠りにつき、せめぎ合う月と闇が支配する時間である。誰が、何の為に、どこへ行く為に舟を漕いでいるというのだろう。
 舟は建物を、橋を、畑を避けながら進んでいく。舟が立てた波に月明かりが反射して光の軌跡を作る。そうして舟は、やがて止まった。影のひとつが櫂を立てて舟を固定する。舟が停まるそこは湖岸のようで、立ち上がった影たちは陸に上がっていく。
(そこは、だめ)
 声にならない声で呼びかける。きっと影たちには届かない。しかし呼びかけずにはいられなかった。陸は、山は、いかなる理由があろうと立ち入ることは許されない。 立ち入ってはならない神聖な場所なのだから。
(だめ!)
 幾度目かの呼びかけに呼応するように小さな影が動いた。影は振り向き、少女の方を見た。
 冷静に考えればありえないことだった。少女の家から湖岸まではかなり距離がある。その上夜だ、暗いのだ。影がこちらを向いたかどうかなんて、少女には分からないはず。しかし少女には、らんらんと輝く藍の双眸が少女を見つめたように思えたのである。少女は影の瞳をじっと見た……いや、目をそらすことが出来なかった。実際はごく僅かな時間だっただろうが、少女は長い間輝く目に見つめられ、見つめていたような気がした。
 その長く短い時にも終わりが訪れた。影が顔を伏せ、輝く瞳は見えなくなった。そうして影は、もう一人の影と共に山へ消えていく。
(まって、いかないで!)
 影に向かって手を伸ばした。手は空を切る。外へ乗り出していた身体が平衡を崩し、少女の視界はぐるりと反転した。
 大きな水音を聞いて初めて、少女は自分が湖に落ちたことに気付いた。身体を湖面に打ちつけたが、不思議と痛みは感じなかった。水の冷たさが心地よかった。全身の感覚が研ぎ澄まされていくようだ。今なら肌でにおいを、音を、光をも感じ取れる気がする。
 少女はゆっくり目を閉じ、そして。



   ◆



 光が見えた。
 濁った水の中では伸ばした自分の指先すらはっきりとしない。その上日の光も届かない暗い湖底では、小さな光でも眩しく見えた。目を細めて、しかしまっすぐに、リリはその光を目指す。長い水草が足を絡めるが構わない。水を掻き分け水草を蹴って前へ進む。
 腰に巻いた綱を手繰り寄せ、先に繋いだ桶を手に取る。桶で光をすくい上げる。泥が舞う。視界が遮られ一瞬光を見失ったが、桶の中には確かに感触があった。
(大丈夫、ちゃんとある)
 安堵も束の間、そろそろ限界だ。リリは両手で桶を掴むと一気に浮上した。
 湖面から顔を出して深く息を吸い、太陽の眩しさに手をかざす。桶を水面まで引き上げて抱え、呼吸を整える。自分の意識とは別に手足が流されていく感覚を楽しむ内に目が慣れてきて、リリは顔を上げた。
 仰向けになって浮き、桶を引いて水を蹴る。一蹴り毎にリリの舟が、浮草群が、そして両親の声が近付いてくる。
「この辺りの土、減ってきたよね」
「ええ、土台も弱くなってきたし」
「今度の収穫を終えたら作り直そうか」
 浮草の上を歩き回りながら作業の方針について話し合っていたようだったが、リリに気付くと「リリ、こっちこっち」と手招きした。
「土、その辺の株にお願いね」
「はーい」
 母親の指差す場所を確認し、桶いっぱいの泥の中から光――半透明の石を拾い上げる。舟に積んだ籠にそっと入れ、両親の立つ浮き草に近寄った。厚く重ねられた浮き草にはセスバニが幾株も繁り、大きく枝を伸ばしている。しかし葉をめくってみるとセスバニの根元が剥き出しの状態だ。このままでは栄養が行き渡らずこれ以上は育たなくなってしまう。桶を持ち上げて根元を覆い隠すように泥をかける。桶の中身をすっかり空にしてリリは空を仰いだ。
 眼前には、緑の山に切り取られた青い空が広がっていた。

 ずっと昔のことである。小さな山の頂に泉が湧いた。泉の水は山を豊かにし、豊かな山には人が集まった。
 豊かな泉は人だけでなく神をも呼び寄せた。神の力で山はより豊かになり、人々は神を崇めた。そんな人々を神は愛した。
 神はこの人々と環境を守る為、小さな山の周りに五つの大きな山を作った。
 第一の山・サトゥ=グヌン。
 第二の山・ドゥア=グヌン。
 第三の山・ティガ=グヌン。
 第四の山・ウンパ=グヌン。
 そして第五の山・リマ=グヌン。
 五山が誕生したことで、泉があった山頂は、今度は谷になった。山からも水が湧き、川となって流れた。川と泉の水は混ざり合って谷に溜まり、やがて大きな湖となった。しかし、神の作った山は神そのもの。人々は山を崇め、畏れ、決して五山に立ち入ろうとはしなかった。こうして人々は、水上で生活するようになったのである。
 水上の集落と山を作ったのは水と大地の神、名をナッ=ヤァと言う――これがこの集落に住む、ダナウと名乗る民に伝わる神話であり、史実だ。神話の通り、人々は湖上に居を構えて生活をする。例外はあれど集落のほぼ全ての人間が、朝起きてから夜眠るまでずっと水の上で過ごす。不便のないように、集会所も家畜小屋も、寺院さえも湖上に建てた。それがナッ=ヤァを信仰するダナウの民の、古くから続く生活だった。
 湖がまだ小さな泉だった頃から農業を営んできたリリの先祖、家族、そしてリリ自身も同様だった。ナッ=ヤァを神と崇め、山へ立ち入るのを畏れた。食物を育てるには土地が必要だが、山の土地は神のもの。人が神の土地を侵す訳にはいかない。山以外の場所で農業をしなければならなかった。彼らは土地をもたなかったが、彼らには湖があった。湖には浮き草があった。湖底には土があった。山から流れてきた植物は種をもっていた。必要なものは揃っていた。それならば、と彼らは畑をも湖上に作る選択をし、水に浮いた農場を実現させたのであった。
 湖底からの泥を汲み上げ作業を幾度か繰り返しセスバニの畑一面に土を盛り直したところで、リリはようやく一息つくことが出来た。舟に上がって石の入った籠に蓋をし、呼吸を整える。胸と腰回りを覆っただけの簡素な衣服はずぶ濡れだったが、よく晴れていて、太陽が真上を通り過ぎたというのに何もせずとも汗ばんでくるほどである。このくらいならすぐに乾くだろう。リリは肌に貼りつく髪だけ搾ると櫂を手に取った。
 建物がひしめく中、器用に舟を操りながら狭い水路を通っていく。自宅前を抜け隣家を横切り、集落の中心に向けて舵を切る。と。
「あっ、リリ!」
 よく知った声に名を呼ばれて振り向いた。しかし声の主の姿は見えない。舟を止め、足元から聞こえた「こっちこっち」という声で水面を見る。目を凝らす。
 一軒の家の高床の下に皮を剥いだ丸太が二本浮いていた。縄で括られたそれに何者かがしがみつき、金の双眸が動いた。
「イプトゥ」
「よお」
 彼は丸太を床下から押し出すと自身も外へ泳ぎ出た。影の中では目立たなかった褐色の肌が金の髪と相まって、日の光の下で存在を強調する。
「寺院行くの?」
「うん。イプトゥも?」
「そ。さっき切ってきて、ちょうど今皮を剥ぎ終えたところなんだ」
「お仕事お疲れ様。じゃあ一緒に行こ」
「おー」
 イプトゥは器用にも丸太の上に立ちシャツの裾を搾ると彼の自宅を振り返った。床に手を伸ばして、端に掛けられた櫂を手に取る。左手と左足だけで櫂を操りリリに先行して舟を進める。前を横切る舟があれば右手でリリを制しながら道を譲り、親しい知人とすれ違えば挨拶を返した。



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