0.


 宙に浮いたような、何とも言えない気分である。高坂龍夜はひとつ、小さく息を吐き出した。何かが大きく変化する訳ではない、龍夜自身がこれまでと何ら変わりない。
 しかし肩書は変わる。この変化は、大きい。
(大丈夫かなあ、こんなので)
 幾度目かの溜め息をついた時。
「龍夜」
 母親が龍夜の名を呼んだ。
「何ー?」
「ジャージと体育着、あるだけ持ってきな。あと学ランも」
「はーい」
 応えながら箪笥の引き出しを開ける。学校関係の服はだいたい下段にまとめて押し込んである。学校指定の白と黒のジャージ、体育着、入っている分全部を出した。
 改めて見ると、まだ一年も着ていないのに、なかなか汚い。もちろん洗濯はしてあるが、手首の周りが破けたり、裾がほつれたりしている。粗末に使っているつもりは全くないのにおかしいな? 龍夜は首を傾げながらも該当の部分を表に出して抱え、ハンガーで二段ベッドの柱に引っ掛けてある学生服も掴んで部屋を出た。
 リビングでは母親と妹の好里が裁縫道具を広げていた。母は好里の体育着のゼッケンを外し、好里は『六年』と書いた新しいゼッケンを縫い付けている。ちょっと曲がっている。
「龍夜のもやるからその辺に置いて。それで全部?」
「あと今朝洗濯したのがあるよね」
「ああ、もう乾いてるだろうから、それも持ってきて」
「うん」
 最後の一着はまだベランダに吊るされていた。引き戸を開け、手を伸ばして取ろうとしたが、ぎりぎり届かない。横着は許さない、とでも言われているようだ。おとなしくサンダルを履いてベランダに立つ。春の温かい日差しと、まだ冷たさを含む風が心地いい。
 箪笥からも出した白と黒のジャージ。まだ『二年』の名札がついているそれを、そっとハンガーから外した。
 三月の修了式で、龍夜たちは二年の全教育課程を終えた。『中学二年生』が終了した。それから二年でも三年でもない、宙に浮いたような時を過ごすこと二週間。
 遂に明日から、三年生となる。
 昨年九月にここ、伏和市に引っ越し、現在通う伏和中学校に転入した龍夜である。転入したクラスの仲間たちとなら打ち解けることが出来たが、元来の人見知りする性格もあり、他クラスの生徒とはほとんど話したことがない。廊下でよくすれ違う顔なら何となく覚えがあるが、名前までは知らない。明日からはこれまでの二年E組でなく、新しいクラスになるというのに、こんな状態で大丈夫だろうか。心配事は尽きない。
 ジャージを取り込んでリビングに戻ると、母親は龍夜の学生服に針を通していた。
 三年生。中学校の最高学年。
 中学生活最後の一年である。



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