11.


 東の空が白み始めた頃。
「先生や皆に迷惑掛けるようなことはしないようにね」
「一番に出てくるのがそれなの?」
 高坂家の玄関で、龍夜は母親の言葉に肩を落としていた。
「俺、今までもそんなことしたことないよ」
「もちろん分かってるけど。羽目外さないようにってこと」
「はいはい」
「忘れ物はない?」
「多分ね」
 スニーカーの靴紐をきつく締め、リュックを背負い直す。母親が手渡してくれたボストンバッグを肩に掛ける。靴箱の上の鏡が目に入る。制服を着て学校指定鞄以外のリュックを背負っている姿には、何だか違和感があった。
「楽しんでらっしゃい」
「うん、行ってきます」
「お土産よろしくね〜」
「気が向いたらね〜」
 玄関の戸を開ける。
 早朝の冷たくて新鮮な空気が龍夜の足元から流れ込んだ。
 普段より二時間近く早く家を出ると、通学路を行き交う人々もいつもと違っていた。いつもは龍夜のような近隣の学校に通う学生や、スーツ姿で急ぎ足のサラリーマンくらいしか見ない。しかし今日は、ランニングする男性や犬の散歩をする女性とすれ違う。学校へ、または会社へ行く前から精力的に活動している。早起きは三文の何とやらというくらいだし、それはきっとすごくいいことなのだろう。しかし自分が出来るかどうかというのは別問題だ。バスケ部は(諸説あるが、一番の有力説は部長が朝が苦手な為)ほとんど朝練をしない運動部だが、そのたまにしかない朝練の日でさえ早起きがきついと思うくらいなのだから、毎日なんて出来る訳がなかった。きっとあの人たちは自分で自分を律することの出来る、とても強い心をもっているのだ。
(ちょっと俺には縁がないかな)
 目指すとしても、まあ、追々。それよりも今は早く学校へ向かわなければ。いつもと同じ、だけどいつもとは違う道を、少しだけ急いだ。ボストンバッグが邪魔で走りにくかった。
 学校の前の道路にはバスが五台停まっていた。フロントガラスには『伏和市立伏和中学校三年○組 修学旅行』と書かれたプレートが貼られている。ちょうど降りてきた運転手と目が合い、会釈して校庭へ急ぐ。校庭では先に登校していた同級生たちが整列を始めていた。
 列に近づくと、学級委員の二人から「男女一列ずつ背の順だから、早く並んで」と急かされた。A組の列前方に並ぶ嵐に絡む間もなく追いやられ、列真ん中辺りに入る。余裕をもって家を出たつもりが、結局途中から軽く走ったし着いてみたら同級生ほとんどが既に集まっていたし、かなりぎりぎりだ。きっとボストンバッグがよくなかったに違いない。悪の根源を足元に置いて一息ついた。
 点呼を取って、校長、教頭、学年主任から修学旅行の諸注意を聞く。それが終わったらA組からバスに移動。クラス全員が座席に座ったところでまた点呼を取る。
「そんなに何回も点呼取らなくてよくない? 校庭からバスまで移動してきただけなんだけど」
 隣に座った嵐にこぼすと「数メートル移動する間にいなくなっちゃうやつが過去にいたんだって」と帰ってきた。数メートルで行方不明なんてどちらかというとホラーの世界ではないだろうか。もしかして神隠しというやつか。普通に考えて怖い。しかもこれから行くのは古都、奈良と京都。その類いの何かに取り込まれたら元のこちら側には帰ってこられなさそうだ。
「点呼……大事だな」
 なるほどと頷く龍夜に、嵐は「どうしたの急に」首を傾げていた。
 移動すること数十分、バスは駅に到着した。ここからは新幹線に乗る。
 バスターミナルで一度整列し、本日三度目の点呼。列を保ったまま改札の団体口を通ってホームへ向かう。教員たちの指示で、やってきた新幹線にぞろぞろと乗り込む。電車に乗ったことは何度もあるが、新幹線は初めてである。ロングシートとは違い一人一席ずつ、しかもリクライニングシートだ。すごい、快適だ。背もたれを倒したり起こしたり、自分にとってベストな角度を探していたら、嵐から「はしゃぎ過ぎだろ」と笑われてしまった。
「もしかして新幹線初めて?」
「うん」
「あー分かるわー気持ちは分かるわー」
 そう嵐は言ってくれたが、朝の母親の言葉を思い出す。『羽目外さないように』、まさにこのことである。ボストンバッグを網棚に上げ、バスの時と同様嵐の隣のシートに収まり、修学旅行のしおりに目を通しながら学級委員の点呼を待った。
 やがて車体がわずかに揺れ、窓の外の景色がゆっくりと流れ出す。京都に向けて出発である。
 いつもと違う環境に浮ついているのは龍夜だけではなかった。初めこそ静かにしていた伏和中生たちだが、やがて話し声が大きくなり、車両間を出歩く者が増え始める。
「龍夜〜」
「おっはよ〜」
 寛司と遥もその一人だった。荷物は席に置いてきたらしく、身ひとつの身軽な格好だ。
「おはよ」
「なあなあ探検行こうぜ」
「は?」
「新幹線の中、いろいろ見てみようよ」
 探検。いい響きである。
「いいね、行こう」
 嵐も、と呼びかけようとして振り返り、しかし逆に嵐は遥を手招きした。遥が龍夜と入れ替わる形で座席に座る。
「何?」
「明日のルート、ちょっとぎりぎりになりそうな気がして。遥の意見が聞きたい」
「えーそんなの俺分かんないよ」
「いいから聞いてよ」
 嵐班の打ち合わせに藤真班のメンバーは不要だろう。ちらちらとこちらに視線を送ってくる遥を残し、龍夜は寛司の後についた。
 龍夜たちA組、寛司たちB組の乗っている七号車を含め、三両を伏和中が借り切っている。じゃあ六号車にはどんな人が? 試しに覗いてみようとしたら、連結部分で待ち構えていた新崎に止められてしまった。
「ここから先は通れません」
「別に行くつもりはないって。どんな人が乗ってるのか気になっただけだって」
 唇を尖らせる寛司に新崎は、手で追い払う仕草を見せる。
「あっちはよその中学校の修学旅行。迷惑になるから自分の席に戻りなさい」
「ひどい! 俺の存在が迷惑みたいな言い方して!」
「実際そんなにわーわー騒いでたら迷惑でしょ……」
 新崎の言うことももっともである。なおも抗議しようとする寛司の腕を引っ張り、七号車に引き上げた。
 六号車方面に行けないとなれば、反対側の八号車方面に行くしかない。まだ嵐に捕まっている遥に無言で手を振って通り過ぎ、八号車側の連結部分に出る。
 雰囲気の違いを感じ取る。
「あれ?」
「若干の高級感が」
 二人揃って首を傾げながら八号車に入り、気づいた。
 二人掛けと三人掛けでぎゅうぎゅうの七号車と違い、八号車は左右それぞれ二人掛け、ゆとりのあるシートだった。前後の間隔も七号車に比べて広く、足を伸ばしやすくなっている。そして座席の生地も、龍夜たちが先ほどまで座っていたシートよりふかふかそうに見える。
 これはもしかして、グリーン車というやつではないだろうか。
「何これ!」
「学校内格差だ!」
 龍夜は一般車両であんなに感動したというのに、更に上のクラスの座席で優雅な旅を満喫している奴らがいるなんて! これが差別でなくて何だというのだ! とりあえず見知った顔を探し、最初に見つけられてしまった和久に二人してちょっかいを出した。具体的には首筋と脇腹をくすぐってやった。それで多少溜飲が下がったが、逆に和久は訳が分からないという顔をしていた。不運な奴だ。
 和久の席の近くでは女子たちが盛り上がっていた。C組の椎木はるかと、女子テニス部の面々だ。
「よぉ椎木」
 寛司が声を掛けると、はるかは「双馬も見る?」と一枚の紙を差し出した。写真だ。
「あ」
 写真を見た寛司が小さく漏らす。龍夜も肩越しに覗く。
 それは三月に伏和中から転校していった寛司の幼馴染、そして龍夜やはるかたちの元クラスメイト、白石星魚の写真だった。伏和中のセーラー服とは違う、見たことのないブレザーを着て、知らない顔の女子たちと写っている。
「昨日届いた手紙に入ってたんだ。星魚も新しい学校で修学旅行行ったんだって」
「へえ」
「あれ、双馬には来てないの?」
「ンなの来る訳ねーだろ。オテガミなんて、女子じゃあるまいし」
「星魚は女子だよ」
「俺が女子じゃねーよ」
 言い返しながらも、寛司の目は写真から離れない。星魚たちと一緒に写っているのはたくさんの鹿だ。彼女の学校も修学旅行の行き先は奈良と京都だったらしい。
「『シカかわいかったよ〜』ってさ」
「あーそうっすか」
 少し投げやりに写真を返して、寛司ははるかたちの席から離れていく。
「ちょっと! もう、丁寧に扱えよな」
 眉を寄せるはるかに、寛司に代わって「あ、ごめん」と謝る。慌てて寛司を追って、龍夜はそれが彼の照れ隠しなのだと気づいた。
「ま、元気そうだし、いいんじゃねーの」
 呟く寛司に、龍夜も「そうだね」と同意した。



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