19.


 龍夜がそれを聞いたのは二月の頭、学級会で三送会実行委員を決めたあの日。部活を終えて体育館倉庫で片付けをしていた時だ。外は既に薄暗く、歩く誰かの声は聞こえても顔をはっきりと見ることが出来ないような時間だった。
「え?」
 突然のことに耳を疑った。ボール籠にバスケットボールを放り込む手が止まり、滑り落ちたボールは大きな音を立てて床を跳ねた。それほどまでに、あまりにも唐突で信じがたい話だった。
 龍夜は思わず聞き返した。
「今、なんて言った?」
「だーから、星魚の奴、三月で転校するんだって」
「まさか」
「その『まさか』なんだよ」
「そんな……」
 そんなはずがない。そう思う反面、ああそうだったのか、と納得する自分がいた。星魚は冬期休暇の間部活を無断欠席していた。三学期に入ってからも出たり出なかったりで、出席率は低いらしいと聞いている。二月の終わりに市の大会を控えているというのに。その大会の結果で来年の夏――三年の最後の試合のメンバーを決めるはずなのに。
 当たり前だ。来年の夏、星魚はもう伏和中にはいないのだから。
 確実に出られないと分かっている夏の試合である。次の機会もない。ならばそのメンバーを決める二月の大会に対しても、二月の大会を左右する冬期休暇中の練習に対しても、モチベーションは下がる一方だっただろう。或いは自分が出来ない分、他のチームメイトにチャンスを譲るつもりだったのかもしれない。いずれにせよ冬期休暇以降、星魚は伏和でテニスをすることを諦めて生活してきたのである。
「ひっどい話だよなあ」
 寛司は器械体操用のマットに飛び乗った。埃が舞い、黴臭さが鼻をついた。
「あいつ、誰にも言わずに転校してくつもりだったんだぜ? そんなのって、ねえよ」
「でも寛司は知ってたんでしょ?」
「俺だって知ったの最近だよ。ほら俺、江之崎に頼まれて星魚の部活無断欠席のこと聞きに行ったじゃん? ……あーそうだ、それ謝らなきゃなんないな」
「何を」
「本当はその時に聞いてたんだ、転校の話。でもあいつから口止めされてたから、龍夜たちには嘘ついてた。星魚は何も言ってなかったし分かりませんでしたー、ってさ」
 星魚から懇願されたに違いない、『お願いだから、誰にも言わないで』――と。普段は軽口を言い合っている相手からそんな風に言われてしまったら、寛司も頷いて約束せざるを得なかった。
 そして星魚も、転校のことを周りに知られたくなかった。知られてしまったら友人やクラスメイトとの関係が変わる。『ずっと一緒の人』から『近い将来去る人』に変わってしまう。そうなることを恐れたのだろう。
 どちらの言い分もよく分かる。しかし龍夜が最も共感出来たのは、星魚との約束を守ろうとした寛司ではなく、変化を恐れてしまった星魚でもなく。
「だけどさ、そんなの、寂しいじゃん?」
 幼馴染との約束を破ってしまった今の寛司に、であった。きっと龍夜が寛司の立場でも同じことをしたと思う。誰にも知らせずに、なんて、転校していく方にも送る方にも言い様のない寂しさしか残らないだろうから。
「で? それ、俺たちに話してどうするの?」
 がしゃんと金属音がして龍夜は顔を上げた。ボールでいっぱいの籠が、倉庫扉のサンを乗り上げて入ってくる。嵐が籠を押し込み、龍夜が落としたボールを拾い上げた遥が籠目掛けてシュートを放った。ボールは籠の中で弾んだが、外へ飛び出すことはなかった。
「おーナイスシュート」
「こんな近くから打って外す訳ないでしょ、三メートルもないよ」
「いや、あるかもしれない」
「ないかもしれない」
「測ってみる?」
「あ、そこまでしなくていいや」
「あっそう」
 寛司と遥の言い合いを「それで?」と嵐の声が止めた。
「寛司はどうしたいの? 何か考えがあるから俺たちに話したんでしょ?」
 言われて寛司は真面目な顔になる。
「そうそう、それなんだけどさ」
「おっ真顔だ、珍しい」
「何だよ、俺はいつも真面目だよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃねーよ」
「どうするんだよ早く言えよ」
「だったら邪魔しないでくれませんかねえ!」
 冗談はこれまで、と言わんばかりに寛司が咳払いをした。三人を見回す。
「白石星魚を送る会をする」
 きっぱりと言った寛司を見て、嵐と遥が目を合わせた。一瞬の間ののちに遥は肩をすくめ、嵐が苦笑する。
「あーあ、言い切ったよこいつ」
「こうなったら寛司は、俺らが何言っても全然聞かないんだから」
 言葉に反して二人の声色は柔らかい。二人から「協力するよ」という返事が出るまでにさほど時間はかからなかった。
 寛司の船に乗った遥と嵐は龍夜を見た。寛司もこちらを向いた。三対の目が龍夜の次の発言を待っている。
「俺、は……」
 過去に転校していくクラスメイトを見送ったことがあるし、龍夜も半年前に深空の友人たちと別れて伏和に越してきた。残りの短い時間でより多くの思い出を作りたい送る側の気持ちも、変に気を遣わせてしまうのを嫌う送られる側の気持ちも分かる。
 両方知った上で――龍夜は考える。
 星魚は環境が変わる。本人の意思なんて関係ないまま周りの景色が変わっていき、嫌でも転校と別れの事実を実感する。対して寛司たちはどうだ。クラス替えくらいはあってもほとんどが小学校から一緒の同級生である。見知った人間たちと四月からもまた同じ伏和中に通う。しかしそこに星魚の席はない。一緒だったはずの彼女は学校中を探したとしても、どこにもいないのである。どこかできちんと区切りをつけないと、送る側も気持ちの整理がつかないだろう。
 そして龍夜自身。体育祭での二人三脚、図書委員の活動、クリスマスパーティーのこと、たった五カ月の間だったけれど、星魚と過ごした時間は短くない。その彼女がいなくなるというのは――。
 ぐっ、と拳を握り締めて。
「もちろん、俺も」
 龍夜は大きく頷いた。



   ◆



 星魚はぽつりと呟いた。
「何だか申し訳ないなあ」
 天井を仰ぐ。緩くウェーブのかかった髪が肩を滑り落ちて背中で跳ねる。
「でも、やっぱり結構嬉しい」
 言うと彼女は立ち上がった。先輩たち、後輩たち、そして同級生たちに頭を下げる。
「その……びっくりしちゃって、頭真っ白なんですけど。こんな場を作ってくれて、ビデオとか手が込んだことまでしてもらって、本当にありがとうございます」
 そして寛司に向き直る。
「これやろうって言い出したの、寛ちゃんでしょ」
「まあ、まあまあ、な」
「本当にあんたってやつは」まったくもう、くすりと笑う。「いっつも私のことからかって、驚かせてくるし、変なところでばっかり頭が回るんだから」
「おい待てよそれ誉めてんの? けなしてんの?」
「誉め言葉に決まってるでしょ! 馬鹿、バカンジ」
 星魚の頬に一筋の涙が光る。
「ありがと、ほんと……ありがと……」
 稚子が、はるかが、星魚を両側から抱きかかえた。再び沸いた温かな拍手が、視聴覚室を、星魚を、ここにいる皆を包み込んだ。



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