9.


「気を付けてくれよ」
「うん、ごめん」
「どこに消えたのかと思ったじゃないか」
「だからごめんって」
 龍夜が声を掛けられたのは、スプーンレースが終わって、寛司に平謝りしながら退場ゲートをくぐった時だった。
「龍兄!」
 よく知った声、そしてこの呼び方、そんなの一人しかいない。寛司に一言断り(「まだ説教が続くなら後で聞くから!」)応援席に戻る選手たちの波を掻き分けて、龍夜はトラック脇のロープで囲まれている一般観客エリアに踏み込んだ。
 確実に午前よりも観客が増えた。体育祭の花形、最も盛り上がる競技であるクラス対抗リレーがもうそろそろ始まろうとしているからだろう。これを観戦し、全体の勝敗を見届け、そのまま我が子と一緒に帰ろうとする保護者は少なくない。そんな話なんか事前に聞いていないが、高坂家の両親もそのつもりだろう。現に。
「来てたんだ、好里」
 こうして妹が観客エリアにいるのだから。
「いつからいたの」
「さっきだよ、龍兄何だか怒られてたね?」
 好里が指差したのは入場ゲート。本日最大の失態を見られていたらしい。うわあ最悪。
 若干の気まずさを感じながら辺りを見回す。好里が通う伏和小学校は、伏和中学校の道路を挟んで向かい側にある。いつもここまで徒歩で通学しているとはいえ、休みの日にわざわざひとりで兄の体育祭の観戦に来るとは思えない。やはり両親も一緒なのだ。しかし観客エリア内の目が届く範囲にその姿は見えない。
「ねえ、父さんか母さんか、一緒に来てるんだろ?」
「うん、三人でさっきまで買い物してて、帰る途中に寄ったの」
 なるほど息子の雄姿を見るのは買い物のついでということか。ちょっと納得がいかない。いいのだけれど、いいのだけれども。
「それで、お母さんたちは先生にごあいさつって言ってたよ」
 そう言われて本部テントを見てみれば確かに龍夜の両親の姿が。揃って誰かに頭を下げている。ここからだとフィールドにいる競技審判の体育委員の陰に隠れて見えないが、多分相手は新崎だ。簡単に挨拶をして、しかしそんなものを聞いていても好里はつまらないだろうから、観客エリアで競技観戦をさせていた。そんなところだろう。
「龍兄、この後は何に出るの?」
「クラス対抗リレーに出るよ、クラス全員でリレーするの」
「走るの何番目?」
「一番目と二十八番目」
「二回も走るの?」
「二回も走るの」
 二年のクラスで最も人数が多いのはA組で三十五人である。だから他のクラスも三十五人に延べ人数を調整する必要がある。三十四人しかいないE組ではその調整役に龍夜が抜擢されていた。てっきり寛司がやるものだと思っていた龍夜は驚いたが、寛司はアンカーと既に決まっているのだと言われればなるほど仕方ないとしか言えない。他のランナーがトラック半周ずつを走ってリレーするのに対し、アンカーは一周、二〇〇メートルを全力疾走するのだ。龍夜の足の速さが2E内でトップクラスなのは事実、そして転入生であるだけに、その実力は他のクラスの連中からあまり知られていない。「いいねえ秘密兵器みたいで」と寛司が面白がっていたのをよく覚えている。
「じゃあちゃんと走らなきゃ駄目じゃない」
「分かってる、ちゃんと走るよ」
「さっきみたいに怒られちゃ駄目だよ」
「うっ」
 腰に手を当てて見上げてくる三つ下の妹に言い返せない兄、十四歳。みっともない情けない。
「いい? クラスの人たちの足引っ張っちゃ駄目だからね?」
「生意気なこと言う奴だなお前は」
「頑張った龍兄の為に、晩御飯焼肉にしたんだから。頑張らない龍兄には食べさせてあげないんだから」
 ぱっと身を翻し、好里はこちらに向かってきていた両親の方へ駆けていった。ついて行ってもよかったが、今トラックで行われている三年男子の徒競走が終わったら一年クラス対抗リレーが始まる。そろそろ我がクラスの体育委員様がまた演説を始めたがっている頃だろう。聞いてやらなければ。
 母親と目が合ったので手を振る。そして応援席の方を指差すと、それだけでも理解していただけたようで、手を振り返してくれた。この鈍いとよく言われる自分の母親なのに勘がいい、とても助かる。
「……そうか焼肉か」
 応援席に戻りながらぽつりと呟く。
 頑張っておいて損はないだろう。

「さて、まずは現状を把握するところから始めよう」
 クラスメイトたちを集め、その中心に立った寛司は物々しい口調でそう切り出した。
「得点ボードを見てくれ」
 そう言われ、指を差されて、皆の視線が得点ボードに向けられる。脚立によじ登った得点係を務める生徒がパネルを引っ掛け直している。数分も待てば、最新の得点状況がパネルに表示された。
「見ての通り横並び、このあとのクラス対抗リレーを制したクラスが優勝する。つまりまだ優勝のチャンスはあるということだ!」
 言っていることは幼稚園児でも分かるような非常に簡単なことである。それをくどくどと暑苦しく語ることで周りの人間も乗せることが出来るのだから、言葉というものは面白い。うん、うん、と龍夜も大きく頷いた。
「寛司の言うとおり、狙える勝利なんだ。頑張って勝ちに行こう!」
 そう声を張り、クラスメイトを見回す。新参者だからと軽視する者はいない。龍夜の発言に「そうだそうだ」と相槌を入れてくれる。
「よーしじゃあ円陣だ、皆肩組め肩」
 2E応援席後方に人の輪が出来た。龍夜も、左は寛司と、右はいつの間にか隣にいた星魚と肩を組む。三十四人で円を作り、前屈みになる。何だ何だと2C応援席からやってきた広隆と目が合う。寛司と二人でにやにや顔を返しておいた。
「優勝するぞ!」
「おー!」
 寛司の掛け声を追うように全員の声がこだました。初秋らしい、わずかに冷たさを含む風が、龍夜たちの背中を押した。
 トラックでは、一年クラス対抗リレーのスタート合図、ピストル音が鳴っていた。
 身体を起こすとフィールド含めトラックの様子がよく見渡せた。応援席の人口密度がやたらと低いのである。入場ゲートに移動しなければならない二年生はともかく、まだ応援席にいるはずの三年生までもがいない。どこに行ったのかと思えば、各々トラック周囲の空いているスペースを陣取って後輩たちに怒声を浴びせているのである。多くは熱血系男子運動部、具体例を上げるとサッカー部や野球部のようだったが、中には女子も混ざっていた。「短距離選手だろ! 競り負けるな!」と叫んでいたから彼女たちは陸上部なのだろう。
「おお……すごいな」
「それは龍夜もだよ」
 独り言のつもりだったのに返事があった。声の主は遥だ。不思議そうな顔を見上げて「何が?」と問えば「さっきの」と返ってきた。
「寛司はともかく、普段結構飄々としてるお前があんなアツイこと言うから、ちょっとびっくりしたんだ」
「ああ、肉の為だからね」
「……はあ?」
「ああ、こっちの話」
「……はあ」
 これは晩御飯を賭けた龍夜自身との戦いなのだ、高坂家の事情なのだ。そう説明しても、遥はまだ何だか納得のいかないような顔をしている。両手を握り締め気合を入れる龍夜を見てもなお遥は首を傾げていたが、それは龍夜の視界には全く入らなかった。
 しばらくは入場ゲートの待機列に並んでおとなしく出番を待っていた二年生たちではあるが、ますます盛り上がるフィールド、そして外野に、落ち着かなくなってくる奴も増えてくる。その筆頭はもちろん寛司だ。じっとせずそわそわと身体を揺らし、人の頭と頭の間から何とかトラックを見ようとしている。隣で静かに体育座りをしている龍夜の肩に寛司の肩がぶつかる。
 そんな中、待機列を抜けてしまう者が現れた。
「あっ、こら!」
 点呼を取っていた2Aの担任、佐倉が叫ぶ。しかし抜け出した生徒は意に介さず、第五レーンのラインぎりぎりに立つ。背中を向けたままトラックを指差す。
「先生ほら、次うちの弟が走るんだよ!」
 おそらく佐倉は、「いいから早く戻りなさい」と言うつもりだったのだろう。しかし一度目を閉じ、短髪頭をがりがりと引っ掻き、次に目を開けた時には。
「アンカーが走り終わったらちゃんと列に戻りなさい」
 そう言っていた。
 後輩たちのレースの観戦を許可された二年生たちは各々観戦ポジションを確保すると、口々に目の前を走り去るランナーたちを応援し始めた。知っている後輩だから、友達や先輩の弟妹だから、そんなのは今だけは関係ない。自分と同じ色のはちまきを締めたランナーを応援する。
「頑張れ! 長島!」
 龍夜も声を張り上げた。ちょうど今バトンを受け取って走り出した一年E組の後輩。部活が同じ訳ではない。顔も名前も初めて見た。体育着のゼッケンを見て名前を知った。でも応援する。チームだから、同じ橙色だから。
 はちまきが、バトンが、学年の壁を越えて生徒たちをつないでいた。



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