12.


 初めは全てが面白くて車内を歩き回ったり違うクラスの友人に絡んだりしていた龍夜だったが、いかんせん京都は遠かった。移動出来る範囲を歩き尽くし、知った顔ほぼ全員に声を掛けたのに、時計を見ると京都到着予定時刻まであと一時間以上ある。仕方なく自分の席に戻り、修学旅行のしおりを見返し、嵐と雑談し、近くに座るクラスメイトたちとトランプで遊ぶなどして時間を潰した。
 そうして到着した京都だが、この日の目的地はここではない。電車を乗り換え、更に揺られることおよそ三十分。ようやく最初の修学ポイント、奈良公園に辿り着いた。
 偶然とはいえ、奈良公園は先ほど新幹線で予習済みである。星魚の写真には鹿が何頭も写り込んでいた。野生の鹿がたくさん暮らしている公園だということくらい知っているぞ――情報は頭にあったのに。
「すげーいっぱいいる!」
 実際にこの光景を目の当たりにすると、言わずにはいられなかった。
 歩道を悠々と歩く鹿、木陰で休む親鹿と子鹿、カメラを構える人の前ですまし顔の鹿。あっちこっちに鹿がいる。駅が近くにあって、大勢の人が生活している中に広い公園があって、そこにこんなにも多くの鹿がいるなんて。しかも誰かが飼育しているのではなく、野生の鹿だなんて。そしてその中で、伏和中生たちがぞろぞろと列を成している。何だか信じがたく、不思議な光景だ。本当に、伏和も深空とも違う、知らない場所に来てしまったのだ。
 しかし浮ついていてはいけない、気をつけなければいけない――生きている以上仕方がないことだが、鹿の数だけ糞も落ちていた。
「嵐、気をつけないと踏んじゃうよ」
「龍夜こそ。踏んだらうち帰るまでずっとくさいよ」
 今から行く東大寺でも、明日訪れる京都の寺社でも、明後日の帰りの新幹線でも、ずっとくさい……それは絶対に嫌だ。足元に注意を払いながら、前を歩く生徒に遅れないようについていく。
 別にまじまじと見たい訳ではないが、やはり踏みたくないので目はどうしても地面の糞を追ってしまう。そして気づく。意外と踏まれた跡があるのだ。踏んだのは鹿自身か、それとも人間か。靴跡がくっきり残っているのは確実に人である。気の毒だな。そんなことを考えていると。
「あーっやべーっ!」
 誰かの叫び声が聞こえてきた。周りが「誰? 誰?」とざわめき始める。何と、さっそく伏和中生にも犠牲者が出てしまったらしい。ご愁傷様。龍夜は内心合掌した。
 後ろからぐいと押された。何かと思って肩越しに振り向くと、後ろを歩いていた稚子が驚いた表情で龍夜の背中辺りを見ている。彼女の視線を追って、龍夜も思わず声を上げる。
「うわ、うわ!」
 鹿が龍夜のリュックサックを頭で押していたのだ。
「ちょ、え、何すんだ、おま……!」
 振り払おうにも相手は鹿だ、強引に押し返してはいけないのでは? 怪我を負わせてはいけないし、逆に噛まれたり蹴られたりしてこちらが怪我しても困る。じゃあどうしたら……何とか鹿から距離を取ろうと、列を離れてみる。鹿もついてくる。鹿の頭越しに、なんと嵐がカメラを構えているのが見える。
「おい嵐何してんだよ」
「聞いてよ龍夜、父さんから借りてきたんだ!」
 ほらほらと嵐が見せてきたのは真新しいデジタルカメラだ。
「は? 何で!」
「いっぱい写真撮ろうと思ってさ。だから安心して撮られてよ」
「違う! 何で! 何で今その話したの!」
「こんなシャッターチャンスそうそうないよ〜」
 言いながら、嵐はリュックサックをつけ狙う鹿と慌てふためく龍夜のツーショットをカメラに収め続ける。
「そうじゃねーだろ、助けてよ!」
「おっその表情いいね」
「ふざけるなー!」
 騒ぎながら逃げ惑っていた龍夜の耳に、「ヘイ、ヘイ」という声が入ってきた。今度は何だ。声の方を見ると、大きな荷物を抱えた白人のカップルが何かを鹿の目の前にちらつかせている。鹿はゆっくりと向きを変えて男性に近づき、彼の持つそれ――鹿せんべいにかぶりついた。
「え、は?」
 鹿はもう龍夜には目もくれず、今度は女性の差し出す鹿せんべいに食いついている。訳が分からずその様子を眺めていると、男性と目が合った。男性は親指を立て、ウインクを飛ばしてきた。
「あ、ありが……」
 礼を言いかけて、しかし相手が白人であることを思い出す。日本語は通じないかもしれない。ええと、こんな時は……。
「えっと、サンキューベリーマッチ!」
 自分の口から出てきたのは、恥ずかしいくらいにカタカナ英語だった。こんな発音では日本人以外には伝わらないのではないだろうか。男性の表情を伺う。彼はにっこりと笑う。
「ドモ、ドウイタシマシテ」
 返ってきた片言の日本語に、龍夜は思いっきり脱力した。完敗だ。鹿にも、そして男性にも。ずるりと落ちたリュックサックの肩ひもを掛け直し、龍夜は大きく溜め息をついた。
「ほ、ほら、きっと鹿のお腹すいてたんだよ」
 稚子のフォローが左耳から入って右耳から抜けていく。確かに龍夜のリュックサックには、朝母親が早起きして作ってくれたおにぎりが入っている。だから何だ。昼食の弁当を持っているのは龍夜だけでない、全員だ。どうして龍夜だけが鹿に狙われたのだ。龍夜がいったい何をしたというのだ。
 着いていきなり酷い目に遭ってしまった!
 列の先頭が大仏殿前の参道で整列を始めた。いつまでも腐った態度ではいられない。急ぎ足で皆に追いつき、クラスの列に入った。これからクラス毎に大仏殿に入っていくことになる。
 新崎の誘導で、校長を先頭にA組の生徒から順に進んでいく。龍夜は嵐と目配せし、クラスメイトたちに先を譲る。A組のしんがりを務める。
 そうして遂に対面した奈良の大仏様は、想像していた以上に大きなものだった。
「おお、でかいな」
「でかいね」
 嵐が修学旅行のしおりをめくる。自由学習のページにきちんと事前学習の内容をまとめてきたらしい。
「像高十四・九八メートルだって」
「そんなにあるんだ」
「あっでもこれ座高だから、床からだと……十八メートルくらいか。だいたいマンション六階くらいの高さだね」
 そのマンション六階分の高さの仏像が収まっているのだから、大仏殿の大きさについても改めて認識させられる。
 ……が、考えてみれば、龍夜が今住んでいるマンションは七階建てだ。いくら大仏が大きいとはいえ、龍夜は毎日この大仏よりも背の高い建物で生活していることになる。高坂家は三階だからせいぜい胸元あたりなのだが何となく大仏に対して優越感を覚え、そして、罰当たりかもしれないと少しだけ反省した。
 A組から少し間をあけてB組がやってきた。集団の先頭にいるのは寛司と遥だ。
「お〜見たことある大仏だ」
 お粗末な感想を口にして、寛司が大仏を見上げた。
「教科書で見たのと同じだな」
「そりゃそうだろ」
「けどやっぱり本物は違う」
「どっちだよ」
 律儀に突っ込みながら、嵐がカメラを大仏に向ける。それが自分たちの持ってきたインスタントカメラとは違うことに、寛司も遥もすぐに気づいた。
「あっ嵐、それ」
「うん。いっぱい撮れるから、何かあったら言って」
「じゃさっそくここで一枚」
 大仏の前で、寛司が大仏と同じポーズをとった。遥が続いたのを見て、龍夜もそれに倣う。嵐の指がシャッターボタンに触れる……が、B組の担任の佐倉がそれを止めた。
「あ、すみません。写真駄目でしたっけ」
「いや違う違う。ほら、野阿も並びな。先生が撮るよ」
「じゃあお願いします」
 佐倉にカメラを渡し、嵐が遥の横につく。デジカメの液晶を見ながら佐倉がもっと寄れと手で示す。四人でもぞもぞと調整し立ち位置を決めたところで、ぱっとフラッシュが光った。きっと面白い写真が撮れたことだろう。撮ってくれた佐倉も遠巻きにこちらを見てくるB組の生徒たちも笑っていることからもそれは分かる。分かるのだが……なぜか少しだけ恥ずかしかった。
 大仏の脇の柱には穴があいていた。それほど大きくなく、子どもならともかく大人は確実につかえてしまいそうなサイズである。実際、今龍夜の目の前で、大人の男性である校長が頭を突っ込んだ状態から進めずにいる。
「いや〜無理だね」
 結局諦めて後退した校長は額の汗を拭って肩をすくめた。
「っていうか何で校長通れると思ったの」
「肩も入ってなかったじゃん」
 取り囲んで一部始終を見ていた生徒たちが口々に言う。校長は「昔は通れたんだよね」と笑った。
「先生が中学生の時も修学旅行で東大寺に来たんだよ。でもさすがに、何十年も経つと駄目だねえ」
「えっそんな昔からあるの東大寺って。やば!」
「ちょっと、先生のこと何歳だと思ってるの……」
 女子生徒たちにからかわれながら、校長は柱を後にする。彼女らと並ぶと頭ひとつ分大きいが、校長自身は小柄な方だ。だから昔はこの穴をくぐり抜けることが出来たのだろう。そして今は、全身、特に腹回りの脂肪が邪魔となったに違いない。
 校長が去った後も同級生たちは次々と穴に挑んでいく。そもそも穴をくぐれると何があるのか。ぎりぎり穴を通り抜けられたクラスメイトの大河に訊ねてみると「何かご利益があるらしいよ」と、ふわっとした答えが返ってきた。
「え、そんなよく分かんないで、何となくくぐってんの? これ」
 その程度で地面に這いつくばって穴をくぐろうだなんて、龍夜には思えない。短冊に願いを書いて笹に吊すとか七福神の絵を枕の下に敷いて寝るとか、それくらいのお手軽さがないとやってみようという気になれないのに。
「人がやってるの見ると俺もやってみたくなってなるよな」
 そうだ、寛司はそういう奴だった。リュックサックを下ろして床に置き、ワイシャツの袖をめくり、穴の前で仁王立ちする。龍夜たちを振り返る。
「タイムトライアルな。一番早かった奴が勝ち。負けたら勝った奴の言うことをひとつだけ聞く。どう?」
『どう?』も何も! いつの間にこっちまでやることになったのだ。正直やりたくないのだが……龍夜は遥と嵐を見遣って溜め息をつく。遥が屈伸運動する横で、嵐がデジカメを丁寧にリュックサックにしまっている。二人ともやる気だ。
「まじかよ」
「え、龍夜やんないの? じゃあ不戦敗な」
「……まじかよ」
「当たり前だろ」
 そもそも参加しないという選択肢はないらしい。仕方がない。龍夜もリュックサックを下ろす。
 嵐によれば、柱の穴は大仏像の鼻の穴と同じくらいの大きさらしい。だから何だ。大仏の鼻に侵入する花粉の気持ちになれとでもいうのか。だいたい大仏は花粉症なのか。仏も病気になるものなのか。全く意味が分からない。分からないが、これは勝負だ。勝ちと負けがある以上、負ける訳にはいかないのだ。



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