2.


 脳裏に思い描かれたのは四年前の夏の空。小学五年生の夏休み――伏和に引っ越してくる前、まだ深空に住んでいた頃の記憶だ。
 あの日龍夜は海で幼馴染たちと釣りをしていた。釣り上げたカサゴを高々と掲げて晩飯は唐揚げにしようだとか、そんな友人を見ていいなあと羨ましがったりだとか、逆に全然釣れなくて恨み節を垂れたりだとか、そんな具合に貴重な夏休みをだらだらと消費していた時のこと。声を掛けられて振り向けば、いつも遊んでいる仲のいい女子二人ともう一人、知らない子が立っていた――。
 思い出の中の少女が、壁際の女子生徒と重なる。
 正直、人の顔と名前を覚えるのはあまり得意ではない。だから伏和に転入してきたばかりの時は知らない顔だらけで毎日緊張していたし、顔の広い寛司と仲良くなれた時は心底ほっとしたものである。
 しかし彼女は。彼女のことはよく覚えている。当時どこだか遠くに住んでいた彼女は、親の用事で少しの間深空に滞在していた。もちろん用事があるのは親だけである。ひとり時間をもて余していたそんな時に、彼女は龍夜たちと出会ったのであった。
 四年前にわずか数日間一緒に過ごしただけだったが、彼女は龍夜たちの仲間だった。仲間のことを忘れるはずがなかった。
 始業式が終わり、生徒は順次退場するよう指示される。入場してきた時とは逆、背の高い者から順に体育館から出ていく。いつもはだらだらと歩きがちな生徒たちも、今日は足早に階段を上っていく。少しでも早く新しいクラスを確認したいのだ。龍夜もその内の一人で、何度か列の動きよりも早く足を出してしまい、前を行く寛司の踵を何度か踏んだ。
「あっごめん、わざと」
「怒るぞ」
「すんませんわざとじゃないです」
「よろしい」
 教室に戻ると、黒板の真ん中に一枚のA4用紙が磁石で留められていた。新クラス発表だ。先に教室に入った誰もが席に着かず、黒板周りに集まっている。
「おっ俺D組だ!」
「担任誰だろう」
「あっまた一緒のクラスだね〜」
 自分の組だけ確認して席に戻る者もいれば、友人のクラスまで把握しようと用紙を見つめて動かない者もいて、後者が圧倒的多数だ。なかなか減らない人垣の隙間から覗き込み何とか文字にピントが合うところまで近付いて、龍夜は紙面に目を走らせた。
 紙面にあるのは五つの表。左からA組、B組、C組、D組、E組と表になっており、各クラス出席番号順に名前が並んでいる。出席番号は五十音順、『高坂』はだいたいクラスの真ん中より少し前あたりだろう。見当をつけて探していく……あった、一番左の表、A組の十七番だ。
「俺、A組。寛司は?」
 隣の友人を見遣れば、「B組ー」と返ってくる。
「あ、隣のクラスだね」
「そーね。Aって他誰がいんの?」
「誰だろ、えっと……」
 龍夜が表に目を戻すより早く背中を叩かれた。
「高坂君、また同じクラスだね」
 振り向くと稚子が、ひらひらと右手を振っている。
「藤真もA組なんだ」
「うん。また一年、よろしく」
「こちらこそ」
 席に戻っていく稚子を見送り、寛司の視線を無視して再び表を見る。そうだ、体育館で見た転入生。彼女を確認しなければ。
 体育館で見かけただけである。彼女が新三年だという証拠はない。記憶違いの可能性だってある。しかし。それでも龍夜は、彼女が同学年であるということを確信していた。
 理屈じゃない。直感だ。それだけを頼りにして表に目を滑らせる。
(確か、名前は……)
 三月までは見かけなかった名前を探す。
 そして。
(……あ)
 長年記憶の底にこびりついて離れなかった名前、カミヤソノ。それが確かに、表の中にあった。
 一度用紙の外に視線を逃がしてからまた表を見直す。連なる名前を端から順に、頭の中で読み上げていく。一番左の表、上から十四番目で目が止まる。
 A組十四番、華宮園。
 間違いない。自分の記憶と直感が正しいことを知ると同時に、全身がかっと熱くなるのを感じた。額から首から脇から、汗が吹き出してくる。鼓動が速くなる。
(まじか……)
 やはり、と思う反面、まさか、とも思う訳で。こんなドラマのような展開が現実にあるなんて夢でも見ているような気分だが、これは妄想でも何でもない。気付かぬ間に止めていた息を吐き出して、龍夜は学ランの上から左胸を押さえつけた。
 新崎が教室に戻り、旧2Eの生徒たちは席に着いた。
「これから新しいクラスに移動してもらいます。皆、ここに貼ってある紙ちゃんと見た?」
 用紙を手に取りながら新崎が教室を見回す。ばらばらと首を縦に振るのを確認して新崎も頷く。
「一斉に動くと廊下混雑するからね、新クラスがA組の人から移動していきます。じゃあA組の人、荷物持って起立」
 立ち上がったのは龍夜含めて七人。その中には稚子と、それから嵐の姿もあった。さっきは転入生のことでいっぱいで確認をしそびれていたが、嵐とも同じクラスらしい。少し安心する。
 戸に近い席の者から順に出ていく。目の合った寛司に小さく手を振って、龍夜は稚子に続き廊下へ出た。
 二年生の教室は二階だったが、三年生の教室は三階になる。階段を上がりながら、遅刻のリスクが高くなるな、などと考える。昨年度は遅刻ぎりぎりの日が多かった寛司が今年度はどうなってしまうのか気になるところではあるが、違うクラスになってしまった為日々見守ってあげることが出来ない。実に残念である。
 新しい教室に入ると既に他クラスから移動してきた生徒たちが席を確認していた。龍夜たちもそれに倣う。窓際最前の席が一番、龍夜は十七番だから……机を数え、窓側から三列目、前から五番目の席に荷物を置いた。座って見回してみると、当然ながら先ほどまでと景色が全く違う。窓の外の木や建物はより小さく、しかし遠くまで見えるし、周りに座るのはよそのクラスの人ばかり……訂正、『よそのクラスだった』人、だ。今日からは彼らがクラスメイト。中には顔と名前が一致しない者もいるから早めに覚えないと。
 見慣れない顔が多いと、目は自然とよく知った顔を追う。嵐は龍夜から見て右斜め前の方の席だ。そして稚子は、龍夜の隣の椅子に座った。
「あれ、席そこなの?」
「そうだよ。何、不満?」
「まさか」
 ほとんどの席が埋まった頃、「皆、座ったー?」と新崎が顔を覗かせた。あれ? と稚子を見れば、「今年も新崎先生が担任だよ」と返ってくる。クラス発表の用紙にちゃんと書いてあったらしい。
 新崎に続いて、体育館で見た女子生徒が教室に入ってきた。彼女が教卓の隣に立っている。
「じゃあ、皆知ってると思うけど改めて。今年一年間、A組の担任をすることになりました、新崎です。よろしくお願いします」
 新崎の新学期お決まりの挨拶が耳をすり抜けていく。
「それから、新しい仲間を紹介します」
 新崎の言葉で彼女は軽く会釈した。
「はじめまして。華宮園です。よろしくお願いします」
 園と名乗った彼女の視線が教室内をさ迷って、龍夜で止まる。にこりと笑う。一度は落ち着いた心臓が再び暴れ始める。
 間違いない。彼女も龍夜のことを覚えてくれている。



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