11.


 二月に入って最初の学級活動の時間は、龍夜にとって大きな意味のある五十分間だった。
 始業のチャイムが鳴り、各々自席に着く。それでもなお出歩いている者もいる。そんなやつらを学級委員が席に座らせ、ようやく落ち着き始めた頃に新崎は教室へやってきた。
「せんせー遅刻ですよお」
「ごめんね、印刷に時間がかかっちゃった」
 寛司の茶々を軽く受け流して「全員いるよね?」と教室を見回す。手にしたプリント束を指先で数え、最前列に座る生徒に複数枚渡す。受け取った生徒は一枚だけ手元に残して、あとを後ろの席に回した。
 龍夜の元にもそれはやってきて。
「あ」
 言葉に詰まった。プリントの上部には『進路希望調査票』と書かれていた。
 プリントが全員の手に渡ったことを確認し、新崎は説明を始めた。曰く、ちゃんとした調査は三年になってから改めて行うが、現状の生徒たちの進路希望を知りたい。大学進学まで見据えているのか、将来どんな職に就きたいのか、簡単なアンケートだと言う。
 いったい何が簡単なのか! 来年の自分さえ想像出来ない龍夜に、五年先十年先のことまで考えろと言うのか!
 バスケは続けたい。それは本心だ。部活動は楽しいし思い通りに身体が動くのは気持ちがいい。試合で勝てたら尚更だ。しかしプロになりたいかと訊かれれば、そうではない。バスケで飯を食おうとは思わないし出来るとも思わない。フェイントをほめられたことはあるがそれはあくまで中学生レベルでの話であって、プロ選手の前で通用するものではないことくらい、十分に分かっている。
 ではそうでなければ、将来の自分はどうしているのだろう。考えても何も出てこない。自分の父親も含め多くの大人がそうであるように、大学や専門学校にでも行って、卒業したらどこかの会社に勤めるのだろう。ぼんやりとしているが、可能性としてはゼロとは言えない未来だ。しかし――進路調査票が訊いてきているのはこんな輪郭のない将来ではない。もっと具体性のあること、そして夢のある回答を求めているのだ。調査票が満足するような答えを、今の龍夜には用意することが出来ない。なぜならそんなことを考えたこともなかったから。
 頭を抱えている間にも新崎の説明は進む。提出期限は来週の月曜日、それまでにしっかりと考えておくように。新崎はそう締めくくって調査票を折り畳んだ。
「じゃあ進路のことは週末にでも考えてもらって、次の話に移りますよ」
 そう言うと新崎は教卓を芝原透に譲った。
 彼の話こそが今日の学級活動の本題だった。昨日から予定黒板にも書かれている。
 黒板の右端に『三年生を送る会』と縦書きすると、透はクラスメイトを振り返った。
「今年も三年生を送る会を行うことになりました。日付は三月五日です」黒板に『三月五日』と付け加え、「主催は生徒会役員の二年です。ですが二年生の役員は三人しかいません」
 昨年十月の生徒会役員選挙に立候補し、惜しくも落選した二年生たちの中には、庶務として生徒会活動を支えている者もいる。その内の一人が透だ。あとは確か、A組とD組にも一人ずついたはずである。
 彼らだけでは、三年生を送る会――略して三送会の企画、準備、開催全てを遂行するのは難しい。在校生全クラスに生徒会役員がいる訳ではないから、役員たちの話し合いで決まったことを他の生徒たちに伝える手段がない。それに、何をやるにしても、三人だけでは人手が足りない。だから一年と二年の各クラスから一人以上有志を募集し、三送会実行委員会を発足するのである。
 二年生が中心となる初めての学校行事が三送会だ。ぜひともやる気のある人と一緒に活動し、感動の中で三年生を送り出したい。そこで透は一度言葉を切り、クラスメイトたちの顔を順に見た。
「誰か、立候補はいますか?」
 透の言いたいことは十分に分かる。分かるのだが、学級会に沈黙は付き物だ。貴重な昼休みや放課後の時間を潰さなければならないような面倒くさい委員など、進んでやりたがる者はいない。必ずしも自分がその委員をやる必要はないのである。なら、自分以外の誰かがやってくれればいい。教室全体にそんな空気が漂い始める。
 しかし今日に限っては、無言の重さとは無縁だった。透の目の前で「しつもん、しつもーん」と声が上がったのである。見れば、教卓の目の前の席で寛司が手を挙げていた。
「三送会で何をやるかとか、そういうのはもう決まってんの?」
「その質問に対する答えはノーだね。生徒会の方で出してる案はいくつかあるけど、実際にそれをやるかは未定。正式に実行委員が決まったら、委員全員で話し合って具体的なことを決めてく予定だよ」
「っていうことは? ほとんど何にも決まってないってこと?」
「まあ……その通り、だけど」
 寛司の身も蓋もない言い方に透が肩をすくめる。顔に思いっきり『そんな言い方をしなくてもいいじゃないか』と書いてある。若干面倒そうに相手をしていた透だったが、「じゃあさ」と言う寛司に表情を変えた。
「こういうことやりたいって提案したら、それやれるってこと?」
「その可能性は高いよ!」透が身を乗り出した。「もちろん、それが実現可能かとか準備期間や……あんまり言いたくないけど予算の都合とかもあるし、ものによっては出来ないことがあるよ。でも、いい意見があったら出してもらいたいな」
「そっか! よっしゃ!」
 寛司は椅子を蹴って立ち上がった。その振動と音の大きさに驚いて後ろの席の葵がのけ反った。
「ちょっと双馬君! 危ないじゃん!」
 眉間に皺を寄せた葵には目もくれず、寛司が挙手をする。
「俺それ立候補するわ」
 そしてあろうことか、寛司は龍夜を振り返った。
「おい龍夜、お前もやれよな」
「うん……うん?」
 騒いでいたと思ったら、突然何を言い出すのだろうかこの男は!
 寛司はイベント事が好きだ。『2Eのお祭り男』を自称しているし、周りからもそう認識されている。だがこれは卒業していく三年生を送る晴れのイベントである。騒いで楽しむようなお祭りでは、決してない。
 それに、こう言っては透に申し訳ないが、正直面倒くさい。昨年の九月から伏和中に転入してきた龍夜は、三年生の知り合いがほとんどいない。龍夜がバスケ部に入ったのは三年の先輩たちが引退した後だったし、委員会の先輩と顔を合わせることはあっても特別親しくすることもない。誰か三年生の知り合い、と考えた時に、顔と名前がぱっと出てくるのは図書委員長の灰島瞳子くらいだ。
 知らない三年生を送る為に龍夜が尽力するのは、何か違う気がする。しかし――龍夜は頭を振った。
 寛司はだいたい強引だが、理不尽なことは言わない。寛司にしか理解出来ない超理論を持ち出してくることはあっても、何の理由なく人に何かを頼むということはない。それは彼との付き合いがたかだか四カ月ほどしかない龍夜でもよく知っている。とすると、在校歴の長い遥や嵐でなく龍夜を指名してきたことにも、きっと理由があるのだろう。ならば。
 龍夜も手を挙げる。
「分かった、俺も立候補」
 龍夜に断る理由はなかった。
 この挙手が龍夜にとって大きな出来事になると、この時はまだ知らなかった。



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