14.


 一番困難を予想していた水科の撮影こそ難なく終わったが、その後はなかなか思うように進まなかった。
「龍夜、川吉先生いた?」
「急に面談することになったとか何とかって言ってた」
「何だよードタキャンかよー」
「三年の担任だもん、受験生ってやっぱ大変なんだよ」
「新崎先生も何か用事出来たとか言ってたしさーこれじゃ撮影全然終わんないな」
 どうもこの時期の教師というのは忙しいらしい、こんな調子で予定の変更が相次ぐ。しかし焦ったところで時の流れが緩むはずもなく、三月五日の三送会はじわじわと、確実に近付いてきていた。
 三送会だけではない。他のイベントも目前に迫ってきている。
 例えば、バレンタインデー。
 チョコレートのテレビCMが増えたりスーパーやコンビニエンスストアにラッピングされたチョコレートが並んだり、嫌でも意識させられるこの時期。彼女がいる訳でも片想いの相手がいる訳でも何でもない龍夜だが、どことなく落ち着かない。全然知らない後輩が急にチョコレートを渡してきたらどうしよう――そんなことがあるはずないじゃないか――つまらない上にあり得ない妄想が浮かんでは消えていく。
 決してあり得ないのだが、一度始まった妄想を止めることは難しかった。他のことに集中しようとしても頭の片隅にソレが残っているのだから、集中したくても出来ない。気付けば龍夜は、隣の席の伊篠皐月がシャープペンシルの芯を入れるところを終始ぼんやりと眺めていた。
「ちょっと、どうしたの?」
「あ、ごめん、何でもない」
「熱でもあるんじゃない? あ、インフルエンザ?」
「違います至って健康です」
 怪訝な顔をこちらに向けてくる皐月をかわしてソレも意識の外に追いやる。そうだ、別のことを考えよう。撮影は思うように進まない、予定を組み直さなければ――この調子で誤魔化しながら学校にいる間は何とかやり過ごしたが、それもマンションに辿り着くまでのことだった。
 家の扉を開けた瞬間、甘いチョコレートの香りが龍夜の鼻腔をくすぐった。マフラーを外す間も惜しんで台所を覗く。コンロの上には鍋、それを好里が真剣な表情で見つめ、妹を母が見守っている。
「……何やってんの?」
 訊ねれば「今集中してんの!」とぴしゃりと返される始末。母親と目を合わせて妹を指差すと、「お友だちと交換するんですって」だそうだ。
「ふーん。で、何作ってんの?」
「デコチョコ。とかしたチョコにナッツとかドライフルーツとか入れるの」
「へえ、いいじゃん。俺のは?」
「お友だちにあげて、お父さんにあげて、それでも余ったらあんたにもあげるって」
「だったら最初から兄の分まで数に入れて作ってよ」
 だってよ? 母が好里の肩をつつく。好里がちらりと龍夜を見る。
「……仕方ないなあ」
 目を合わせずに頷く妹は、兄の贔屓目もあるだろうが、いつもより可愛く見えた。
 昨年は「義理だからねー」なんて笑いながらも、芽衣子が手作りのチョコレートをくれた。 思えばそれも、物心ついた頃から何年もずっと、だ。しかし今年は龍夜が転校して遠く離れてしまったし、そうでなくても今の芽衣子は麗の彼女なのだから気軽に「チョコくれ」なんて言えない。
 自室に入って鞄もコートも放り投げ、ベッドに転がった。ふと正月明け、嵐の家に集まって冬休みの宿題をやっつけたことを思い出す。あの時の寛司に、今なら同意出来る。
 枕に頭を突っ込んで呟いた。
「レイの奴、いいなあ」
 芽衣子の作るチョコは、いつでもとにかく美味しかったのだ。
 二月十四日の朝、冷蔵庫を開けるとピンクのリボンと包装紙でラッピングされたチョコレートが冷蔵庫の一角を占めていた。あの中のどれが友だちので父親ので龍夜のものなのだろうか。多分練習で作った失敗作が回ってくるのだろうが……余計な詮索はやめて、いつもより時間を掛けて身支度をする。あんまり浮わついた顔で登校するのは恥ずかしい。普段と変わらないだろうか、いつもと同じように見えるだろうか。鏡を見つめても結局答えは出ず、母親に急かされて家を出た。
 しかし教室に着いてから、龍夜は自分の心配が些細なものであることに気付かされた。
「お、おーっす」
 龍夜たちの前に現れた寛司は、龍夜以上にそわそわして落ち着かない様子だったのだ。
「どうしたの、何か変だよ」
 分かっていても一応訊ねる。
「そんなことねーよ、いつも通り」
「そう見えないから訊いてるんだけど」
「いや、でも、そんなことねーし」
 そうは言いつつも寛司は龍夜を見ようとしない。寛司の立ち位置から見て龍夜を挟んで向こう側に稚子がいるから、というのは改めて説明するまでもない。
「安心しろ寛司」遥が寛司の肩に手を置いた。「お前が今日藤真からチョコをもらえる可能性はゼロだ」
「何で!」
「あ、やっぱり藤真のチョコ待ちだったんだ」
「ち、ちげーよ! ていうか何でゼロって言い切れるんだよ!」
「そりゃあ、今月は不要物取り締まり月間だからねえ」
 青少年の豊かな心の成長を阻むべく、今月の目標として立ち上げられたのが『不要物取り締まりキャンペーン』だ。キャンペーンだなんてちょっと心が踊る言葉だがそんなものは名ばかりで、実際は、生活指導教員と学級委員を中心に抜き打ちで行っている持ち物検査だ。学業に関係のない漫画やCD、ゲームソフト等を学内に持ち込まないというルールを徹底し、勉学に集中させることが狙いらしい。もちろん菓子類も取り締まりの対象だ。
「先生たちは『もうすぐ進級するんだから気を引き締めろ、決められたルールは守れ』とか何とか言ってるけどさ、実際は女子がチョコ持ってくるだろうことを見越しての対策だろうねえ」
 毎年そういう女子生徒が後を断たないのだろう。肩をすくめながら言う嵐に、龍夜も全面的に同意する。
「それなのに藤真がチョコレートなんか持ってくる訳ないだろ」
 続けた遥に寛司は「んん、そっか」と唸った。
「それもそうだな」
「だろ? だから諦めろ、どうせ寛司の片想いだ」
「別にそんなんじゃねーし!」
「本当往生際が悪いな。そろそろ認めろよ、皆知ってるんだから」
「何で! ……いや違う、そんなんじゃねーし!」
「まあ、万が一寛司がもらえたとしてもワサビ入りチョコかなあ」
「ひでえ!」
 その後も「素直になれよ」「先生怒らないから正直に話しなさい」「カツ丼食うか?」等とあの手この手で聞き出そうとしたが遂に叶わなかった。どの切り口も寛司を自供させるには至らず、稚子から寛司に話しかけるというイベントも発生せず、どことなくしょんぼりした寛司を放課後までただ見守るだけのつまらない一日を過ごす羽目になった。
 ……はずだった。
 実際、寛司は部活中も覇気がなかった。いつもなら絶対に取っているパスを落とし、ベストポジションからのシュートを外した。柳井の「やる気あるのかお前は!」という怒声も普段は反省(したふりを)しておとなしく聞いているが、今日に限っては「すんません、何か調子悪いみたいっすね」等と適当に流していた。
 しかしことが起こったのは部活を終えた後だった。四人で連れ立って体育館を出、さあ帰ろうとしたところを呼び止められたのである。



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