20.


 信号が変わるのを待ちながら交差点の斜向かいを見やる。角の家から三軒先が双馬家、四軒先が白石家だ。
 青になった信号を渡り、その足でまた戻る。たった十数メートルの往復を、青信号になる度に繰り返す。龍夜は既に、目的地までの道のり以上の距離を往復していた。
 終了式を迎え、春休み期間に入った。四月に新学期を迎えるまでの、二週間ほどの短い休みである。こんなことに時間を費やしていてはもったいない。もちろん龍夜だってそう思っている、が。
(だってなあ)
 女の子の家を訪ねるなんてハードルが高過ぎだ!
 行ったことのある女の子の家といえば幼馴染の芽衣子と成くらいだが、成の家は旅館だからここではノーカウントとする。それに、芽衣子だって本当に幼い頃からの付き合いで彼女の両親もよく知っているから、今更意識するも何もない。
 しかし星魚は違う。成のように自営業で多くの人が出入りするような家ではなく、芽衣子のように付き合いが長い人間の家でもない。完全に、同じクラスの女子の家だ。
(でも……)
 右手に提げた紙袋を見る。中身のことを思い、手提げ紐を握り締める。
 行かなければ。
 点滅を始めた信号を駆け渡った。次の信号もすぐ青になる。渡る。目的のブロックに辿り着く。
 二軒を通り過ぎて、一度寛司の家の前で立ち止まった。耳をすましたが特に物音は聞こえない。外から見た限り、電気もついていない。寛司も家族も、皆出掛けているのだろうか。しかし今用事があるのは寛司ではない。龍夜にとっては、留守ならその方が都合がいい。隣家に目を向け、扉の前に立った。
「はーい」
 呼び鈴に応じて玄関まで出てきた星魚は髪を後ろでひとつに束ねて伏和中指定ジャージを着ていた。
「え、高坂君?」
「こんちは」
「寛ちゃんち、ここじゃないよ? 隣だよ?」
「や、それは分かってるよ。今日は……その、白石に用があって来たんだ」
「私に?」
 首を傾げた星魚のジャージの裾は汚れていた。彼女の背後には段ボール箱がいくつも見える。引っ越しの準備と家の掃除に追われて忙しいに違いない。あまり時間をかけては悪いだろう。
「ええと、その」
 分かってはいるのだが言葉がなかなか出てこない。
「えっと」
「ん?」
「あの、これ!」
 紙袋を星魚に突き出してからしまったと思った。違う、そうじゃない。事前のシミュレーションと順番が違うがもう遅い。「私に?」と星魚が紙袋を受け取ってしまった。ああもう、どうにでもなれ――! 龍夜は紙袋を指差した。
「それ、飴。先月のお礼」
「飴? 先月?」
「美味しかったよ、トリュフチョコ」
 トリュフ、と聞いて星魚が目を見開いた。
「気付いてたの?」
「ていうか、教えてもらった。椎木と藤真に。俺がもらったのクッキーだけじゃなかったんだけどあれは? って訊いたら、入れたの白石だって聞いて」
「……そう」
「だからありがとう」
「そんな、お礼とか」
 言いかけて星魚は首を横に振る。
「ううん、どういたしまして」
 思えば、星魚にはチョコレートの件以外にも礼を言わなければならないことがたくさんあった。龍夜が九月に転入して以来、教室の内外で迷惑をかけたし世話にもなった。体育祭の練習や図書委員の活動等、挙げていけばキリがない。
 白石家の引っ越しは明後日と聞いている。あまり長居して準備の邪魔をしてはいけない。
 だけど、これだけは伝えなければ。
「俺、白石と同じクラスでよかったって思うよ」
「えっ」
 みるみる顔を赤くする星魚を見て、龍夜は今更恥ずかしくなってきた。もしかしたら今、すごく恥ずかしいことを言ったかもしれない。いや、言った。絶対に言った。その証拠に、背中に変な汗をかき始めた。
「えっと、あの、深い意味がある訳じゃなくて! いや意味がないこともないんだけど! そうじゃなくて!」
 言葉を継ぎ足せば継ぎ足すほど墓穴を掘っている気がする。これ以上傷を深くしたくない。
「とにかく!」
 龍夜は星魚の顔を見、目が合ってすぐに逸らした。
「次の学校でも、頑張って、元気でやれよ」
 じゃあ、とドアノブに手を掛ける。外に出て、一度振り返る。
 星魚は笑顔だった。
「もちろん!」
 扉を閉じた龍夜は知らない。扉の向こうで、星魚が紙袋を強く胸に抱いたことを。

 どこにも寄り道せず、まっすぐ自宅マンションに向かった。やたらと緊張した。全力疾走したかのように心臓が脈打っている。汗もかいている。ただ歩いているだけなのに。
 でも、これでよかったんだ。自分に言い聞かせる。これで最後だから。星魚に伝えるべきことを、全部ではないかもしれないけれど、思っていたのとは違ったけれど、ちゃんと伝えることが出来たのだから。
 エンジン音に振り返ると、大きなトラックが後ろを走っていた。トラックは龍夜を追い越して先のマンションの前で止まる。引っ越し業者のトラックだ。荷台が開き、大きな段ボール箱がいくつも運び出されていく。あのマンションにも新たな住人がやってきたらしい。
「ほらカノ、邪魔にならないように、よけてなさい」
 トラックの助手席から降りた女性がマンション入り口に立つ子供を手招きした。見た目から想像するに、龍夜の母親と同じくらいの歳だろう。ならその子も龍夜と歳が近い可能性が――転入生である可能性が高い。どんな人だろう、ちょっとした好奇心で覗き込んだ。
 女性の隣に駆け寄ったのは髪が長い女子だった。背丈は龍夜と同じくらいだろうか、女子にしては高めだ。手足がすらりと長く、華奢で――。
「あっ」
 こちらを向いた彼女と目が合い、首を引っ込めた。「どうかした?」「ううん、別に」という母娘の会話を背にその場を立ち去る。もしかしたら……そんな思いがよぎる。
 春は別れの季節。同時に、出会いの季節でもある。
 ならば、再会の季節と呼んでもいいのかもしれない。


『Air 中学二年生三学期編』 完





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