10.


 瞳子が言っていた試験日、一月二十二日を過ぎると、徐々に登校しない三年生が増え始めた。三年生の教室前の廊下は今までよりも人通りが少なく、教室を覗くと少しだけ広く見えた。一月末までは主に推薦入試、そして二月に入れば私立高校の一般入試が始まる。そうしたら三年の教室は今以上にがらんとするだろう。
 噂によれば遠方の高校を受験する者もいるらしい。試験当日だけでなく移動日も合わせて三日ほど欠席する予定という先輩の話も聞いた。
「いいなあ三年は、学校休めて」
 体育館裏で竹箒に寄りかかった寛司はそうこぼした。
 三年生が『受験』という非日常に突入したからといって、龍夜たち二年や後輩たち一年の生活は特に変わることはなかった。いつもと同じ時間に登校し、授業をこなし、部活に参加するだけである。
 強いて変わったことを挙げるとするならば掃除場所だ。不在の三年生が多くなる為特別教室等の掃除にまで手が回らなくなり、その分が一、二年に流れてきたのである。いつもは学級班毎に掃除場所が割り振られているが、今は各班から代表者を出して特別班を作り、三年が担当していた掃除場所に派遣する形でカバーしている。龍夜たちが今掃き掃除をしている体育館周りも、元は三年E組が担当していた場所だった。
「へえ、寛司がそんなに早く受験したがってるなんて知らなかったよ」
 地面を竹箒でなぞりながら遥が茶化す。落ち葉をかき集めているつもりだろうが、真冬のこの時期である、落ち葉などほとんどない。砂埃が僅かに舞うばかりだ。
「違えよ」
 顔の前で手を振って、寛司は遥の感嘆を否定した。
「だってもうほとんど授業ないんだろ? 授業ない、学校休んでも怒られない、羨ましいじゃん!」
「その代わり休みの間はテスト漬けだけどな」
「んん、それは嫌だな」
「あ、やっぱり嫌なんだ」
 テストと聞いて眉間に皺を寄せて唸る辺り、やはり寛司である。
「あっでも入試ですって嘘ついて休めば……」
「調べればすぐばれるような嘘はやめといた方がいいよ?」
「ばれちゃうかな」
「当たり前でしょ」
 高校には学校経由で入学願書を提出しているのだから、担任はもちろん学校中の先生が、いつ誰がどの高校の試験を受けるのかということくらい把握しているだろう。誤魔化せるはずがない。
 それにしても――龍夜は手にした竹箒を握り直した。
 棒状の物を持っていると構えてみたくなるのはなぜだろう。
 北風に煽られないよう箒の柄を両手でしっかりと握りしめ、まっすぐ前に構える。剣道部の竹刀とは似ても似つかない竹箒だが、素材は同じなのだから細かいことは気にしない。箒の先を、寛司が体重を預けている箒に向ける。
「隙あり!」
 柄を突くと寛司の持つ箒の先が滑り、体重の預け先がなくなった寛司はバランスを崩して転んだ。
「痛っ! おい龍夜いきなり何すんだよ!」
「あ、つい」
「『つい』じゃねーだろ、『つい』じゃ!」
 立ち上がった寛司も箒を構える。互いに箒の先を向けあう。まるで時代劇に出てくる剣豪の緊迫感溢れる一騎打ちシーンだ。二人が持っているのは刀でも木刀でも竹刀でもなく、あくまで竹箒だが。
 ちょうどその時、倉庫まで塵取りを借りに行っていた嵐が戻ってきた。ナイスタイミングである。手招きし、遥と共に審判を務めるようにお願いする。
「審判って、何の?」
「見りゃ分かるだろ、剣道だよ。俺と龍夜の」
「はあ」
「先に一本取った方が勝ちな。負けた方が部活終わった後ボールの片付けをやるってことで!」
「えっ」
 いつの間に罰ゲームありの勝負になったのか! 寛司に無意味に勝負を仕掛けたことを若干後悔したが、寛司はやる気満々で龍夜を見ているし、今更引くに引けない。……いや、引かずとも勝てばいい。勝てば何ら問題ないのだ。そう思い直して龍夜は勝負に集中しようとした。
 が。
「二人ともバッドタイミング過ぎるよ……」
 嵐が肩をすくめた次の瞬間、体育館の陰から二年D組担任の柳井が姿を現した。龍夜たちにとってはただの『隣のクラスの担任』ではない、男子バスケットボール部の顧問でもあるのだ。柳井は生徒たちがちゃんと掃除をしているか見回りをしているらしい、掃除が行き届いていない箇所を指差し、近くにいる生徒に指示を出している。
 慌てて構えていた箒を下ろす。しかし時既に遅し。
「そこの三人、何を遊んでいるんだ!」
 柳井の雷が龍夜と寛司、そして遥にまで落ちた。
「えー先生、俺ちゃんと掃除してたじゃないですか!」
「だったら木倉が遊んでいる二人に注意をしなきゃいけないだろう。注意しなかったのならお前も遊んでいたのと同じだ」
「えええ横暴だよ先生……」
 遥が口をへの字に曲げる。ごめん遥。内心謝りながら寛司を見れば、柳井の怒声を聞いているのかいないのか、背中を丸めてくしゃみしていた。
 怒られながらも何とか掃除を終えて教室に戻る。新崎から生活の諸注意――乾燥しているから風邪と火事には気を付けること――について聞き、下校の挨拶をして放課後となる。周りの皆が部活の為に移動していく中、龍夜と寛司、遥は部室で学校指定ジャージに着替えると生徒玄関前のロータリーに出た。
「本当、ついてねーよなあ」
 寛司が文句を言いながら屈伸運動をする。龍夜もうんうんと頷いて足首を回す。
「一番ついてないのは俺だって」
 項垂れて溜め息をついた遥は簡単に柔軟体操を終えると校門を飛び出した。
 掃除中に遊んでいるところを柳井に発見された三人(正しくは二人だが)は、その罰として部活前にショーサン二周を言い渡されていた。ショーサンとは伏和中の敷地外を回るランニングルートのことである。一周二キロメートル弱の道のりで、上り下りのあるコースであるから、二周するには二十分近くかかる。冬は日が落ちるのが早い為部活の終了時間が早めに設定されているというのに、こんなことに二十分も費やさなければならないとは。本当についていない。さっさと走って、体育館にいる嵐たちに合流しよう。龍夜も遥を追ってギアを上げた。
「ねえ、そういえばさ」
 遥が首を回してこちらを見る。「何だー?」と返したのは龍夜のすぐ後ろを走る寛司だ。
「今日女子と試合やろうよって話してなかったっけ」
「うん、そうそう」
 そういえば、何日か前に寛司が同じクラスの谷本早苗とそんな話をしていた。早苗は女子バスケットボール部の副部長である。その話を早苗が隣のクラスの女子バスケ部長のところへもっていき、二つ返事で決定になった――というように聞いている。
「それ、誰が出るの? もう決めた?」
「そういや考えてなかったな。どうするか」
 予定では、体育館の半面を使って二年男子対二年女子、もう半面を使って一年男子対一年女子の練習試合を行うことになっていた。一年も二年も五人以上いるから試合に出られない者がどうしても発生するし、その人には審判をしてもらう必要がある。
「俺、今日の試合、出たいな」
 前を向いたまま、遥がそう言った。
 決して消極的ではないが、自ら先頭に立つことは少なく、どちらかというと人の後について行動することが多い遥である。あれをやりたい、これをやりたいと自由に騒ぐ寛司の横で、それに賛同しフォローしているのが遥である。そんな遥が意思を口にするなんて珍しい。
 同じことを寛司も思ったらしい。遥の隣に並んで、意外そうに「どうしたの、やる気だねえ」と彼の顔を覗き込む。
「別に。そんなんじゃ、ないけど」
「いやいややる気あるってのはすげーいいことだけど」
「……やっぱり高校でも、バスケやりたいから」
 ちら、と寛司を一瞥する。
「だから俺、もっと頑張ろうかな、って」
「そっか! 頑張るのもすげーいいことだよな!」
 寛司が笑う。遥が真面目な顔で頷く。
 龍夜ははっとした。遥は、先を見ている。一年後の自分、そして高校に進学した自分のことを考えているのだ。
 中学校を卒業した後にどうなっていたいのか、遥にはそのビジョンがはっきりとあるのだろう。行きたい高校があって、そこでもバスケ部に入りたいのだろう。テスト勉強や宿題をやりながら嵐に勉強を教わっているのも、部活動に力を入れたいという思いも、自身をよく見つめたからこそのものに違いない。
 じゃあ自分はどうだろう。龍夜は考える。一年後、高校受験を控えた自分。高校に入学する自分。いったいそれはどんな世界なのだろう。自分はどんな世界に立つことになるのだろう。
(中学を卒業した俺、か……)
 具体的なイメージはまだ、ない。遥と龍夜の差はそこにある。今の龍夜には、その差があまりにも大きなものに感じられた。



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