18.


 初めて食べるにしんそばは甘辛くて冷たくて美味しかった。わざわざメニュー名に『冷』とついているくらいだから通常は温かい食べ物なのだろうが、これはこれでいい。というかこれしか知らないから比べようにない。
 腹ごしらえも済んだことだし次に行こうと、店を出て銀閣に続く坂道を上る。
「何だってこう、寺ってのは坂の上にあるんだろうな」
「坊さんが下々の民を見下ろす為じゃね」
「そんな訳ないでしょ」
 和久と広隆のぼやきを知佳がばっさり切る。
「そろそろお土産買いたいね」
「銀閣寺参拝して戻ってきたら買おうか」
「八ツ橋のお店いろいろあるけど何が違うんだろうね」
 土産物屋を覗く稚子と愛に、望がうんうんと頷いている。
 景色の写真を撮り、デジカメの液晶を確認した嵐が「あれ」と呟く。遥に画面を見せる前に、遥自身でそれに気づく。遥が手を振ると向こうもそれに気づいたらしく手を振り返してきた。
 坂の上から下ってくる観光客の中に、はるかをはじめ伏和中バレー部の面々を見つけた。銀閣に参拝して戻ってきたところだという。
「皆はこれから?」
「うん。どうだった?」
「銀閣寺ってほんとにあったんだ! って感じ」
「どういう意味だよ」
「あと混んでた」
「あーやっぱりなー」
 参道は大混雑とは言わないまでも人が多く、気をつけていないと肩をぶつけてしまいそうだ。参道がこの調子なのだから、観光名所である銀閣寺に人が多いのも納得である。
 はるかたちはここが史跡巡り一カ所目なのだと話していた。午前中は八ツ橋の手作り体験をしたのだそうだ。龍夜は神社や寺を見ることばかり考えていたが、そういう選択肢もあったのか。
 班の数だけ自由行動があり、班の数だけ学の修め方がある。他の班はどこに行って何を見ているのだろう。皆のことが気になって、それが帰ってからの壁新聞作成につながるのだと気づく。今から知の共有が楽しみだ。そのためにも今、自分の自由行動を楽しむことが必要なのだ。
 バレー部班と別れ、銀閣寺の総門をくぐる。生け垣で道を作ってあるところが『それっぽい』。拝観料を払った代わりに渡されたパンフレットにお札が挟まっていたことも『それっぽい』。そして。
「うわー銀閣だ!」
 思わずテンションが上がり、大きな声を出してしまった。教科書で見たのと同じだ。今までの銀閣は『本の中で見たもの』でしかなかった。虚構と現実の狭間であやふやだったそれが今、龍夜の中で現実と結びついたのだ。先ほどはるかが言っていた、『銀閣寺ってほんとにあったんだ』という感想が、今なら分かる気がする。
「ねえ、ここで一枚撮っておこう」
 寛司の提案で、稚子班と嵐班に分かれて集合写真を撮った。銀閣を背にし、ピースサインを作って嵐の構えるカメラのレンズを見る。白い砂の山が視界に入る。
「……何あれ?」
 それの前に移動すると、脇には『向月台』のプレートがあった。向月台は円錐の先端を切り落としたような、バケツをひっくり返したような、皿に出したプリンのような、不思議な形をしている。月を向く、という字の通り、月と関連するものなのだろうか。
「何に使うものなんだろ。上に立って月見る用なのかな」
「そりゃ無理だろ」嵐が龍夜の想像を否定する。「あれ砂盛り上げただけなんでしょ? 足かけたらざらざら崩れてくるって」
「そうだよねえ」
 ではいったい何の為に。二人して首を傾げていると、園が答えを教えてくれた。
「何の為のものか、はっきり分かってないんだって」
「えっそうなの」
「うん。リューヤ君が言ったみたいにあの上で月を見る説とか、月明かりを反射させて庭を照らすのに使う説とかあるみたいだけど、本当のところは不明」
「へえ……何か、不思議だな」
 向月台の隣の低く広く砂を盛り上げて作られたのは銀沙灘というそうで、こちらは波をイメージしているらしい。等間隔の縞模様は、言われてみれば海の波と似ているような気もする。銀沙灘から侘び寂びの心を理解することは出来なかったが、これを作るのが大変だということは分かるしこれを見てすごいとも思う。もしかしたら寸分違わずこれを作り上げることも、仏道の修行のひとつなのかもしれない。
 銀閣寺の各建物の内部は通常公開しておらず、見学することは出来ない。代わりに広い庭園をぐるりと一周する。池の水は透き通っていて、たくさん木が植えられているのに枝も葉もあまり落ちていない。すごく手が掛けられている。その証拠に、今も順路から離れた庭の奥の方で、庭師が木にはしごを掛けていた。
「あの人が手入れしてるんだな」
 木を見上げる寛司に「だね」と返す。と、突然。
「お疲れ様でーす!」
 大きな声にびくりとしてしまった。寛司だ。寛司が龍夜の真横、耳元で大声を出したのだ。急にどうしたのかと思えば、庭師に向かって手を振っている。他の参拝客たちが何事かとこちらを見てくる。
「ちょっと双馬君!」
 稚子が寛司の腕を引っ張って止めに入った。
「ちょっとやめてよ、周りの人びっくりしてるから」
 言われて寛司はようやく周囲を見回して、注目を集めてしまったことに気づき「あ、すんません」と小さく頭を下げた。皆静かな境内で風情を感じているのだから、それを邪魔するようなことはしてはいけない。
 しかし。
「ありがとう〜!」
 まさかの展開である、庭師が手を振り返してくれた。
「ほら! やっぱり頑張って働いてる人にはちゃんと『お疲れ様です』っていうべきなんだよ」
 どうだと寛司が稚子を振り返った。稚子は呆れたように肩をすくめる。先ほどの寛司の行動は場にそぐわないものだった。それでも庭師から返事が来たのは、庭師が優しい人だったからに他ならない。
 木々が日陰を作るからか、庭園には苔が茂っている。おかげで参道を上っていた時より体感温度はだいぶ低い。池の水が風でさざめく音、滝の水が落ちる音が聞こえ、聴覚からも涼をもたらす。木漏れ日が柔らかく気持ちよかった。
 庭園を一周して自分や家族への土産を買いながら参道を下る。次は本日最後の目的地、金閣寺だ。銀閣から金閣までは距離があり、最寄りのバス停までは102系統バスに乗って三十分程度かかるそうだ。
「じゃ、金閣まで休憩だな〜」
 座席に沈み、和久はさっそく寝る姿勢を作った。隣に座った知佳が「えっ寝ちゃうの?」と半眼になる。
「ちゃんと起きてよ。起こさないからね」
「えっそこは起こしてよ」
 言いながらも和久のまぶたは閉じていく。最悪起きなくても、何だかんだ知佳が起こしてあげるのだろう。あとは彼女に任せよう。龍夜は身を乗り出して前の席に座った嵐をつついた。
「ねえねえ写真いっぱい撮ってる?」
「撮ってるけど、龍夜も結構撮ってるよね。ほら」
 嵐が見せてくれたデジカメの液晶にはカメラのレンズを覗く龍夜が写っている。
「そうだけど、俺のカメラ、インスタントだもん」
 これは撮り終わってカメラ屋に持っていって現像しないと写真が見られない。それに対して嵐のデジカメは撮ったものが今すぐ確認出来る。
「今見たいんだよね」
「あ、そういうこと。……はい、落とさないでよ?」
 嵐からデジカメを受け取り、座席に座り直して写真を表示させた。
 一番最後に撮った写真から少しずつ時間を遡っていく。八ツ橋を試食する寛司、ちりめんのクマの人形を選ぶ女子たち、冷茶を買う龍夜――そうそう、これはお茶の味が濃くて美味しかった。銀閣の展望所からの眺めはよかったが、南禅寺の三門や清水の舞台からの景色もそれに引けを取らなかった。八坂神社では神前式を見た。
 全部今日一日の出来事だ。密度の高い時間を過ごしている。しかしまだ終わっていない。終わらない。
 嵐にカメラを返して窓の外を見る。金閣寺はまだ遠そうだ。



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