5.


 賽銭にお守り、射的と買い食い。そろそろ財布が限界である。
「さて、ぼちぼち帰るかね」
 陽介の声に頷いた龍夜は、頭の中で財布の残高を計算しながら食べかけのお好み焼きを口に押し込んだ。大丈夫、帰りの電車賃くらいは残っている。今日一番の目的である神様への投資額があらゆる出費の中で最小であることについては、特に触れない。たった五円でも、神様なら広い心で賽銭を受け取ってくれたに違いない。
 陽介を先頭に屋台を離れ、来た道を戻って深空駅を目指す。道中「冬休みの宿題終わった?」「まだ」「俺も」「そろそろやらないとねえ」などと溜め息をついたのは、雅章を除く男三人と成だった。
「リューヤも宿題いっぱいあるの?」
「結構あるよ。休み明けにテストがあって、テスト後にワークとかノートとか提出するって言われてるから、それも宿題とは別にやっておかなきゃならない」
「それ五教科全部?」
「うん」
「やばいじゃん」
「うん……終わる気がしない……」
 対して、涼やかな顔で残課題とは縁遠そうなのが雅章と芽衣子。この二人はいつものことだが、宿題を片付けるのが早い。二人ともソフトテニス部で、しかも四中のテニス部は男女共に市内でも強い方だから、冬休み中も大会に向けてハードな練習をしているはずだ。それなのにいつ宿題をしているのだろう。以前訊いてみたら「空いてる時間だよ」という答えが返ってきて、何の参考にもならなかったことを覚えている。
「あー宿題やりたくねえなあ」
「ヨーチンやる気ないだけで、本当は頭いいんだから本気出せばすぐ終わるでしょ」
「おう、俺はやればデキル男だからな」
「普段はやらないから出来ないんであって、能力がない訳じゃない、って言いたいの?」
「そういうこと。だってやる気出ねえもん」
 宿題はやる気の有無に関わらず、やらなければならないものだ。しかし陽介の認識は龍夜のそれとは異なるらしく、これまでにも数多くの課題を「別にやる必要ねえじゃん!」と踏み倒してきている。それも、高校に進学しないことが頭の片隅にあったからこその考えなのかもしれない。
 そんなことよりも。龍夜は麗を振り返った。
「ヨーチンよりもレイだよ」
 やらない決意を固めている陽介とは違い、『やらなければならないことは分かっているがやる気を出せない』のが麗だ。そのくせ宿題をさぼり怠け者のレッテルを貼られることは避けたいらしく、長期休暇のラスト三日間に湯島家に行くとだいたい地獄絵図が広がっている。
「今からやらないとまた大変なんじゃない?」
「そりゃあ俺だってその気になれば」
「おお、ビッグマウス?」
 麗の前に回り込んだ龍夜は、腰を折って少し屈んだ。わざとらしい上目遣いで麗の顔を覗く。
「それで何とかなるのかなあ?」
「するんだよ、何とか!」
 いつになく強い口調の麗に、龍夜は次の軽口を叩けなかった。「お、おお、そうだよな」などと適当なことを言って姿勢を正す。駅方面に身を翻し、先を行く陽介の横に並んだ。
 帰りも同様、電車で二駅一七〇円。待ち合わせをした西深空駅へ向かう。龍夜たちと同様初詣帰りの乗客ももちろん多かったが、それ以上に大きな買い物袋を抱えた乗客らが目立っていた。デパートの初売りに行ってきた帰りなのだろう、赤で『賀正』と書かれた紙袋は明らかに福袋だ。電車が揺れる度に、隣に立つ女性客が抱える福袋が龍夜にぶつかってきた。西深空に着き、人間だけでなく買い物袋でいっぱいだった車両から降りた時、龍夜は少しほっとした。
 龍夜の祖父母の家は西深空駅の西側方向にある。麗、芽衣子の家も西だ。成の家は南、陽介と雅章は東側だから、ここで解散だ。
「それじゃあ皆、今年もよろしくお願いね」
 別れ際、笑顔で頭を下げる芽衣子に、成も「うん、よっろしくー!」と続けた。
「リューヤも、なかなか会うことはないかもしれないけど、よろしく頼むね」
「何『よろしく』って」
「深空に帰ってきたくなったらうちに泊まっていいのよ?」
「タダで?」
「まさか」
「じゃあ遠慮するよ」
 だいたい高坂家はともかく、祖父母がまだ深空に住んでいる。こちらに来ることがあれば祖父母に世話になるだろう。祖父母が引っ越すなどして深空を離れることになれば、その時はかなもりに世話になるかもしれないが、その可能性は限りなく低い。
 もちろん成も、半分冗談で言っている。それは龍夜もよく分かっている。しかし残りの半分が結構本気であることも知っている。幼馴染から宿泊代を搾り取ろうだなんて、成の奴、しっかりしているというかちゃっかりしているというか。とりあえず笑ってはぐらかしておいた。
「じゃあ、またねー」と手を振りながら成が背中を向け、芽衣子がその後を追った。あれ? と思い彼女を指差して麗を見ると、「あの着物、成からの借り物だって。返しに行くんだろ」とのこと。着付けたのは成だというし、成の家に着替えを置いてきているのだろう。なるほどそういうことか。合点して、ちらりとこちらを振り向いた芽衣子に手を振った。
 揺れるかんざし、着物の袖を見送って、一瞬の間。
「……僕たちも解散しますか」
 雅章の言葉に各々頷いた。
「リューヤ、急に呼んだのにサンキューな」
「ううん、俺の方こそありがとう」
「今度帰ってきたら電話しろよな」
「そうだね。そうするよ」
 じゃあ、と陽介と雅章に別れを告げ、龍夜は麗と並んで祖父母宅(麗は自宅)に向かって歩き始めた。
「リューヤんとこも書き初めの宿題ある?」
「あるよ。『初志貫徹』って書くんだけど、難しそうだよね」
「その言い方は、まだやってないんだな」
「書き『初め』なんだから、年明けてからやるもんだろ」
「あ、初めては大事にしたいタイプ?」
「そう、初めてなの……優しくしてネ」
「うわあ気持ち悪い」
「うわあ酷い!」
 帰り道でも、懲りもせず特別中身のない、言ってしまえばくだらない会話が続く。麗とのこのやり取りは、昔から、まだ幼稚園に通っていた頃から変わらない。その事実に安心する。
 それなのに……龍夜は雅章との会話、陽介の決意を思い出した。雅章も陽介も、中学を卒業した『先』のことまで考えていた。『今』でいっぱいで、『今』に一所懸命な龍夜とは大違いである。今の龍夜に『先』を考える余裕なんてないのに。
 ――いや、違う。余裕がないのではない。考えるつもりがないのである。中学の卒業なんてまだ遠い未来のことだと思っている龍夜に、その先のことなど考えられるはずがないのだ。
 二人は龍夜とは『違う』。そう思うと同時に、龍夜は「やっぱ早いよなあ」と呟いた。
「何が?」
 訊き返してくる麗に「ガショーとヨーチンだよ」と返す。
「ガショーはもう高校受験のこと考えてて、しかも港嶺目指してて……受験なんて来年のことなのにさ」
「……うん」
「ヨーチンも、もうおじさんの仕事継ぐって決めてるんだなって。俺、明日誰と遊ぼうかなとかそんなことしか考えてないのに、ヨーチンはもう働こうとしてるんだ」
 一息に言い、空を見上げる。上空は風が強いらしいらしい。大きな雲が海側から帯になって流れてきている。
 雲から麗に視線を移す。
「……麗は?」
「何が?」
「麗は、どこ受験するの?」
「俺は……」
 少しだけ、期待していた。『そんな先のこと、まだ分かんねえよ』と、麗なら言うんじゃないだろうかと、そう思っていた。長期休暇の宿題を最後の最後まで溜めるような男が、将来の計画なんて立てているはずがない。
 しかし麗の口からこぼれたのは。
「濱音」
 市内にある公立高校の名前だった。
「そっか……もう、考えてるんだ」
「まあな」
「……あれ、でも濱音って女子高じゃないっけ?」
「来年から共学になるんだってさ」
「へえ、じゃあ先輩は皆女子か。さてはハーレム目的だな?」
「馬ぁ鹿言え」
 麗の肘鉄を食らう。大袈裟によける。追撃が来るかと思って待ち構えたが、待っても来なかった。
「メーコがさ」
 唐突に登場した幼馴染の名に、龍夜は首を傾げた。
「メーコ?」
「そう、メーコが目指してるんだ、濱音。だから俺も、同じところに行こうかと」
 何だ、そんな理由か。龍夜のその台詞は声にならなかった。上空の風が雲を押し、太陽が顔を隠した。
 麗の顔に影が落ちた。
「あのなリューヤ。俺、今メーコと付き合ってんだ」
「…………え?」
 思わず足を止めた。理解に時間を要した。突然の告白に、龍夜の頭がついていかない。何だって? 付き合っている?
「え? 全然分かんないんだけど? 誰が? 誰と?」
「だから、俺が、メーコと」
 麗と? 芽衣子が? というか、いつから?
 疑問が次から次へと浮かぶ間も、麗は前を歩きながらぽつりぽつりと話した。今年の夏休み明けから付き合い始めたこと。麗の方から告白したこと。そろそろ四カ月経つが、まだ陽介にも雅章にも内緒にしていること。成にも言っていないつもりだが、もしかしたら彼女には芽衣子から話しているかもしれない。
「ヨーチンも、ガショーも、知らないってこと?」
「うん。言ってない」
「じゃあ……何で、俺に」
 まだ立ち止まったままの龍夜を振り返って、顔の表情を緩めた。
「何となく。自慢」
「何だよそれ」
 とっさに突っ込み、そして思わず噴き出した。
 麗は昔から芽衣子のことが好きだった。そのことを龍夜は知っている。他人の心の機微に疎い龍夜だが、麗との付き合いとの長さがそれをカバーしていた。龍夜が麗の気持ちに気付いたのが小学三年の時だから、麗の片想い期間はそれよりも前から始まっていただろう。麗は五年(以上)の片想いをここでようやく成就させたのだ。
 また大気が流れ、太陽が顔を出す。地面に落ちる電信柱の影が色濃くなり始める。
「よかったじゃん、おめでとう」
 ありがとう、と笑う麗は、むかつくくらいに格好よかった。
 その晩、龍夜は布団に入ってもなぜかしばらく寝付けなかった。疲れていて眠いはずなのに、頭が休もうとしなかった。

 そして、三日間の深空滞在を終えた高坂一家は伏和へ戻る。
「また遊びにおいで」と言う祖父母に手を振り、家族四人を乗せた高坂家の自家用車は深空を出発した。父親の運転する車は高速道路に乗ってぐんぐん加速する。深空がどんどん遠くなる。
 この三日間、地に足がつかないというか、何となく落ち着かない気分だった。自分が深空にいる、ということが不思議に思えて仕方なかった。
 しかしそれも今日までだ。これから龍夜は、嫌でも現実に直面しなければならない。



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