13.


「……この展開は予想してなかったぜ」
 大仏殿を出て寛司がうなだれる。それもそのはず、結局誰も柱の穴をくぐることが出来ず、勝敗がつかなかったのだ。
「大河がくぐれてたから俺もいけると思ったんだけどな」
 寛司と大河の体格は同じくらい。ならば確かにやれそうな気はするが、きっと体格以外の、身体の柔らかさ等が大きく違ったのだろう。柔軟性が身体の動きに大きく影響を与えることはもちろん知っていたが、ここまでとは。夏のバスケの大会までの間、練習メニューに柔軟運動を積極的に取り入れておく必要がありそうだ。
 このあとはしばらく自由行動となる。主に持参した弁当を食べる時間だが、早く済ませた場合は鹿と戯れたり、必要であれば家族への土産を吟味してもいい。
「さっさと飯食って遊ぼうぜ。来る途中にテーブルとか見たから行ってみよう」
 寛司はそう言うが、正直龍夜は気が進まなかった。また鹿に襲われてはたまらない。鹿は龍夜の弁当を狙っていた。鹿の目の届く範囲で弁当を広げるのはリスクしかない。
 どこか鹿のいないところはないか。来た道を戻りながら目を走らせ……南大門を出た左手に、ステージのように一段高くなった場所を見つけた。周囲に鹿がいない訳ではないが、ステージの上にはいない。上がれないのかもしれない。
 龍夜は先に行く寛司を呼び止めてステージを指差した。
「ねえ寛司、あそこにしよ。鹿いないし」
「え? せっかくだし鹿見ながら食った方が面白くね?」
「食ってる間に鹿に襲われるよりはましだろ」
 龍夜の真剣な主張に嵐が吹き出す。笑いながらも龍夜に賛成してくれる。
「そうだよね、落ち着いて食べたいもんね」
「何だよ嵐まで。まあ二人がそう言うなら……遥はどう?」
「俺も別にいいけど。何かあったの?」
「いや何も」
 首を横に振る龍夜の言葉は、嵐の「あとで見せてあげるよ」という台詞に打ち消された。
「えっ見せるって何」
「ちょっと事件があったんだよ。ね、龍夜?」
 何が『ね、龍夜?』だ。人事だと思って。……いや実際嵐からすれば人事なのだが。こちらとしては大変だったことをそんなに面白がらなくてもいいのに。そして寛司や遥にわざわざ教えてやらなくてもいいのに。
 龍夜の予想通り、弁当を広げながら嵐の撮った写真を見た二人は失礼にもげらげらと笑いやがった。やべーほんとに鹿に襲われてる、むしろ好かれてるんじゃね、龍夜ビビり過ぎでしょ――写真を見ながら言いたい放題だ。
「そんなに笑わなくたっていいだろ」
 むくれてみせたのだがその意味は寛司には伝わらなかったらしい。
「やられっぱなしじゃいられないよな! 龍夜にはリベンジが必要だよな!」
 斜め上の方向へ転がる話に、龍夜も「はあ?」と返すしかなかった。
 奈良公園周辺では鹿せんべいを販売している店がいくつもある。龍夜を助けてくれた白人カップルも持っていたそれは、簡単に言えば鹿用のおやつ。それを鹿に食べさせて、今度こそ鹿と仲良くなろうというのが寛司の計画だ。
「別に俺、鹿と仲良くなりたい訳じゃ……」
「何言ってんだよ。俺たちせっかく遠くからここまで来たんだ、鹿と友だちになっていい思い出にしたいじゃん」
 と寛司はそれらしいことを言うが、もう一度、次は自分の目の前で龍夜に鹿をけしかけたいだけだ。そうに決まっている。
 そして柱くぐりと同じだ。断るという選択肢などない。
「ほんとに俺、鹿はちょっと」
「食わず嫌いはよくねーぞ」
「鹿、食べ物じゃないけどね」
「どっちかっつーと食われそうになったのは龍夜だね」
「笑いごとじゃねーっつの」
 渋る龍夜の肩を寛司と遥が左右から抱え、嵐が背中を押す。三人にがっちりと固められ、龍夜は鹿の群れ目指して重い足を動かした。
 途中、背中の圧がなくなった。振り向くと嵐がいない。見回すと、道端の『鹿せんべい』の看板を出した露店の女性に何やら話しかけている。一言二言言葉を交わし、女性から鹿せんべいを受け取る。女性に軽く会釈するとこちらに駆け戻ってきた。
「買ってきた」
「おー嵐サンキュー」
 鹿せんべいが寛司、遥、龍夜に三枚ずつ配られる。
「今度こそ勝負ね。一瞬でいいから、一番たくさん鹿を引きつけた人の勝ち」
「うん? 何頭来たか自己申告ってこと?」
「いや、鹿せんべい買ったの俺だし。俺は今回不参加、スポンサー兼審判ってことで。写真撮ってくから、あとで写真見てジャッジしよう」
 何だそれ、嵐だけずるいぞ。抗議しようにも、鹿せんべいの存在に気づいた鹿たちが早くもわらわらと集まってきた。もう引き返すことは出来ない。勝負に負ける訳にもいかない。鹿の迫力に圧され後退りつつ、龍夜は周囲の鹿に目を遣った。
「早くも寛司選手の周りに鹿が集まりつつあります。そこに遥選手割り込む! 寛司選手の鹿を横取りしようとしている模様!」
「おい遥そういうのやめろよ!」
「寛司選手、鹿を取り戻すのに必死です!」
 嵐がシャッターを切りながら実況を始めた。彼の言う通り、鹿たちが二人の方に流れている。
 この勝負はトータルで何頭集めたかではなく、瞬間的に何頭鹿を集められたかを競うものだ。ちまちまとせんべいをちらつかせるよりは一度に全部出してしまった方がよさそうだ。それならば――龍夜は意を決して鹿せんべいを高々と掲げた。鹿の視線が龍夜のせんべいに集まる。ひらひらとせんべいを振ってみせる。このせんべいの匂いがどの程度強いのかは分からないが、こうして拡散させれば、動物ならきっと嗅ぎ取ってくれるだろう。
「おっ龍夜選手、鹿せんべいを振って謎の踊りをしています! 鹿相手に猛烈アピールです!」
「ねえちょっと、その恥ずかしい実況やめてよ」
「え? 俺としては戦況の分析に必要な情報をお届けしているつもりですが」
「いや嵐がどういうつもりなのかはどうでもいいんだけどな!」
 だいたい龍夜は踊っているつもりなど微塵もない。せんべいを少しずつ割って撒きながら鹿の気を引いているだけだ。そして。
(そろそろいいかな)
 持っていた鹿せんべいを全て投げ捨て、龍夜はその場を離れた。
「なんと龍夜選手、これは荒技! 『全部ここに置いていくからあとは自由に食べてくれ』と、そういうことでしょうか!」
 どういうことでもいいが、鹿は地面のせんべいに夢中で龍夜のあとは追ってこない。せんべいを持たない人間に用はないということか。随分と現金な奴らだが、龍夜から離れたところで鹿を集められたのだ、龍夜にとっても都合がいい。
 さて――寛司と遥の様子を窺うと、二人の鹿せんべいももうなくなっているようだった。これにて競技は終了、あとはジャッジが下るのを待つだけだ。
「ほんとないわー人のエモノ取るとかないわー」
 というのは寛司。嵐が実況していたように、遥に鹿の取り巻きを横取りされたらしい。
「違うよ寛司、俺はココを使っただけだ」
 こめかみの辺りを指でつつく遥の得意げな表情から察するに、なかなか自信があるようだ。これは遥と龍夜の一騎打ちか? いや、結果が出るまでは分からない。審判の嵐はといえば、木陰でデジカメの液晶をじっと見つめている。何度も指折り数え、納得したのかうんうんと頷いて三人を手招きした。
「結果発表ー!」
 渡されたデジカメの液晶に映っていたのは鹿だけだった。地面に散らばる鹿せんべいに群がっているこれは。龍夜の投げ捨てたせんべいだ。
「まず龍夜、鹿七頭」
 画面に写る鹿を龍夜自身も数え直して確かに七頭だと確認する。これはまあまあな成績ではないだろうか。納得してカメラを嵐に返した。
 次に見せられたのは遥の写真だ。遥の差し出すせんべいに鹿たちが集まっている。その数は……七、龍夜と同じだ。
「遥も七か、同点だね」
「いや、八だよ。奥に写ってる鹿が遥の方見てる」
 嵐に言われ改めて液晶を見る。遥の後方にいる鹿の顔は、確かに遥を向いていた。ルールはあくまで『たくさん鹿を引きつけた』数であり、手の届く範囲に集まった数でも鹿せんべいを食べさせた数でもない。ならばこれもカウントするべきだろう。
 龍夜が七、遥が八。早くも龍夜の敗北が決定した。あとは寛司の結果で順位が決まる。寛司の写真は――。
「嘘だろ」
 嵐の差し出す液晶を見て遥が目を見開く。龍夜も覗き込んで思わず「あっ」と漏らす。
 そこに写るのは遥を指差して何やら大声を出しているらしい寛司と、そんな彼を囲んで見上げる鹿たちだった。寛司に集まる鹿を遥がさらっていき、文句をつけていた時の写真だ。その鹿の数は十、なんと遥を上回っている。
「えっ何これどういうこと?」
「おそらく大声に反応したんじゃないかな。鹿せんべい以外の方法で鹿を集めるとか、さすが寛司、意味分かんない」
「何だその褒め方、嬉しくねーぞ」
「褒めてないからね」
 嵐は寛司からデジカメを取り上げ代わりに鹿せんべいを一枚押しつけると。
「ま、とにかく優勝は寛司選手でした。おめでとう! これは賞品の鹿せんべいだ!」
 せんべいを持った寛司の手を取って高々と掲げた。
「あれ、まだ残ってたの」
「十枚入りだったんだよね」
「嵐は鹿にやった?」
「ううん俺はいいや、見てる方が面白い」
「お前のそういうとこ、ほんっとよくないぞ」
 言っている間にもまた鹿が集まってきた。よだれを垂らしながらこちらに駆けてくる。身の危険を感じ、龍夜は手のひらを鹿に見せて何も持っていないことをアピールしながらじりじりと寛司の傍を離れた。何も持たない人間に鹿たちは興味を示さない。龍夜、遥、そして嵐の脇をすり抜けて寛司目掛けて突っ込んでいく。さすがに危ないのでは……龍夜は寛司を振り返ったが、当の寛司は落ち着いたもので、せんべいを割りながら遠くに撒いて鹿の集団を分散させていた。
「寛司大丈夫?」
「うん。けど……」
「どうした?」
「こいつらこれに夢中過ぎじゃね?」
 寛司は左手に残る鹿せんべいのかけらを眺めて呟く。
「そんなに美味いのかな」
「あ、ちょっと!」
 嵐が止めるよりも先に、かけらは寛司の口の中に吸い込まれていく。
 そして。
「マッッッズ!!」
 道端に汚らしく吐き出されたのだった。



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