10.


 そして本日最後のイベント、クラス対抗リレーが始まる。
 一年生はE組が優勝した。自分たちもそれに続きたい。2Eはそう考えているし、他のクラスの連中はここで流れを変えたいと思っているだろう。
『二年クラス対抗リレーです。選手は入場を始めてください』
 雑談はない。下級生の、上級生の、保護者たちの声援が大気を揺らす。
 第一走者は本部テント前から走り始める。入場ゲートをくぐってすぐに選手たちは二列に分かれ、奇数番目走者は本部テント前のスタートライン周辺に、偶数番目走者はフィールドを挟んで反対側のスタートライン周辺に集合した。
「よし、やってやろうぜ」
 第二走者の遥は龍夜と軽く拳をぶつけ合うと背中を向けた。第一走者の龍夜はスタートライン脇に立つ審判の元へ向かった。
 第二走者からはオープンレーンとなりフィールドとトラックの境ぎりぎりを走れるようになるが、第一走者だけはセパレートレーンと決まっている。そしてどのクラスがどのレーンを走るのか、それはくじ引きで決める。1から5までの数字が書かれた五本の割り箸を、審判を務める一年の体育委員が第一走者たちに見せた。そして数字の箇所を握って隠し、「一本ずつ引いてください」と差し出した。
 どのレーンを走るかで走りやすさが変わる。内側にいくほどカーブがきつくなるため身体が外に振られやすく走りにくい――リレーの練習をしていた時に陸上部の魚住圭哉がそう言っていた。何だか理屈を並べてくださっていたが要約すると『高坂の走り方なら絶対に外側のレーンが有利』だそうで、大きい数字の割り箸を引くことを今も期待されている。フィールドの中から、こちらが恥ずかしくなるくらいに真剣な眼差しで見つめてくださっている。
「じゃ、せーので引こう」
 黄色のはちまき、B組の第一走者が言うと、龍夜も、他のクラスの者も揃って割り箸の先を握った。
「せーの」
 審判の手を離れ龍夜の元に届いた割り箸には。
「おおっ……真ん中だ」
 3と書かれていた。
 外側のレーンの方が、当然半径は大きい。距離も長い。しかし第二走者は横並びで待っている為、第一走者のスタート位置により距離の補正がされる。第三レーンに入ると、補正された分前方に立つ二人の走者の姿が見えた。後ろにいる二人もレーンに入って準備をしていることだろう。左手人差し指と親指でバトンを包み込み、片膝と両手を地面につけた龍夜は、よーいの掛け声を待った。
(クラウチングスタート苦手なんだけどなあ)
 そんなことを考えながら肩の力を抜く。棒倒しの時に踏まれたところは思った通りもう痛くない。大丈夫だ。
 爪先と両手指先をスタートラインぎりぎりに置く。手の平からじわりと汗がにじむ。
「よーい」
 ピストルを構えた体育委員が叫んだ。落としていた腰を持ち上げる。両腕に体重をかける。重心を前に出す。
 深く息を吸って、耳をふさいで――。
 ――パン!
 破裂音と同時に、ぎりぎりのところで保っていたエネルギーを爆発させた。エネルギーは推進力に変わる。スニーカーが地面を押し付ける。地面がスニーカーを跳ね返す。前に、前に、龍夜の身体を押し出す。前に見えていたライバルが後ろに流れていく。
 先頭でカーブを曲がり切った龍夜はストレートゾーンでスピードを上げた。出来る限り後ろと離しておきたい。
「遥!」
 バトンゾーンのラインを越える。それを確認した遥は、右腕をこちらに突き出したまま走り出す。その手にバトンを握らせる。当面の役目を終えた自分は失速し、代わりにスピードに乗った遥の背中はあっという間に小さくなった。
 普通ならこれで役目を終え、応援に徹すればいい。しかし龍夜にはもう一度活躍の場が用意されている。今度は偶数列に潜り込み、二十八番目の走者の顔をする。
 どさりと座り込み息を整える龍夜に、二十六番目に走るはるかが「お疲れ様〜」と声を掛けてきた。返事をしようとして見上げると、しかし彼女の目は本部テント前を走る遥に向けられていた。
 二〇メートル用意されているバトンゾーンの中でパスが出来なければ失格となってしまう。そのゾーンの出口手前で愛子が待ち構えている。居並ぶ他クラスの第三走者の脇を遥がすり抜ける。そして誰よりも第四走者に近いところでパスが渡った。出口ぎりぎりでのパス、つまりこれはセーフだ。
 それまでダントツで先頭を走っていたE組だったが、ここでブレーキがかかった。第四走者へのバトンパスの時点で、二位を走っていたC組に追い付かれた。追い付かれた、しかしまだ一位。
「よし、抜かれなかった!」
 一番手、二番手で十分に後ろと差をつけておく。こうして作られた『貯金』を第三走者の為に使う。これが彼らの作戦だった。一人当たりたった一〇〇メートル。この短い距離の中で一度抜かれてしまうと、抜き返すのは難しい。前の走者の外側を回って追い抜くのが基本的なルールだ、横に、そして前に出るには、それだけ余計な走行距離が必要となる。ロスとなる。だから出来るだけ先頭を走る。足に自信のない者の為に他のメンバーが協力する。今日のオーダーは、それが自然と出来るように寛司とはるかが頭をひねって組んだものだった。
 クラス全員でベストが尽くせるように組まれたオーダーではある。しかし他のクラスだって何も考えていない訳ではない。抜かれることもある。そうしたら抜き返せばいい。正々堂々と戦えばいい。
 龍夜の目の前ではるかがコースに出た時、E組は三位まで転落していた。序盤で出遅れたD組とバトンを落としてしまったA組は残念ながらもう上位争いには食い込めないだろう。その下位争いにE組まで飲み込まれてはいけない。バトンゾーンの真ん中で圭哉から綺麗なパスを受け取ると、はるかはそのまま前を走るB組に迫った。並ぶ。少し前に出る。しかしあっという間にバトンゾーン。フィールドの向こう側では稚子がパスを受け取っている。
 B組の次の走者は速かった。すぐさま稚子を抜くと一気に差をつけた。稚子がここに到着するのは三番目になる。内側に二人分スペースを残し、バトンゾーンの入口で彼女を待った。
「藤真! 頑張れ!」
 叫ぶ。まずい。D組に追いつかれそう。そんなことはさせない。させたくない。もう一度彼女の名を叫ぶ。
 稚子の身体がバトンゾーンに入った。ぶつかりそうになりながらもバトンを握る。走り出す。B組の走者の背中を見つめる。追いついてやる……違う、抜いてやる!
 必死に足を動かす。スニーカーが地面を打ちつける音、自分の荒い息、心臓の音だけが耳の奥で響く。歓声は遠い。トラックの外側で皆が、先生方や先輩後輩たちが何か叫んでいるのは分かるのに。本部テントで実況放送だってしているのに。何だかよく聞こえない。
 コーナーの真ん中でB組に追いついた。抜ける。足を伸ばす。一歩一歩、少しでも前に着地する。コーナーが終わる。直線に差し掛かる。
「高坂君!」
 呼ばれたのが、はっきりと聞こえた。バトンゾーンで星魚が手を振っている。少しでも早く彼女にバトンを渡す。それが龍夜の役目であり、そこが龍夜のゴールである。
 手が差し出される。バトンを突き出す。
「白石!」
 左手からバトンの重みが消えた。その重みは星魚に渡った。柔らかなポニーテールが彼女の背中で揺れている。
 そのままフィールドに転がり込み、龍夜は大の字になって空を仰いだ。
 砂が汗ばんだ肌にはりついてくる。傾きかけた陽の光が目に突き刺さる。まぶしい。光を遮ろうと腕を持ち上げる。しかしそれをする必要はなかった。人影が二つ、龍夜に落ちた。
「いい走りだったな」
「遥……椎木も」
「うん、すっごくよかった」
 顔を覗き込んでくる二人の表情は笑顔、いい働きが出来たのだと自覚する。大きく息を吸い、吐いて、呼吸を整えてから上体を起こした。
 その後のレースは正にデッドヒートと呼べるものだった。トップを走っていたC組も飲み込んで、三つ巴の争いとなった。このままどのチームが優勝してもおかしくはない。接戦であるがゆえ、接触事故が起こることだって考えられる。三チームで転べば優勝の可能性はA組にもD組にも見えてくる。
 三十四番目の走者である嵐からアンカーの寛司へバトンが渡る。勝負はアンカーに委ねられることになったのだ。
 割れんばかりの歓声。自分の声が自分の耳に届かない。何て叫んでいたか、自分でもよく分からない。とにかく寛司が少しでも速く走り、少しでも早くゴールへ戻ってくることを祈った。
 第三コーナーで一人かわした。二位に浮上する。その前を追う。一位を追う。トップを狙う。後ろが追いついてくる。でも寛司は負けない。抜かれない。前を目指す。上を目指す。追いつく。並んだか。抜けるか――!
「寛司……っ!」
 ほぼ同着、少なくとも龍夜にはそう見えた。走り終わった寛司に駆け寄る。放送が耳に入る。
『B組が一位でゴールテープを切りました! おめでとうございます!』
 ごめんなぁ。そう絞り出す寛司の肩を、龍夜は何も言わずに抱き止めた。

 空の青さが褪せ、代わりに赤みが増してきた。西から降ってくる光がグラウンドを、掲揚台を、使った用具を忙しなく片付ける体育委員たちを照らしている。
 今年の体育祭はE組の総合優勝で幕を閉じた。閉会式では三年E組の男子学級委員が代表して校長から賞状を受け取った。国旗、市旗、校旗を降納し、校長が簡単に講評を述べると、あっさりと閉会式は終了した。テントや各種目で使った用具の片付けの為に体育委員と生徒会役員はグラウンドに残っているが、それ以外の生徒は椅子を担いで教室に引き上げた。簡単なホームルームをして、今日は下校となる。
 委員を除く全員が教室に戻り帰る支度を始めた頃、担任の新崎が教室に入ってきた。閉会式で3Eが受け取っていたものと同じ総合優勝の賞状、そしてクラス対抗リレー準優勝のポスターを持って、だ。
「総合優勝おめでとう、皆よく頑張ったよ」
 皆に見えるよう、両手に賞状を持った新崎が言う。リレーは惜しかった。勝てる勝負だった。皆がもうちょっとずつ頑張っていたら勝てたかもしれない。『皆で頑張る』、これは今後の2Eの課題だね。新崎はそう締めくくると、「じゃあこれ掲示しといて」と賞状を理花に渡した。
 今日は日曜日。日曜日に登校した代わりに、明日は代休となる。休みの日の過ごし方をしっかり考えるように。勉強もするように。火曜日提出の宿題を忘れないように。注意点をいくつか確認して下校の挨拶をする。
 体育祭の、長かった一日の、終わりを告げる挨拶だった。
 タオルだの水筒だのを背負い鞄に雑に突っ込み、ばたばたと教室を出ていこうとする龍夜に声を掛けたのは星魚だった。
「高坂君、もう帰る? 寛ちゃん戻ってくるの待つ?」
 生徒の大半はもう帰宅を始めているが、片付け組はまだ戻ってきていない。やっと仕事を終えて戻ってきた時に教室に誰もいなかったら彼らも寂しいだろう。それは分かるのだが。
「ごめん、俺、今日は早く帰らなきゃ」
 何せ妹を待たせているのである。二年クラス対抗リレーが終わった後、母親が応援席まで来た。両親は先に帰るが、好里は「小学校の遊具で遊んでるって言ってたから」一緒に連れて帰って来い、と言うのだ。同じく兄弟の応援に来ていたクラスメイトに会ったそうで、こっちの体育祭が終わるまで遊んで待っているつもりなのだとか。言われたからにはさっさと連れて帰らなければ。
「そっか、妹さんか」
「ごめん。じゃあ、お疲れ様」
「お疲れ様ー」
 星魚やまだ教室に残っていた友人たちに手を振るとまっすぐ生徒玄関を目指し、校門前の横断歩道を渡った。道路を挟んだすぐ正面が、小学校の正門である。転入生だし自分の母校ではないから何がどこにあるのかなんてろくに知らないが、先週の日曜日に開催された小学校の運動会には顔を出したので遊具場の場所くらいなら分かる。門をくぐってフェンス沿いに歩き、校舎の裏に回った。
「好里」
 遊具場の隅に並ぶ鉄棒に、好里はしがみついていた。
「友だちは?」
「お姉ちゃんが来て先に帰ったよ」
 両手で両手を払い、鉄錆を落とす。ついでにズボンも払っているから、途中で落ちたに違いない。
「じゃあひとりで何してたの」
「逆上がりの練習」
「あれ、出来なかったんだっけ」
「出来るよ、上手じゃないだけ」
「はいはい」
「あっ信じてないな? 本当だってば!」
「はいはい」もう一度繰り返して、背中を向けた。「早く帰るぞ」
 ゆっくりと陽が落ちていく。道路が、塀が、家が、妹の髪までもが赤く染まる。赤はまぶしくなり、影は色濃く、長くなる。龍夜は少しずつ伸びている妹の影を踏まないように歩いた。
 道路に落ちる電線の影の上で綱渡りをしていた好里が、「帰ったら焼肉だね」と言い出した。
「龍兄、頑張ってたね」
「そう見えたなら嬉しいですね」
「遠くから見てたからよく分かんなかったけどね」
「おい、それ本当に見てたのか?」
「ふふー」
 妙な笑い方をしたと思えば、今度はぱっと走り出す。
「先にうちに着いた方が、最初に肉を焼く権利をゲットだよ!」
「あっこら!」
 こっちはリレーで二〇〇メートル全力疾走をする前にも、二人三脚だとか大縄跳びだとか棒倒しだとか諸々の競技をこなしている。余力なんてもうないというのに、我が妹ながらなんとえげつない。いったい誰に似たのだ。
「こら、待てって!」
 妹を追って駆け出す。最後の最後に、まさか本当に、純粋に肉の為に走ることになるとは思わなかった。
「焼肉は頑張った俺の為じゃないのかよ……」
 疲れのたまった身体を何とか動かし好里を追う。温度の下がり始めた空気が龍夜を包む。その冷たさが、今の龍夜には気持ちよかった。
 鮮やかな赤。心地よい風。
 それは本格的な秋が近付いている証拠だった。



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