1.


 四月最初の登校日、始業式の日。この日から三年生に進級――のはずが、龍夜は二年E組の靴箱にスニーカーを入れて中央階段を上り、慣れ親しんだ旧2Eの教室の戸を開けた。
「おはよう龍夜」
 真っ先に声を掛けてきたのは旧2Eのクラスメイト、木倉遥。彼の後ろから顔を出した野阿嵐も「おはよー」と続ける。
「おはよ。何か、教室変わらないと新学期っぽくないね」
「まあねえ」
 言われて嵐が目だけで周りを見回す。旧2E教室に、元2Eのクラスメイトたち。二週間前の修了式で見たのとほぼ変わらない顔ぶれ。三月が四月に変わっただけで、そこに新しさはない。
(一人足りないけどね)
 三月に転校していったクラスメイトのことが脳裏をよぎったが、「でもこれからじゃん」という声で意識を背後の人物に向けた。
「あ、寛司おはよう」
「よ」
 龍夜の後から教室に入ってきた双馬寛司もまた、旧2Eのクラスメイトであった。四人ともバスケットボール部で、春休み中もずっと顔を合わせていたのだから、このメンバーで集まってしまうとなおさら新鮮味がない。
「このあと始業式で、そしたら新しいクラスの発表だろ? 俺たちあと一時間後には別々のクラスかもしれないんだから、仲良く名残惜しもうぜ」
 なあ、と寛司が遥の肩に腕を回すが、即座に叩き落される。
「何それ、気持ち悪」
「ひっでぇなお前! しんみりした空気を和ませようとしただけじゃん!」
「いやそれがまず間違い。しんみりなんてしてない」
「あれ、そういう感じじゃなかった?」
「全然」
「ええ〜」
 寛司が大げさに驚いてみせる。それにげらげらと笑い返す嵐、そして遥。
 龍夜は時計を見、次に廊下を見、それから三人の脇腹を人差し指で突いた。三人が反射的に身体を反らしている間に一歩、反撃の構えを見せる前に二歩下がる。時計の針が動く。
「何しやがる!」
「やりやがったな龍夜」
「お前あとで覚えてろよ」
 彼らが吐いた捨て台詞に始業のチャイムが重なった。時間切れである、彼らは龍夜に仕返しをすることは出来ない。口の端を上げて、言い放つ。
「遊んでないで席に着きなよ」
 決まった。言いようのない高揚感を胸に、龍夜は席に着いた。この教室での最後の着席は大変素晴らしいものだった。
 旧2E教室に集まったのが旧2Eの面々であれば、そこに現れたのも旧2E担任の新崎であった。このあとは体育館で始業式、それが終わったら再びこの教室に戻ることになる。その時には黒板に新クラスの名簿が貼られているから、各自それを見て新しい教室に移動するように――新崎の口から事務連絡が告げられる。
 生徒たちは誰一人無駄口を叩かない。静かなのに、騒がしい。これからの一年を左右する重大事項が、もうすぐ発表されるのである。落ち着いてなどいられない。緊張する。
 新崎は話し終えると生徒たちを起立させた。
「じゃあ、そろそろ時間だから、体育館に移動します」
 ぞろぞろと廊下に出て整列する。身長順、背の低い者を前にして列を成していく。龍夜も自分の定位置、列真ん中より少し後方、寛司の後ろについて。
「あれ?」
 首を傾げた。
「寛司、背伸びた?」
「そりゃ伸びるよ、セーチョーキだもん」
「ちょっと背筋伸ばして」
 寛司を気を付けの姿勢にさせ、自身も同様にして立つ。目の前を通った藤真稚子に声を掛ける。
「ね、俺たちどっちが背高い?」
「は?」
「いいから答えてよ」
「それ、今じゃなくてもいいんじゃない?」
「背の順に並ぶんだから、今こそはっきりさせるべきでしょ」
「はあ」
 稚子の目が足元、肩の位置、そして頭へと向けられる。春休み前までは、若干ではあるが龍夜の方が背が高かったが。
「……ちょっとだけ双馬君、かな」
「まじか! よっしゃー!」
 二週間を経てそれが逆転した。寛司がガッツポーズをしながら龍夜の後ろに並び直す。給食で好物が出た時に匹敵するニコニコ顔だ。
「うわー何か悔しい」
「それはほら、セーチョーキですから」
「俺だってそうなんだけど」
「気にすんなって。これからこれから」
「あーあやっぱ腹立つ」
 そんなやり取りの間に稚子は列に入っていき、二人は静かにするよう新崎から注意された。目を合わせて気まずさから肩を肩にぶつけ、口を噤んで列に入る。隣の旧2Dの列が動き出す。それに続いて旧2Eも進み始めた。
 入学式はこの日の午後に催される。先月にひとつ上の先輩たちが卒業していき、下はまだ入ってきていない。ここにいるのは新二年と新三年だけ。これまでの全校集会の時なんかと比べると、体育館がやたら広く感じられる。前後左右、ゆとりをもちながら並んで座る。尻から伝わる冷たさが龍夜の姿勢を正した。
 生活指導教員の司会で始業式が始まった。相変わらず校長の話は長い。春休みの間に喋らなかった分を今まとめて話しているのかと思うくらいに、次から次へと話題が出てくる。
「――というところで、話を終えたいと思います」
 遂に終わるかと期待するも。
「そして最後に」
 まだ続く。本当に二週間分のお喋りをここで流しているんじゃないだろうな? 校長の家族は誰も話も聞いてあげていないのか? そう考えたら、ちょっとかわいそうな気すらしてくるが、一番可哀想なのは自分の尻だと龍夜は思った。こんな固い床の上で長い間潰され続けて、もし変形してしまったら誰が責任を取ってくれるのか。俺の尻はデリケートなんだからもっと大事にしてくれないと困る――思考が斜め上に飛んでいく。校長の話に飽きた証拠だ。
(早く終わらないかな)
 膝を抱え込みあたりを見回した。
 壁沿いには教員が立っている。ステージに向かって右側の壁に新二年の担任たちと、養護教諭等の担任をもたない教員たち。左側に新三年の担任たちと、旧三年の担任たち。旧三年の担任は、今度は新一年の担任になるのだろう。午後のご対面までは休息、といったところか。
 その中に知らない顔がある。男性が四、女性が一。新しく異動してきた先生たちだろう。かちっとしたスーツを着て、少し緊張しているように見える。中でも一番若く見える男性は、見ているこっちが手に汗握ってしまうほどがちがちだ。大丈夫なのだろうか。逆に心配になってしまう。
 校長の声に耳を傾ければ、ようやく「では、皆さん今年一年も頑張っていきましょう」と話を締め括るところだった。長かった……何となく時計を見てから、校長の話が始まった時にも時間を確認しておけばよかったと思う。いったいあの人は何分喋り続けたのだろう。どうでもいいことだがちょっと気になる。
 ふと新崎と目が合った。新崎は一度背中を丸めてからすっと伸ばし、小さく前を指差す仕草をする。背筋を伸ばして前を見ろ、と言いたいらしい。分かったよ先生。姿勢を正して、次に壇上に立った音楽担当教師の高木を見――。
(あれ……?)
 見ようとして、壁際に立つ女子生徒から目が離せなくなった。
 生徒は全員昨年のクラス毎に並んで座っている。何らかの理由があって遅刻してきた者は、列に割り込まずクラスの一番後ろについている。
 じゃあ彼女は? 疑問に思ってから、それから龍夜自身が転入してきた時のことを思い出す。昨年九月初めの始業式、龍夜は体育館の後方隅から自分が属することになるクラスの皆の後ろ姿を眺めていた。
 ということは彼女も転入生だろう。二年生か、三年生か。改めて彼女を見る。色白で、手足がすらりと長く、女子にしては少し背が高い方。胸元までまっすぐに伸びた髪は少しだけ茶色がかっていて、黒目がちの目がまん丸で大きい。
 まさか! 脳裏をよぎった予想を振り落とす。
 いや、こんなものは予想ではない。ただの、自分の期待だ。そうだったらいいなと、目の前の現実と記憶を都合よく繋ぎ合わせているだけだ。あり得ない。そんな映画みたいなことが、ある訳がない。
 しかし――龍夜の視線に気づいた彼女は、丸い目を更に丸くしたのであった。



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