10.


 それからというもの、嵐の視線が何だか怖い。何か言いたいことがあるなら言ってくれればいいのに、何も言わず、ただただ龍夜を観察するように見てくる。にやにやの含み笑いで、だ。
「あの、野阿サン、何すかね」
 訊ねても。
「いーやぁ? べーつにぃ?」
 この調子である。はじめはその態度に少々いらっとしていたのだが、部活が終わる頃にはむしろ恐怖に変わっていた。怖い、怖いよ嵐。
 それは龍夜だけでなく他の部員たちまで気づくほどで、遥からは部活中何度も「どうしたのあいつ、頭でも打ったの?」と聞かれたし、寛司なんかは「壊れたら叩けば直るって言うよな」などと言いながらバスケットボールをぶつけようとしていた。さすがに怪我でもされたら困るのでやめさせたが。だいたい叩いて直るのは古いテレビ等の電化製品くらいだ。
 いつもなら部活後はジャージのまま帰宅するが、これから寄り道をするのに汗くさいジャージなのはいろいろよくない気がした。寛司にもそれを伝え、一度部室に引っ込み制服に着替える。そろそろ美術部も活動を終える頃だろう。急いで部室を出ると。
「よぉ」
「ねえ、まじで何なの? 何かあったの?」
 相変わらずにやにや顔の嵐と、本当に訳が分からないと顔に書いてある遥がドアの脇に立っていた。
「何かあったのは俺じゃなくて龍夜の方でしょ、ね?」
「『ね?』じゃねーよ」
「えっ何龍夜どうしたの?」
「俺はどうもしてない」
 きっぱり否定しても嵐は「またまた〜」などと言いやがる。早く諦めてくれないかと祈りながら適当にあしらっていたが、嵐が飽きるよりも先に校門まで辿り着いてしまい、これ以上かわすのは無理だと悟った。
 足を止めた龍夜に寛司は「あ? どうしたよ?」と問いかけてきた。潮時だ。
「あのさ、ちょっとここで待ち合わせ」
「は? 誰と」
「話の流れで、一緒に図書館行きたいって言われて……いいよな?」
「人が増えるのは別に全然いいんだけど、誰だよ」
「いやそれは、その」
 なぜだろう、彼女の名前が言えない。言おうとして、もごもごと口ごもってしまう。龍夜の次の言葉を待てない寛司は嵐を見るが、嵐は「俺の口からは言えないな〜?」などとほざいてヒューヒュー口笛を吹き始めた。この男、いつになく面倒くさい。
「えっと、だからさ……」
 どう話そうか考えている内に、下校時刻であることを知らせるチャイムが鳴った。そして。
「リューヤ君」
“待ち人”がやってきた。
 龍夜の姿を認め、園が少し小走りになる。ポニーテールにした髪の毛が背中で跳ねる。
「あー龍夜が言ってたのって華宮さんか」
「うん、そう」
 何度も頷く龍夜の前で、園は足を止めた。龍夜と、そして寛司の顔を覗き込む。
「ちょっと無理にお願いしちゃったかなって思ってたんだけど……いいかな? 大丈夫?」
「いや全然。ねえ、寛司」
「おう」
「よかった。ありがとう」
「じゃ、行こうか。のんびりしてたら暗くなっちゃうし」
 それに――龍夜は肩越しに振り返った。やっと事態が把握出来た遥が、なんと嵐と同じ表情をしているのだ。さっさと帰宅ルートから外れてあの二人を振り払わなければならない。でないと正直鬱陶しい。
「へー揃って図書館ですか」
「俺たちもご一緒しましょうか」
 そんな気なんて全然ないくせに二人して弄ってくる。どうしたものか、園に迷惑を掛けていないかと思っていたが、寛司の追い払うようなしぐさで二人は口を閉じた。
「はいはいお断りですよ。これ、藤真班のオシゴトだし。だいたいお前らは終わってんの? コース決めたり電車バス調べたりさ」
「え、まだ……だけど」
「だったらこっちの邪魔してないでそっちもちゃんと進めろよ〜」
 あまりにもまともなことを言う寛司に、遥と嵐も驚いた様子を見せる。二人は丸くした目を見合わせた。
「……だってよ」
「まあ、もっともなご意見だよな」
 やれやれと首を振って、嵐は頭の後ろで手を組んだ。
「さて、今日のところは帰りますか」
「じゃ、俺たちはあっち」
 いつもなら嵐たちと一緒に直進する十字路で立ち止まり、寛司が右――駅方向を指差す。じゃあ、と別れて図書館に向かう。
「あ、寛司、ありが」
 言い終わるより先に、寛司が大きく溜め息をついた。
「嵐ってスイッチ入るとすっげーめんどくさくなるよな。悪ノリがひどいっていうか」
「え? そうなの?」
「うん、ほんと、たまーにだけど」
 そう寛司は言うが、いまいち記憶にない。
「そんなことあったっけ。俺も知ってるかな」
「去年の運動会とか」
「ああそれか!」
 放送委員だった嵐は選手入場等のアナウンスを任されていたが、競技の実況をすると見せかけて自分のチームを応援し続けていたのだ。立派に職権乱用である。言われてようやく思い出した。伏和中に転校してきてまもない頃のあの事件、すごく面白かったと記憶している。最終的に遥まで巻き込まれて先生方からきつく叱られたところまで含めて。
 二人が減り、会話も減ったところで、龍夜はようやく園がほとんど話していないことに気がついた。やかましかったあの二人に嫌気がさしたのだろうか。それとも二人を適当にあしらい続けた龍夜の無愛想のせいか?
「えっと……」
 しかし園を見れば、彼女は周囲あちこちを見回していた。その内に龍夜と目が合って、「あ、ごめん」と目を伏せる。
「話聞いてないつもりはなかったんだけど、つい……何か言った?」
 逆に謝られてしまった。
「いや、違、そうじゃないんだけど」
「ちゃんと道、覚えておきたくて。次は一人でも行けるように」
 目印になりそうなものを探していたという訳だ。何かしらの理由で彼女の機嫌を損ねてしまった訳ではないことが分かりほっとする。しかし、この場にはもうひとりいる。
「へーすげーえらいじゃん、次も誰かに連れてってもらお〜とか考えてる龍夜とは大違いだ」
 別にわざわざ龍夜を落とすようなことを言わなくてもいいのに、寛司め、余計なことを言いやがって! これ以上傷口に塩を塗るようなことはされたくないししたくない。龍夜は何も言わず、ただ寛司の脇腹に拳を一発入れてやった。
 寛司に案内された図書館は、駅前の大通りを線路沿いに少し歩いたところにあった。二階建てで、一階が小説や児童書などの読み物、二階に郷土歴史資料や古い新聞、芸術関連の書籍が置いてある。思っていたより小さいな、というのが龍夜の正直な感想だ。深空の市立図書館は四階建てでCDやビデオの視聴、貸出も行っていたし、龍夜も何度か世話になったことがある。それを思うと確かに規模は小さめだが、そもそも伏和にはここ以外にも公立の図書館があり、そちらはもっと大きな施設だ――と寛司が教えてくれた。
「よく知ってるな、図書館なんかほとんど使わないのに」
「うるせ。小学校の社会でやるだろそういうの、市内の公共施設がーとか、そういうやつ」
「あーやったやった」
 館内中央は吹き抜けになっていて、張らなくても声が響いた。少し声を潜め、なるべく足音も立てないように奥へ進む。入って左手に本の貸出カウンターがあり、その正面には吹き抜けに伸びる螺旋階段があった。低めのソファが並んでいるのは、児童書を読みに来た子どもが座りやすいようにだろう。龍夜たちが求めている本はそれではない。
「二階の方がいいんじゃないかな、歴史とかの本は奥の方にありそう」
 フロアガイドを見た園に従い階段を上る。静かで気づかなかったが、上から見てみるとぽつぽつ利用者がいるのが分かる。
 蔵書の検索端末は階段を上りきったところにあった。キーワードを入れると関連する書籍をピックアップして書棚の場所を教えてくれる、明確に探している本がある訳ではない龍夜の心強い味方である。
 一階ほどではないが二階にも利用者がいる。姿は見えないが話し声が聞こえる。龍夜たちのようにグループで調べ物をしているらしい。
「机あいてるかな。俺見てくるから、二人は本探しときなよ」
 言い終わるやいなや、寛司は龍夜と園の返事を待たずに書棚の奥に消えていった。園を見る。園も龍夜を見返す。目が合って、反射的に目を反らしてしまう。
「えっと……寛司もああ言ってるし、探すか」
「そうだね」
 園の指が検索端末のタッチパネルの上を滑る。テキストボックスに、つついた通りの言葉が表示される。
「どう検索したらいいのかなあ」
 少し迷っているようなことを言いながら、園は楽しそうである。本人は自覚していないだろうが、頬が緩んでいる。
「楽しみだね、修学旅行」
「そうだね」
 悩みながら、でも笑いながら、検索ワードを追加していく。
 少しだけ気が緩んだ。
「ねえ、園は……」
 龍夜の呼びかけに園は手を止めた。龍夜を見上げる。
 記憶にある角度と違った。四年前のあの時は、龍夜と園の背丈は同じくらいだった。あれから龍夜は年相応に背が伸びた。今は龍夜が少し見下ろして、園が少し見上げている。
 そして彼女は言った。
「……久しぶり」
「え?」
「あの時以来だね、名前呼んでくれたの」
 龍夜を見上げる園の目は、龍夜の心の内まで見透かしているようだった。




   ◆



 小学校の修学旅行の時に新調したリュックサックを出してみると、記憶にあるものよりも随分と小さかった。それだけ龍夜の身体が大きくなった、それは喜ぶべきことなのだが、気に入っていたリュックが小さくて背負いづらくなったのは少しだけ悲しい。
 仕方がないので新調したリュックに必要なものを詰めていく。筆記用具、小遣いを入れた財布、道中皆で食べるおやつ。インスタントカメラも用意したし、タオルとポケットティッシュ、母親から押しつけられた絆創膏……次々と荷物が収まっていく。このリュック、見た目以上にたくさん入る。だんだん楽しくなってきて、『仕方なく』だったリュックも気に入ってきた。
 リュックと別に用意したボストンバッグには着替えなどの大きなものや、宿でしか使わない洗面道具を。あと他には何が必要だっけ……修学旅行のしおりを手に取って、龍夜はしおりの裏表紙に目を止めた。
 下手くそな猫が描いてある。龍夜が描いたのではない。多分――こんなことを言っては失礼だと思うのだけれど――龍夜が描いた方が上手だと思う。
 図書館に行ったあの日、龍夜が目を離した隙に園が描いた猫だった。シャープペンで描いたものだから消そうと思えばすぐに消せる。しかし龍夜はそれを消せずにいた。何度見ても可愛くない猫なのに、寛司に変な猫だといじられたのに、消せなかった。
 時計を見上げる。時刻は二十一時を回ったところ。夜更かしは出来ない。しおりの持ち物ページを開き、バッグの中身と照らし合わせる。足りないものがないことを確認して、しおりをリュックに入れた。
 今日は五月二十一日。明日の朝早く、伏和中の三年生はこの街を出発する。



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