20.


 翌日、土曜日。家を出る直前に玄関先で確認した温度計は、龍夜の記憶に残っている限りでは、今年度最も低い気温を示していた。気温を表す水銀柱は、正午を過ぎた今でも朝とたいして変わらない高さである。昼間でこの気温なのだから夕方になればまた更に冷え込むかもしれない。母親にそう指摘され、龍夜はTシャツを余計に一枚セーターの下に着込み、いつも通学時に着ている黒いコートを羽織り、長めのマフラーを首に巻いた。
 腕時計に視線を落とせば、針は十四時の十五分前を指している。時間だ。
「行ってきます」
 今はリビングでドラマの再放送を見ている母親と妹にそう投げかけ、龍夜は玄関の戸を開けた。
 午前の部活動終了後、寛司は龍夜に「このあと二時に伏和駅な」と告げた。その約束の時間まであと十五分。エレベーターで下りながら、十五分間で歩かなければならない駅までの道のりを頭の中で確認する。
 住宅街の路地を抜け大通りに出れば、あとは道なりに進むだけで駅前に出られる。所要時間は十分といったところだろうか。運悪く全ての信号に引っかかるだとかご老人に道を聞かれるだとか倒れている妊婦に遭遇するだとかそういった類のアクシデントに見舞われなければ、ゆっくり歩いたとしても間に合うだろう。
(余裕、ヨユー)
 電子的で甲高いアナウンス音が鳴ると同時に開いたエレベーターの扉をすり抜けた龍夜は、一段と冷たい空気が漂うエレベーターホールを軽い足取りで突っ切った。
 さて、これからどうしようか――龍夜は考える。もちろん寛司とともに必要な小道具を買いに行く訳だが、何があればパーティーの場が盛り上がるのだろう。こういうのは祭りやイベントが好きな寛司の得意分野であるから彼に任せればいいとは思っている。しかし任せっぱなしというのは気が進まない。エンターテイメントの演出は得意か不得意かといえば後者にあたる龍夜である。それでも何か考えられないだろうか、閃かないだろうか。『面白いこと』について思考を巡らせながら青信号に変わった横断歩道を渡り、そういえば以前寛司のロッカーを漁ったことを思い出した。
 二年E組教室後方、黒のサインペンで『18』と書かれたシールが貼ってあるのが寛司のロッカーだ。辞書や過去に配られたプリントでいっぱいのこのロッカーを漁ることになったきっかけは社会の授業だった。その日の授業では必ず白地図を持参するようにと前々から言い渡されており、そのことを授業五分前に思い出した寛司は机や鞄の中をひっくり返した。鞄のポケットまで全部あらためたが結局見つからず、探すのを手伝おうと申し出た龍夜は「ロッカーの中を探してみてほしいんだけど」と頼まれたのである。
 開けてみれば、ほぼ使われていないのか綺麗なままの英和辞典だとか2E学級通信創刊号だとか、真新しいものと、逆に配布物としては消費期限が切れたものばかりが出てきた。そんなことをよく覚えているのは、プリントの間に表紙の折れた白地図を見つけて引っ張り出した時に、地図と一緒になぜか鼻眼鏡までが転がり出てきたからである。何なんだこれはと思いつつ更に探ってみると、『あんたが大将』というタスキや厚紙で作られた金メダルなど、いったい何に使用したのか見当がつかないようなものがいくつも発見された。
 理解を諦めた龍夜は、白地図とともにタスキとメダルを寛司に届けて「お前のロッカー面白いな」とコメントした。白地図の発見に「おー、ありがとう」と素直に礼を言った寛司だったが、タスキとメダルを見た途端うんざりといった表情を作る。彼曰く、どこで生まれたのか定かではないが『要らなくなったがらくたは双馬寛司のロッカーに入れておくべし』という謎の暗黙の了解が2Eのクラスメイト間にあるのだそうだ。寛司からすればひたすらに迷惑な話で、現にタスキはともかく、メダルについては誰が何に使ったものでいつからロッカーに放り込まれていたのかを知らないのだと言う。前向きに解釈するなら、こんながらくたでも寛司なら面白おかしく料理してくれるだろうと言う周りの期待があってのことだろう。それにしたって随分と酷い暗黙の了解ではある。が、自分の所持品以外の物が増えても気付かないくらいにロッカーの整理が出来ていない寛司も寛司だと、この話を聞いた龍夜は思ったものだった。
 ここで初めに戻る。『面白い』とは何か。正直この『記憶にないものが増えるロッカー』は理解に苦しむとは思いつつ、龍夜にとっては十分に面白い話である。だが、寛司の立場になって考えるととても面白いとは思えない。むしろいらいらしてたまらない。これを考慮すると、自分にとっての愉快や娯楽が他人の感情を逆撫ですることになる可能性は大いにある、ということを頭に置いて行動する必要があると言っていい。
 駅に向かう道すがら、ここまで考えて。
(……面倒くさっ)
 龍夜は内心そう呟いた。テレビに出ているようなお笑い芸人ならあれこれ考えながら芸をする必要があるのかもしれないが、所詮こちらは中学生のクラスメイト同士でささやかに催すクリスマスパーティーである。まあいいや。寛司に任せよう――駅に着く頃には、龍夜の考えはマンションを出た直後とは正反対のものに変わっていた。
 駅前のバスロータリーに差し掛かる。少しだけ歩を緩めて周囲を見回しても寛司は見つからない。まだ来ていないようだ。時間は現在十三時五十七分、約束の三分前。毎朝の登校もぎりぎりの奴だからすぐに現れるだろうと思い改札前の柱に寄りかかって待っていると、龍夜の腕時計の針が十四時ちょうどを指した時、待望の君は図ったかのように登場してくださった。
「時間ぴったりに俺参上!」
 たった数十分前に別れて駅前で再会した寛司は、部活中に着ていた白と黒の地味な学校指定ジャージとは打って変わって、鮮やかな赤のダウンジャンパーに身を包んでいた。龍夜はいつもと変わらない黒のコートだというのに、眩しい男である。何と言っていいか分からず、とりあえず「赤いな」と声を掛けると「目立っていいじゃん、待ち合わせには便利だろ」と返ってきた。確かにこの時期、道行く多くの人が黒や紺など暗い色の服を身にまとっている。黒い服の集団の中でなら、トマトのような赤はさぞ目立つだろう。しかし今この場は待ち合わせに困るほど混雑していない。今回の待ち合わせでは、赤はそこまで効果を発揮していない。
 雑談もほどほどに、二人は券売機の前へと移動した。券売機上部にある路線図で運賃を確認し、小銭を入れる。ボタンを押そうとすると脇から手が伸びてきて、龍夜が投入したのと同額の硬貨が追加され、続いて切符二枚まとめ買いのボタンが押された。
「びっくりしたじゃないか」
 二枚出てきた切符の内一枚を寛司に渡しながらわざとらしく眉間に皺を寄せると、「わりぃわりぃ」と謝る気があるのかないのか判断つかない笑い顔が返ってきた。悪意など微塵もないのであろう笑顔にそれ以上不満を表す気力を削がれてしまった龍夜は「まあいいけど」と言わざるを得ず、おとなしく寛司に続いて切符を自動改札に通し、来た電車に乗り込んだ。
 目的地には電車移動三十分足らずで到着した。学校近辺には畑もあるくらいだから伏和市は割と自然豊かな街に分類されるのだろうが、そこから三十分でビル建ち並ぶ街に移動出来るのだから何だか不思議な気分だ。龍夜が夏前まで住んでいたのは深空市といい、『市』と名乗れる程度には人口を抱えたところではあったが、電車に乗ったとしても三十分では田園風景から脱出出来ないような、俗に言う田舎であった。それを考えると伏和市は都会だなあと、日頃から感じているのだ。
 だというのに、電車を降りればこのビル街である。ただでさえ目を引く巨大看板に加え、クリスマスを意識した装飾によって駅前は色鮮やかだ。鮮やかなのは駅前だけでなく、駅舎自体も四階建てで各階へ複数路線が複雑に入っており、地下階まである。建物の大きさに比例して、行き交う人もまた多い。ここでこの表現は間違っているのかもしれないが――正に、『上には上がいる』。
「上には上が……」
 駅舎壁面に掲げられた大きなドラマポスターを、そして更にその上、屋上から覗くクリスマスツリーを見上げていると、寛司にコートの袖を引っ張られた。
「何してんだよ、行くぞ」
「え、ああ、うん」
 人の溢れる街に一歩踏み出して、龍夜はようやく寛司の赤いダウンジャンパーのありがたみを理解した。この雑踏の中で寛司までが多数派の黒を着ていたら、駅から隣のビルへ移動する間にはぐれてしまっていたかもしれない。伏和駅前では目立ったからといって何でもなかったが、不慣れな人混みを歩いている今、あの赤は非常に分かりやすい目印となっていた。
「ここだここだ」
 赤と緑の旗やリボンで飾られた歩行者用道路を通り抜けた寛司がひとり言のように呟き入っていったのは、テレビコマーシャルでよく知っている大型のホームセンターだった。深空市にはなかった店だから、テレビで見ていた割に初めて来店したことになる。ここがあのコマーシャルの――妙に感激しながら龍夜は寛司の後を追った。
 自動ドアが開いた瞬間、外国人歌手の有名なクリスマスソングが耳に入ってきた。BGMだけでなく、店内もクリスマス一色である。特に一階は季節商品を集めたフロアのようで、龍夜の身長よりも大きなクリスマスツリーからプレゼントに添えるメッセージカードまで、様々な品が学校の教室の三倍近くあるフロアいっぱいに並んでいた。
「うわあ、すげー」
 素直に感想を漏らす龍夜をよそに、寛司はまっすぐ店の奥へと向かってしまう。追いかけた先はエレベーター横、そこにはフロアガイドを見上げる寛司がいた。
 現在地は一階。そしてこの建物は、ガイドによれば七階建てであり、各階それぞれのテーマに合わせた商品が陳列されている。例えば二階は日曜大工に関する材料や道具、三階は文具などのオフィス用品、といった具合に。
「七階だな」
 寛司がそう言ってフロアガイドの一番上を指差す。七階、つまりパーティー用品売り場だ。
「あれ、クリスマス用品なら一階でいいんじゃないの?」
「パーティー用のおもちゃ買うなら七階だろ」
「なるほど」
 言われてみれば納得である。それならば、とエレベーターの上階行きボタンを押す。
 しばらく待つとエレベーターが到着した。扉が開くと同時に、定員ぎりぎりまで乗っていた買い物客たちが溢れるように降りてくる。本当に都会は人が多い。「さすがだなあ」と言うと、寛司に「意味分かんねーぞ」と言われてしまった。寛司相手に、何となく悔しい。
 エレベーターは各駅停車のように各階で止まり、その都度人々が乗り降りしていく。それを全て見届け、最上階まで上る。
 エレベーターを降りた二人の目に最初に飛び込んできたのは、真っ赤なサンタクロースの衣装だった。マネキンに着せられたその服は、このフロアの奥、パーティー用衣装コーナーに置いてあるらしい。サンタ服上下、帽子、髭の四点セットだとか。
「龍夜! こういうのがいいよ! お前これ着ろよ!」
 目を輝かせて言う寛司に、龍夜は一歩後ずさった。
「えっ嫌だよ何で俺なんだよ」
「クリスマスっぽさ出るじゃん! タスキなんかよりこっちのがいいって絶対」
 確かに『あんたが大将』ではクリスマス要素ゼロである。
 しかし! 今はタスキなんか関係ない!
「いやいやいやこういうの着るのは寛司の役目でしょ、宴会部長なんだから」
「違う違う、俺は2Eのお祭り男だから、宴会部長じゃないから」
「どっちでもいいよ!」
 どちらかというと、寛司が『お祭り男』と自称していることに驚きである。他者から勝手につけられた肩書きだと思い込んでいた。
 しかし! 今はこれも関係ない!
「とにかく! 俺は着ないぞそんなの!」
「何でだよーいいじゃないか服くらい」
「何でもくそもあるか」
 だいたいこういう衣装というのはいくらくらいするものなのだろうか。マネキンの襟首から覗く値札を引っ張ってみる。何も言わずに、寛司にも見せる。
「お、おお……」
 値札を見た寛司は、それ以上はしつこくサンタ服の着用を強要しなくなった。当然である、とても中学生の小遣いで買えるような値段ではなかったのだから。クリスマス会を催すにあたり、より重要度の高いケーキを買い控えた(結果、寛司の望まぬ手作りケーキを用意してもらうことになった)龍夜たちに、正直必須とは言い難いサンタ服を買えるはずがなかった。
 サンタ服など見なかったかのようにあっさりとマネキンの傍を離れた二人は、とりあえず店内をうろつくことにした。クリスマス会会場は木倉家、遥曰く「クリスマスツリーなら出してある」。だから二人が用意すべきものは、ツリー以外に必要だと考えられるものである。「それは見ながら考えようぜ」と言い出したのは寛司で、やはり彼も龍夜と同じく、ほぼ無計画に家を出てきたらしい。
 この階はパーティー用品売り場だがそれ以外にも、カードやボードなど大人数で楽しめるゲームやキャラクターグッズまで並べられている。キャラクターの中でも最も売り場面積が広く設けられているのは最近女子に人気の妖精のキャラクターだ。そういえば龍夜の妹も可愛いとか何とか言ってペンケースを買っていたし、購入客も多いのだろう。
 と思っていたら、寛司までもが妖精の前で足を止めた。
「どうした? 寛司」
「いや、別に……」
 別に、と言う割には真剣な目で妖精と見つめ合っているように見える。寛司にもそういった少女のような趣味があるのかと一瞬疑ったが、そういえば稚子が背負い鞄にこのキャラクターのぬいぐるみをぶら下げていることを思い出した。
 ……全く、分かりやすい。
「俺あっちの方見てるから」
「んん」
「気が済んだら来てよ」
「……ん」
 ボードゲーム売り場の方を指差しながら声を掛けたが返ってきたのはどうにも頼りない生返事。まあいい、困った時は真っ赤なダウンジャンパーを目印に探せばいいだけのことだ。
 龍夜は寛司の元を離れ、伏和駅へ向かう途中に考え途中で放棄したエンターテイメントの演出について、再び頭を悩ませ始めた。
(面白いって、何だろうな……)



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