8.


 その翌朝のこと。龍夜が教室に入ると既に星魚は登校しており、寛司の姿はまだなかった。自分の席に背負い鞄を下ろし、その足で遥の席に歩み寄る。
「おはよう、遥」
 声を掛けて、視線を星魚に移した。
「白石、おはよ」
「あーおはよー」
 星魚はいつもと変わらない笑顔で龍夜に挨拶を返す。冬休みの部活の件は、やはり葵の、龍夜たちの考え過ぎなのだろうか。休み前、クリスマス会の時と特に変わらない星魚の様子を見ていたらそう思えてきた。
 それならば。龍夜は教卓前の机を見、教室を見回し、もう一度星魚に向き直った。
「寛司は? まだ来てない?」
「どうせ今日もまたぎりぎりでしょ」
 呆れたように星魚が口をへの字に曲げた。時計は今が始業五分前であることを告げている。そして寛司が始業時間ぎりぎりに登校してくるのは、星魚が言うように、珍しいことではない。いつもなら寛司の連続無遅刻記録が更新されるかそれとも白紙に戻るのか、遥たちと面白半分に賭けてみるのだが、今日はそんな話をしている場合ではない。寛司に昨日のことを――龍夜の目の前にいる星魚のことを確認しなければならないのだ。
 それは決して義務ではない。星魚の部活無断欠席の真相は、決して龍夜が知らなければならないことではない。しかし龍夜は全体の一端を聞いてしまった。聞いた以上、疑問が残るのはどうにも気分が悪い。ただの龍夜の好奇心と言えばそれまでだが、星魚の件は気にかかる。心配に思うその気持ちは決して嘘ではなかった。
 当の寛司が登校してきたのは始業のチャイムが鳴る直前だった。
「すげえセーフ! すっげえセーフ!」
 教室の扉の前でガッツポーズを決めたと思ったら、次は野球の塁審のように両手を水平に伸ばしている。そのすぐ後ろには出席簿を抱えた新崎が立っており、軽く額を押さえていた。
「早く席に着かないと、せっかく間に合ったのに遅刻にするよ?」
「俺はそんな脅しには屈しないぜ先生」
「あんまり遅刻が続くようならご家族に連絡しないといけないし……」
「そういう脅しやめようよ先生」
 ごめんってば! 謝罪になっていない謝罪を言葉にしながら、寛司は顔の前で手刀を振りながら教室を見回した。そして椅子に座る直前、ちらりと龍夜を見たのだ。
 嵐や遥を振り返れば、彼らも寛司と目が合ったのか、きょとんとしている。そこでようやく、寛司が謝っている相手がクラスメイトたちではないことに気がついた。寛司は朝から皆の前で騒いでしまったことに対して謝罪をしているのではない。今彼と目が合った龍夜たちに対しての『ごめん』なのだ。
『ごめん』の理由は二時間目前の休み時間に明かされた。
 二時間目は国語。教科書にノート、国語辞典を準備していた龍夜だったが、次々と教室を出ていくクラスメイトたちに疑問を覚えた。
「ほら、龍夜も行こうよ」
 声を掛けてきた遥が手にしているのは、国語ではなく美術の資料集と新聞紙。予定黒板を見上げると、本来『国語』であるはずのそこには『美術』と書かれている。
「国語の坂内先生、今日出張でいないから代わりに美術だって」
「あっ」
 昨日の帰りのホームルームでそんな話があったような気がする。龍夜は慌てて国語一式を机にしまってロッカーを見た。しかしロッカーは空っぽ、美術の教科書などない。終業式の日に中身をごっそり全部持って帰ったのだから当然である。妙なところで律儀な自分を呪いたい。
 教科書はなくても(基本的に授業で開くことはないから)何とかなるが、新聞紙はないと困る。遥に頭を下げて新聞紙を分けてもらいペンケースだけ掴んだ龍夜を、寛司が「ちょっと待って」と呼び止めた。
「ちょうどいいや、昨日の話しておくぜ」
 まだ教室に残っているのは龍夜たち四人だけ。確かに内緒話をするには都合がいい。
「白石とはちゃんと話したの?」
 訊ねると寛司は首を縦に振った。
「話したけど、やっぱよく分かんなくってさ。悪いな」
 ……何だって? 意味が分からず、出かかっていた言葉を飲み込む。分からない、だって?
「どういうこと?」
 嵐に訊き返され、寛司は首を横に振った。
「どうもこうも、理由なんてないって言われた」
「えー、それ嘘だろ」
「けどそう言われちゃったんだから、俺だって引き下がるしかねえだろ」
「で? 素直に引き下がっちゃった訳」
 頷く寛司に遥が溜め息を返す。
「馬鹿、その嘘を突き止めるのがお前の仕事だろ」
「そんなこと言われても」
 寛司が唇を尖らせたその直後、二時間目開始を告げるチャイムが鳴った。四人は慌てて教室を飛び出した。階段をかけ上った先の美術室では。
「遅刻だぞお前たち」
 既に授業を始める準備が整っており、美術教師の永山が出欠の確認をしていた。
「いつまでも冬休み気分でいたら駄目だろう。時間は守りなさい」
「はぁい、すみませんでしたぁ」
 謝りながら美術室を突っ切り隣の美術準備室を覗く。自分の出席番号が書かれた石膏と彫刻刀二本を掴んで美術室に戻る。四人が空いている席に着くのを見届けて、永山は授業の趣旨を簡単に説明した。
 二学期中に完成させるはずだった彫像だが、ほとんどの生徒が志半ばで二学期の終わりを迎えてしまった。龍夜もその一人である。その救済措置のためこの一時間が設けた。一時間で彫像を完成させ、提出しなければならない。
 来週からは次の単元に入りたいらしい。そんなの完全に大人の都合だ。もっとマイペースにやらせてくれてもいいのに。彫刻刀の持ち方について再度説明する永山から意識を逸らし、龍夜は先ほどの寛司の言葉を思い出した。
 理由なんてない――星魚はそう言っていたという。果たして本当にそうだろうか? 遥も疑っていたし、事実とは異なると龍夜も思う。しかし、寛司が訊けなかったことを龍夜から訊くのは躊躇われた。星魚の幼馴染の寛司と、ただのクラスメイトの龍夜。関係性の違いは明らかだ。そんな龍夜に、いったい何が出来る?
 龍夜は無意識に止めていた息を深く吐き出した。机に新聞紙を敷いて彫刻刀を握り、手に力を込め、石膏を大きく削ぎ落とした。
「……あ」
 犬の足になるはずの部分がごっそりとなくなった。



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