9.


 龍夜はどこか遠慮していたのかもしれない。星魚に、或いは寛司に。それでも時間はただ過ぎていく。その中で龍夜が覚えた違和感は徐々に薄れていった。そんなに騒ぎ立てることではなかったのではないかとすら思えてきた。それどころか。
「ねえ白石、今日の図書当番ってうちのクラスだったよね」
「そうだよ」
 星魚と会話しても部活無断欠席のことが龍夜の頭の片隅をよぎらなくなるほどに、過去のこととなりつつあった。
 決して件に興味がなくなった訳ではない。ただ龍夜には、優先的に考えなければならない大切なことがあったのである。
 大切なことのひとつはテスト。休み明けに行われる実力テストについては、冬休みに入る前からアナウンスされていた。冬休みの課題や各教科のノート提出の準備を通じてテスト勉強を進めてはいたのだが、何しろ今回のテストは定期試験とは異なる実力テストである。出題範囲など定められておらず、言い換えれば範囲は『これまで学んできたこと全て』なのだ。一夜漬けでちょっと勉強した程度でどうにかなるものではない。しかし散々な点を取りたくはない。龍夜は前の学校で使っていた古い教科書を引っ張り出し、順にページをめくっていった。
 そしてもうひとつは図書当番の日に龍夜の目の前に現れた。
 実力テストを乗り切った次の日の放課後は、星魚との会話通り図書当番だった。十月から務めている図書委員の仕事、放課後の図書室の当番が回ってくるのはこれで五回目である。普段なら星魚の方から「図書室行こうよ」と声をかけてくるのだが、今日は何やら用事があるらしく、「先に行ってて」と言われてしまった。仕方ない。寛司に委員会活動の為部活を欠席する旨を伝え、荷物を机の上にまとめて置き、龍夜はひとり図書室へ向かった。
 放課後の図書室には誰かしら人がいる。たいてい勉強をしているか、本を読んでいるか、或いは本を探している。この日も例外ではなく、龍夜が図書室に入ると、両腕を抱えて本棚を眺めている女子生徒がいた。彼女は龍夜に気付くと、ふわりと腕をほどいてこちらに向き直った。
「今日の当番は2Eだったね」
「え? ああ、はあ」
 声を掛けられたことに、更に相手がこちらのことを知っていることに驚き、返事と言えない返事をしてしまう。改めて女子生徒の顔を見、そこでようやく彼女が知った先輩――図書委員長の灰島瞳子であることに気付いた。
 これまでに委員の活動成果や今後の予定などを報告する為に委員同士で顔を合わせる機会はあった。しかし、それも月に一、二回である。その上龍夜は(胸を張って言えることではないが)積極的に発言する委員ではない。図書室の隅の方でおとなしく座っているばかりなのに。
「よく覚えてますね、俺のこと」
 思わず言うと、瞳子は「まあね」と笑った。
「私、結構物覚えがいい方なんだ」
「それは羨ましいです」
「まあ半分冗談だけど」
「え」
「上條さんと同じクラスでしょ、剣道部の」
 確かに龍夜のクラスには上條理花という名の女子生徒がいる。剣道部だったかどうかは記憶にないが、おそらくそうなのだろう。中途半端に頷くと「私も剣道部だったんだ」と返ってきた。
「私は夏の大会で引退したけど、上條さん、廊下ですれ違うと今でも挨拶してくれるんだ。例えば『うちのクラス転入生来たんですよー』、とか」
「そう、なんですか」
 自分の知らないところで噂されていたとは。妙に恥ずかしいような、くすぐったい気分である。落ち着きなく目を逸らし、目の前の本棚を見れば、受験参考書が並んでいた。
「あ……」
 瞳子は参考書の棚を見ていた。受験生なのだから当然のことだ。しかし龍夜はその事実を実感することが出来ないでいた。
 今自分の前に立っている先輩が受験生であるという事実を。
「先輩、試験はいつなんですか」
 訊ねると。
「一月二十二日」
 瞳子は間を開けずに日にちを口にした。頭の中でカレンダーを広げる。今日は一月十日だから、二十二日まであと二週間もない。
「もうすぐなんですね。入試が始まるのって二月からだと思ってました」
「うん、推薦入試だからね」
「あっ推薦ですか」
 推薦入試は多くの中学生が受けることとなる一般入試よりも先に実施される。中でも瞳子が受ける学校は試験日が早いのだそうだ。
「周りの友だちよりも試験が早いから……多分この学校で今年最初に受験するの、私じゃないかな。先生や先輩たちに話聞いたりしてるんだけど、やっぱりどんな感じなのか具体的なイメージは出来ないんだよね」
 もうじき受験を控えた瞳子がそう言うのなら、龍夜には尚更イメージ出来ない。緊張も出来ない。実感が湧かないのだから当たり前と言えば当たり前だ。気の利いたことも言えず「はあ……」と気の抜けた相槌を打ってしまったが瞳子は気にしていないようで、「でもやるしかないんだよねえ」と呟いた。
「私には、やりたいことがあるから」
「やりたいこと?」
「うん……看護師にね、なりたいんだ」
 瞳子が目指している学校には、高校には珍しく看護科がある。もちろん一般的な高校の普通科から看護の専門学校や大学へ進学すれば看護師の道へ進むことは可能だが、高校の看護科からならより早い段階から専門的な勉強が出来る。看護師という目標により近付ける。
 二十二日の試験は瞳子の夢への第一歩だ。その試験は瞳子の将来を、何十年とある瞳子の未来の時間を左右するのだ。
「もうやりたいことがはっきり決まってるんですね」
「そう。だからあとはやるだけ。分かってるんだ」
 言いながら瞳子が一冊の本に手を伸ばす。背表紙には『面接試験合格ガイド』と書かれている。
「ねえ、高坂君は人前で喋る時緊張する方?」
 ぱらぱらとページをめくる瞳子の問いに、龍夜は自らを振り返った。
 伏和に転校してきて四カ月、さすがに慣れてきてはいるが元来の人見知りな性格も相まって、大勢の前に立つとどうしていいか分からなくなってしまう。少人数のグループ――例えば寛司たちと行動する時なんかならともかく、クラスメイト三十五人の先頭に立ったとして、自分に何が出来るだろう。
 質問の回答として首を縦に振る。すると瞳子も「そうだよねえ」と頷き、手にした本を閉じた。
「え」まさか。龍夜は目を丸くする。「先輩もですか」
「もちろん」
「でも図書委員長って、委員会の時は皆の前で喋るし、まとめ役だし……」
 図書委員三十人の前で堂々と立つ瞳子の姿が脳裏に蘇る。
 しかし瞳子は「だからだよ」と、両手の指を絡めた。
「私の弱点は――あ、勉強面はともかくね――アガリ症なところ。それは自覚してる。だからあえて委員長に立候補したの。半期間委員長が務められたら、私でもちゃんと出来るんだって自信がつくような気がして」
 荒療治だ。しかし瞳子がそうすることに決めたのは、彼女に強い意志があったから。
 人前でも臆せず話せるようになりたいと願ったから。
 それが瞳子の将来に対する姿勢であり、答えなのだと龍夜は思った。龍夜がこれまで見てきたのはその結果だったのだ。
「そうやって頑張ってきたなら、きっと面接でもうまく話せますよ」
 瞳子の持つ本を指差す。
「それ、貸出処理しますね」
「じゃあお願いします」
 面接対策本が龍夜の手に渡る。
 図書の貸出情報を記録しているパソコンのスリープを解除し、在学する生徒一覧の中から瞳子を選択した。本の裏表紙に貼られたバーコードを読み取って確定する。貸出期間は二週間、試験が終わるまでこの本は瞳子のものだ。
「試験頑張ってください」
「ありがとう」
 本を受け取って瞳子は微笑んだ。
「高坂君もね」
「え、俺?」
「そう。私たち三年はあと二カ月で卒業だから。次にこの学校を引っ張っていくのは、高坂君たち二年生だよ」
 じゃあね、と瞳子は小さく手を振り図書室を出ていく。会釈を返して、龍夜は瞳子の言葉を胸の内で呟いた。
(次にこの学校を引っ張っていくのは、俺たち……)
 当然のことではあるが、改めて言葉にされると、ずしりとくるものがある。三年生が卒業するまであと二カ月。それまでに自分は、学校を引っ張るに値する人間になれるのだろうか。
 そんなところで立ち止まっている自分に、将来を考える資格があるのだろうか。
 考える。ただぼんやりと。具体的なイメージが伴わないから、ただ漠然と。
 結論は遂に出ることがなかった。遅れて図書室に入ってきた星魚は、龍夜の大きな溜め息に首を傾げていた。



 /  目次に戻る  / 

小説トップ/サイトトップ