4.


 思いがけない人物との再会から一週間が経ち、やっと自分の生活に新しい環境が組み込まれ、また新しい環境に龍夜自身が馴染み始めた頃。
「せんせー! 席替えしたい! しよう!」
 朝礼を始めようとする新崎を遮って、教卓前の席に座った佐藤大河が高く手を挙げた。
「え、もう? クラス替えしたばっかりじゃん」
「いやいやもう一週間だって。D組は今日するって聞いたしさー」
 席替え、という言葉に色めき立つクラスメイトたち。憧れの窓際になれるだろうか、隣は誰になるだろう? 席替えはいつだって生徒たちの一大エンターテイメントだ。
 しかしそんな空気に水を差す奴も必ずいる訳で。ひとりの女子生徒が「反対です」と立ち上がる。
「華宮さん転入してきたばっかりで皆の顔と名前覚えられてないんじゃない? それなのに席替えなんかしたら混乱しちゃう」
「はい仕切り屋ー着席してー」
「佐藤君こそ、自分が一番前の席なのが嫌なだけでしょ!」
 図星なのか、大河は言葉を詰まらせる。そのまま肘をついて背中を丸めた。
 皆のテンションを思いっきり下げた彼女の罪は重いが、言っていることはもっともである。たかだか一週間程度ではクラスメイトの顔と名前が一致しない。現に龍夜は、罪な彼女の名前が分からない。友だちの友だちだとか体育の授業でペアを組むだとか、何かと話す機会がある男子ならともかく、女子は掃除の班が一緒だとか席が近いだとか何かしらの理由がないと話すこともなく、顔と名前を一致させることが難しい。
 視線を感じてふと隣を見れば、稚子が横目でこちらを見ていた。
「あー、高坂君も混乱しちゃう系だ」
「うっさい」
「あの子、吉田知佳ちゃん。覚えてあげて」
「えっ」
 そこまでばれていたとは。恐れ入りました、頭を下げる。
「はい覚えます」
「よろしい」
 なぜか満足げな稚子とは対照に、新崎は少し困ったように眉を寄せていた。新崎の中ではまだ席替えの予定がなかったのだろう。だからといって新崎が園を引き合いに出す訳にもいかず……小さく首を傾げながら名前の上がった園を見る。
 空気を読んでか、園は「えっと……」と声を上げた。龍夜の席からは園の様子を伺い知ることは出来なかったが、声に困惑の色はなかった。
「大丈夫だと思います。席替えすれば今とは違う人と話す機会も増えますし、そうすれば私も、もっと早くクラスに馴染めるんじゃないかなって」
 まじか、百点満点の回答だ。教員たちや他クラスの人から「誰それに渡しておいて」とノートを託される度に一瞬戸惑う龍夜とは大違いである。
 園の答えを聞いて大河は再び身体を起こした。
「ほら! 席替えした方がいいってさ。やろーよ」
「そうだね……じゃあ放課後にやりましょう」
 新崎は頷いて、二日前に決まったばかりの学級委員、吉田知佳と遠藤大紀を指名した。
「やり方は二人に任せます。帰りの挨拶までに準備出来る?」
「はい」
「じゃあ、悪いけどお願いね」
 朝礼はこれで終わりとなった。早くも二人に席替えの方法について進言をする者が現れ、大紀は耳を傾け、知佳は適当にあしらっていた。
 一時間目は美術だ。美術室に移動しなければならない。ペンケースとスケッチブックを脇に抱える。
「早く行こう」
「ちょっと待って」
 嵐に話しかけながら横目で園を見てみたが、彼女の横顔からは何を考えているか読み取ることが出来なかった。
 急遽決まった席替えだが、3Aのクラスメイトの他にも影響を受ける者がいることを龍夜は知っていた。
「よお龍夜、遊びに来てやったぜ」
 などと言いながら毎日昼休みの度にやってくる寛司は、龍夜に声を掛けながら必ず隣の稚子の席を見遣っていた。龍夜と遊びたいのは紛れもない本心なのだろうが、それ以外に目的があるのも事実であり、傍から見て丸分かりである。
「残念だ寛司。こうしてお前と遊べるのも今日で最後だ」
 真剣な表情を作って告げてやると、寛司はきょとんとして間抜けな声を出した。
「はぁ?」
「うちのクラス、今日の放課後席替えするんだ」
「席替え」
 オウムのように同じ言葉を返し、遅れて理解をしたらしい。「席替えすんの!?」と大きな声を上げた。
「早くない!? だってまだクラス替えして一週間じゃん。もうやんの?」
「うん。民主主義に則ったんだ」
「は、ミンシュ? いや何主義でもいいよっていうかそうじゃねーよ待て待て早まるな。お前ら一回落ち着いた方がいい」
 動揺し過ぎだ。寛司こそ落ち着いた方がいい。
「だいたい寛司はB組なんだし、うちのクラスが席替えしたところで関係ないだろ」
「そう、そうなんだよ、関係ない。冷静になろう、ビークールビークール」
 自身に言い聞かせるように呟いて、深く息を吸って吐き出す寛司。それにしても慌て過ぎではないだろうか。目まぐるしく変わる表情に笑いを堪えることが出来ず吹き出すと、お返しにチョップを落とされた。
「痛! 何すんだ」
 わざとらしく額を押さえたがスルーされ、それどころか目の前に人差し指を突き付けられる。
「いいか龍夜、これはチャンスだと思え」
「いきなり何」
「華宮さんと隣の席になるチャンスだ。絶好の機会をみすみす逃すな」
「は」
 目の前に中指と親指も追加される。
「トリプルゴッドフィンガーだ!」
「……は?」
 ついていけずに眉を寄せる龍夜をよそに、寛司は突き出した指を折り曲げて手をぐっと握った。
「力を込める、そして引く! 念のこもったお前の指で、あの子の隣の席を!」
「何の話だよ」
 というかどうして龍夜が園と隣になりたがっていることになっているのだ。そんな話をした覚えはないしそう願っているつもりはない。そして席替えのやり方だって決まっていないのだからくじ引きとは限らず、トリプルゴッドフィンガーが有用だとは限らない。どの席になるかなんて龍夜が決められることではないし、どうしようもないことだ。
「まあ、なるようになるさ」
「どうした龍夜、席替えで悩んでたんじゃないの」
「そりゃどっちかっつーと寛司だろ、俺悩んでないよ」
「そうだったのか!」
 大きく伸びをして立ち上がった。無性に体を動かしたい気分だった。昼練を提案したら、寛司は快諾してくれた。
 寛司と軽く汗を流して迎えた五時間目の授業はやたら長く感じたのに、いざ授業が終わって放課後となると、一日があっという間だったような気がした。皆荷物をまとめて席に着いている。新崎が来て連絡事項があればそれを伝えて、そうしたら席替えの時間だ。大紀と知佳をそれぞれ見れば、プリントの切れ端を折り畳んでいるように見える。席替え用のくじだろうか。
 ……心の準備が出来ていない。どうしよう。
 どうしようもないことなのだけれど。龍夜に今やれることなんてないのだけれど。誰かと近くの席になりたいとか場所はどこがいいとか特に希望なんかないのだけれど――強いて言うなら嵐のような気軽に喋れる奴と近い席だと嬉しいけれど――じゃあどうして自分はこんなにそわそわと落ち着かないのだろう。昼の時は寛司を笑ったが、今ここに寛司がいたら、逆に龍夜が笑われたに違いない。やっぱり悩んでたんじゃねーか! と。
 新崎が教室に入ってくると、それまであちこちで交わされていた雑談が途絶えた。早く。早く。言うことあるなら早く言って。早く席替えしようよ。声のない意志の集合に新崎が苦笑する。
「皆そんなに席替え楽しみだったの」
 何人かが無言で頷く。新崎は今度は声を上げて笑う。
「好きだねえ。でも先生からの連絡の方が先だからもうちょっと待ってね」
 言うと両手に抱えたプリント類を一度教卓に置き、順に配り始めた。学年通信、保健室からのお知らせ。ふわだよりというのは学校からのお知らせで、校長のコメントや今後の学校行事なんかが載っている。主に保護者向けのプリントだ。とはいえ龍夜たちに関係のないものではなく、むしろ必要なものなのだろうが、今はそれ以上に大切なことがあった。
 席替えはまだか!
 教員というのはじらすのが得意だ。こちらが心待ちにしていることはあとにあとにと先送りするのに、正直どうでもいいように思えるつまらない話を先にしたがり、時には嫌な現実を――例えば通知表とか採点の済んだテストとかを突き付けてくるのだ。一番有名なのが長期休暇に入る前の集会で長い話をしがちな校長だろう。何とも許し難い。
 最後の配布物が全員に行き渡る頃には、龍夜の手元の学年通信は三十二つ折りになっていた。ここまでくるともう折り目というよりは皺である。開いてみると、刷ったばかりのプリントだったろうによれよれだ。……いや、じらしてくる新崎が悪い。今回のところはそういうことにしておこう。保健室のお知らせとふわだよりの間に学年通信を挟んで背負い鞄の隙間に突っ込み、新崎の次の言葉を待った。
「皆、今日はプリントしまうの早いね」
 当たり前だ!
「まったく。もう一回出してって言うのもあれだから簡単に言うけど、保健室からのお知らせには保健室の利用方法が書いてあるから、改めて確認しておいて。あと学年通信に修学旅行に向けての今後の流れをまとめてあるのでよく読んでおくように。……じゃあ」
 新崎が大紀と知佳を見る。二人が席を立つ。いよいよ席替えだ。
(よし)
 自分でも何が『よし』なんだか分からないが両手を握った。少し汗ばんでいる。
 教室後方に回った新崎に変わり、学級委員の二人が教卓に並んだ。
「今から席替えをします。僕たちでくじを作ったので、順番に引いていってください」
 大紀が窓側から、知佳が廊下側から、くじを入れた箱を持って回り始めた。おおよそ中央の席の龍夜がくじを引けるのは最後の方。ずるい! と思ったがすぐに、残り物には福があるからと思い直し、学級委員が近くまで来るのをじっと待つ。
 大別するとこの席は窓側になるから、龍夜は大紀からくじを引くのだ――と思って彼をずっと目で追っていたのだが、なんと目前でくじがなくなったらしい。箱を自席に戻すと黒板の前に立ってしまった。という訳で知佳の箱からくじを引くことになったのだが、彼女が龍夜のところに来る頃には、その残りは片手で足りるほどになっていた。
「わっ少な!」
「そういうものなんだししょうがないでしょ。早く引いて」
 昼休みの寛司の話を思い出す。席替えの方法がくじ引きでよかった。寛司の話が無駄にならずに済んだ。右手の指三本に力を込め、箱に突っ込む。知佳に急かされながらぐるりと箱を掻き回し、いくつもない選択肢の中からもうこれだと思ったものをつまみ上げた。
 紙片に書かれた数字は6だった。9と見分ける為か、わざわざ『ろく』と平仮名で書き添えてある。顔を上げる。黒板に大紀が六×六のマス目と、マスの中に数字を書き入れている。6は……最前列、一番廊下側の席だ。
「うわー……」
 思わず声が出る。「どこだった?」と稚子が訊いてくるのでくじを見せると「あー……」と返された。
「藤真は?」
「私窓側の前から二番目」
「窓側いいじゃん」
「ちょっと眩しいけどね」
 でも廊下側よりはだいぶマシだ。あと……寛司、ごめん。
「皆、新しい席の場所を確認した? 一斉に移動するよ」
 大紀の声でクラス全員が立ち上がり、机、椅子、全てを抱えてぞろぞろと動き始めた。誰かとすれ違う度に「お前どこ」「俺あっち」を繰り返すせいで、そこかしこで渋滞が発生する。
「ほらー早く動いてよ」
「邪魔!」
 口うるさい女子たちに散らされながら男子たちは新しい席へと移動する。龍夜も新自席に辿り着いて。
「お」
「よう」
 後ろが嵐だと知った。
「やった嵐の前だ。授業分かんないとこあったら教えてもらお」
「やだよ」
「えーケチ」
 言いながら教室中に目を走らせる。皆はどこの席だろう。知佳は後ろの方で涼しい顔をしている。稚子は先ほども言っていた窓側の席で姿勢よく座っている。席替えを提案した大河は真ん中あたりと中途半端なポジションだが、一番前よりはましだと思っているのかまずまずの表情。大紀は教卓の真ん前、学級委員の特等席だ。
 そして。
「よろしくね」
 園は嵐の隣に机を置くと軽く頭を下げ、龍夜と目を合わせて微笑んだのであった。



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