7.


 冬休み最終日、夕方から雨が降り出した。それは日を跨いでも止まず、新年最初の登校日を迎えた学生たちの気を重くさせた。
 雨が早朝の空気から熱を奪っていく。制服にコートを羽織って玄関を出た龍夜だったが、あまりの空気の冷たさに身震いして首をすくませた。一度自室に引っ込み、ボタンを全て留めたコートの上からマフラーを巻いて、更に手袋をはめる。思いつく限りの防寒対策をして、改めて家を出た。
 新学期初日と言えど、前日も前々日も部活で登校してきている。昨日も通ったはずの、いつもと同じ通学路。それでも昨日と違って見えるのは、今日が新学期だからだろうか。それとも足元を濡らす雨のせいだろうか。或いは、視界を半分隠す紺色の傘のせいかもしれない。
「おーっす」
 肩を叩かれて顔を上げる。横を見れば、いつの間にか寛司が並んでいた。
「おはよ」
「今日寒いよな」
「雨だもんね」
「昨日の昼まではいい天気だったのになー」
 寛司の言葉に頷きながら、龍夜は傘を持つ手をもう一方の手でさすった。冷気が手袋越しに手を攻撃してくる。家を出てまだ間もないというのに、早くも龍夜の指先は冷たくなり始めていた。
 この寒さは学校に着いても同じだった。靴を履き替え、階段を上り、教室に入っても一向に温かくなった気がしない。むしろ外よりも校舎内の方が、空気が冷たい気がする。まるで二週間の冬休みの間ずっと冷気を溜め込み続けたかのような、重い冷たさだった。
 寒さは体育館でも変わらず、始業式で校長からの挨拶を聞いている間、どうにも震えが止まらなかった。そう感じていたのは龍夜だけではなかったらしい。「一月は行っちゃう、二月は逃げちゃう、三月は去っちゃう、とはよく言ったもので……」などという校長の話を聞き流しながら横目でちらりと見ると、隣にいた星魚は終始腕をさすっていた。
 そんな始業式も、校長の長い話にさえ耐えれば、あとはたいしたことはない。ちょっと校歌を歌い(もっとも龍夜は伏和中の校歌をまだ覚えていなかったから、ほとんど口パク状態だったが)、生活指導教員から校内での過ごし方について数点注意があっただけで他には特に重要なことなどなく、生徒たちは三十分程度で冷え切った体育館から解放されることとなった。
「あー寒い。寒いぜ、寒い……」
 背中を丸めて体育館を出る。確か鞄の中には未開封の使い捨てカイロが入っていたはずだ。早くあれで暖を取りたい。足早に教室へ向かっていた龍夜だったが、すぐ前を歩く寛司が足を止めたせいで立ち止まらざるを得なかった。
「ねえ、双馬君」
 寛司の肩越しに前方を見れば、江之崎葵が寛司の行く手を阻むように立っている。
「何だよ、喧嘩なら受けて立たないぜ?」
「馬鹿言わないで。何であんたなんかと喧嘩しなきゃならないの」
 寛司の冗談を一蹴し、周囲を一瞥した葵は少しだけ声を潜めた。
「あの……星魚のこと、なんだけどさ」
「え? 星魚?」
「うん。冬休みの間、星魚どうしてたのかなって思って……風邪引いてたとか、何かそういうの知らない?」
「いや、ぴんぴんしてたけど。何で?」
「それは、その……」
 葵の声が、また一段と低くなった。
「部活に一回も来なかったから」
 これには寛司も驚いたようで、「一回も?」と目を丸くする。
「そりゃあ変だな」
 寛司は腕を組んで首をひねった。
 星魚は冬休み期間中、所属しているソフトテニス部の活動に一度も参加しなかった。しかも葵の話によれば、葵をはじめとするソフトテニス部員の誰にも欠席の連絡をしなかったらしい。龍夜は星魚が委員会の仕事にしっかり取り組むところを見ているし、小学生の頃には学級委員なんかもやっていたという話も聞いている。まだ星魚と出会って日が浅い龍夜が、彼女が真面目な性格であることくらいは分かっている。
 だからこそおかしな話なのだ。星魚が部活を無断欠席するなんて。
 腕を組んだまま、寛司は「分かった」と葵を見た。
「星魚には俺からも聞いてみるよ。無断はよくないからな」
 その言葉を聞いて、葵が少し表情を明るくする。
「本当? 頼んでいい?」
「おー、任せろ」
「ありがとう! 妙なこと頼んでごめんね。よろしく!」
 葵は寛司に小さく手を振ると、ちょうど通りがかったテニス部の仲間に声を掛け、教室へ戻る人の流れへと乗っていった。何となくそれを見送っていたが、やはり廊下は寒い。早くカイロを開封しようと心に決め、列が疎になっているところを見つけて身を滑り込ませた。
 しかし不思議な話だ。
 寛司曰く、二月末にはソフトテニスの冬季大会がある。大会自体は伏和市主催でそれほど大きなものではないが、星魚たち二年生にとっては重要な大会らしい。というのも、来年度の夏に開催される大会のメンバーをここで決めるのである。
 三年の夏の大会は中学の部活生活で最後の試合だ。誰もがこの大会への出場、そして優勝を目指して部活動に取り組んでいるはずなのに。
 星魚はなぜ冬休みの部活動に参加しなかったのだろう。
 葵が無断欠席の真相を知らないというのもまた謎だ。星魚はソフトテニス部の中でも特に葵と親しくしているらしい。そんな彼女にも打ち明けられない秘密――部活欠席の理由とは、いったい何だろうか。
「分かんねえなあ」寛司が首を傾げ、「分かんないね」龍夜がそれに同意した。
 二人揃って唸りながら二年E組の教室の扉を開ける。窓側後方が星魚の席、隣の席の遥と談笑しているのが視界に入る。そこにいるのはいつも通りの星魚だ。その姿に、雰囲気に、違和感はない。
「よっしゃ、江之崎のためにも訊いてくるか」
 寛司の声も普段と変わらない。いつもの調子で。
「おーい星魚」
 何のためらいもなく大声を出し星魚に向かって手を振った。その行動にぎょっとした龍夜は、思わず寛司に肘鉄を食らわせた。とっさのことで力の加減が出来ず、想定以上の強さで寛司の脇腹に肘がめり込む。寛司は痛みで身をのけ反らせ、そんな彼を見た星魚は呆れたように溜め息をついた。
「何? どうしたの」
「いてえ……じゃねえ、あのさ」
「いや、何でもないよ」
 脇に攻撃を食らってもなお葵からの任務を遂行しようとする寛司の台詞を遮り、龍夜は顔の前で手を振った。背中を叩いてくる寛司を無視して「何でもないから」と繰り返す。
「なら、いいけど……」
 タイミングよく担任の新崎が教室に入ってきたこともあり、星魚の意識は寛司から離れた。内心胸を撫で下ろして、背中を叩き続ける寛司の手を止めさせる。まずは肘鉄について謝罪し、それから「時と場所を選ぼうよ」と続けた。
「あんまり人に聞かれたくないことかもしれないだろ? 皆がいる教室じゃまずいよ」
「部活サボったってことが? まあ、そりゃあそうかもしれないけど」
 そのサボりの理由を葵は知らない。誰にも――親しい葵にも言えない理由があるのだろう。
 しかし、友人には言えないことでも、付き合いの長い幼馴染には或いは。
「だから江之崎さんは寛司に頼んできたんじゃないかな」
「……そう、かな」
「そうじゃないかなあ」
 龍夜が頷くと寛司は言葉を切った。思い当たる節でもあったのだろうか、新崎の着席の号令で席に着いてからも、何やら考えを巡らせているようだった。自席から寛司の表情を窺おうとしたが、しかしそうはせずに彼から視線を外した。幼馴染の関係に踏み込むことは許されないような気がしたからだった。
 始業式後の時間割は学活のみ、校内清掃と学級活動、冬休みの宿題の回収だけ。さんざん苦しめられた宿題たちを提出すると、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。来週には各科目の復習テストなるものが待っているから羽目を外す訳にはいかないが、抱えていた課題がなくなるというのは気持ちのいいものである。放課後には部活動もなく、生徒全員が正午前に下校となった。
 宿題はなくなったが、心に引っかかることはまだ残っている。人がまばらとなった玄関で座り込み、寛司は頭を抱えた。
「改めて話そうとすると何か緊張するな……やっぱ今日は行くのやめとこうかな……」
「何でだよ行けよ」とすかさず突っ込みを入れたのは遥。その隣で嵐が「でも、確かに変だよね」と眉根を寄せた。
 星魚の部活無断欠席の件を嵐と遥にも相談すると、二人とも親身に話を聞いてくれた。冬休み前の星魚に何か変わったことはなかったか、気になる言動はなかったかを一緒に思い出してくれ、休み中のソフトテニス部の活動についても調べてくれた。
 調べた結果、気になったことが一点あった。ソフトテニス部は昨年の十二月二十四日、午前中に活動があったのだ。二十四日といえば、寛司主催のクリスマスパーティーが行われた日でもあり、星魚はこちらには参加してくれていた。
「部活はサボったけど、俺らのクリスマス会にはちゃんと来てた、ってことか」
「変なケーキ作ってな」
「変なとか言うなよ、なかなかの力作だったじゃん」
「……それだ」
 寛司と遥のやり取りに、嵐が顔を上げた。
「白石は藤真とケーキを作ってた。二十四日の朝から」
 休み中の部活の日程は、終業式の一週間前には既に発表されていた。だから星魚は『二十四日の午前に部活があることを知りながら、その日にケーキを焼く約束を稚子とした』のだと考えられる。
 星魚は突発的に部活を休んだのではない。はじめから部活に参加する気などなかったのだ。
「何で……星魚、本当に、どうしたんだ」
 スニーカーの靴紐を締め上げた寛司が立ち上がる。先に立って玄関を出ていく。龍夜たちもそれに続く。
「寛司、その……よろしくな」
 声を掛けると寛司は振り向き、「任せろ!」と親指を空に突き立てた。



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