19.


 テストが終わって一週間後の金曜日、帰りのホームルームの時間。嵐の席の周りに集まって雑談をしていると、隣の二年D組の教室から拍手が聞こえてきた。「やったー!」という声も聞こえる。
「何だろう?」
 遥が首を傾げるが、2Dに何かいい知らせがあったという噂は聞いていない。龍夜も「何だろうね?」と首を傾げ返す。
「まあそれよりもあれだ……あれ、何の話だったっけ?」
「部活の話。今日の活動は」
 嵐の台詞を引き継ぎ、「今日の活動は走り込み」と寛司が続けた。
「今日は体育館使えないからな、ショーサンだショーサン」
 伏和中の生徒たちは、学校の敷地外を回るランニングルートのことをショーサンと呼んでいる。初めて聞いた時は龍夜も何かと思ったが、言われるままに走ってみてようやく分かった。このルートは伏和中を中心に三角の形をしているのである。おそらく小三角、それを縮めてショーサンなのだろう。それならば中三角や大三角はあるのかと寛司に以前訊いてみたが、「あるらしいけど道知らないや」と言われてしまった。
 窓の外では葉が落ちた木の枝が風に大きく揺さぶられている。外を走るのはどう考えてもつらい、寒い。
「ねえ、体育館使わせてよ」
 駄目でもともと、今日の体育館利用権を握るバレーボール部員のはるかに申し出てみたが、やはり「駄目に決まってるだろ」とあっさり却下された。当然の返事だと分かっていてもがっかりしてしまう。溜め息をつきながら、龍夜は自分の席に戻った。
 机の中を確認し、漢字のテキストを引っ張り出す。月曜の国語の授業で漢字テストをすると、国語担当教師の坂内が言っていた。期末テストも終わったし来週には終業式だというのにまだ小テストがあるかと思いつつも出題範囲を確認していると、大量のプリントを抱えた新崎が教室に駆け込んできた。
 遅くなったことを詫びながら、新崎は図書通信十二月号を配布し始めた。右下隅の今月のコラムは2Eが担当したものである。書いたのは龍夜ではなく星魚だが文末には『文責:高坂・白石』と書かれており、何となく恥ずかしくてろくに目を通しもせず二つ折りにした。
 その後学年通信と市主催イベントの告知プリントを配った新崎は、教卓の前に立つと「大事な連絡があります」と言った。
「全てのテストが返却されたと思います。全教科の先生に確認しましたが、どの教科でも一学期の期末テストより平均点は上がっていました。それに、ほとんど全員、一学期よりもいい結果だったそうです」
 今日の午前中に、答案用紙は全て生徒たちの手元に返っていた。そういえば返却の際にどの教員も一学期よりもよく出来ていたと言っていたことを、龍夜は思い出した。
「テスト前に『赤点を取ってしまった人は補習』だなんて皆を脅しましたが、その目的は皆がちゃんと勉強をすること。そして皆が勉強したから、テストの結果が前回よりもよくなりました。このことを踏まえて先生たちは話し合いました――」
 時計の針が動く音が、やけに大きく聞こえた。
「皆、よく頑張りました。全員、補習はありません」
 わあっ、と、教室中から歓声が上がった。龍夜も机の下で拳に力を入れた。寛司なんかは立ち上がって両手を上げ「よっしゃあああ!」と叫び、新崎から「双馬君、座りなさい」と注意されたほどだった。なるほど、先ほど2Dにもたらされた『いい知らせ』とはこのことだったのか。今ならあの拍手にも頷ける。
 とにかく、今週頭に心配していた『クリスマス会が“補習お疲れ様会”になること』は回避出来たことになる。クリスマス会では気兼ねなく騒ぐことが出来そうだ。当日までに龍夜が準備しなければいけないのは小道具その他。買いに行かなきゃ……と思い、その次に頭に浮かんだのは、どこへ? という疑問だった。
 ここに引っ越してきてから四カ月弱、思い返してみれば学校と部活と親のおつかい以外で出掛けたことはほとんどなかった。平日は学校があるし休日も部活でだいたい登校しているし、学校も部活も休みの日には家で妹の遊び相手をしている。他に出掛けたといえば「お醤油切れちゃった、買ってきて」と言う母親に頼まれて近所のスーパーに行くか、或いは他校との練習試合で双馬母の運転する車に乗り他所の中学校に行った程度である。四カ月も生活しているくせに、この近辺の地理にびっくりするほど明るくない。どこに行けば何が売っているのかなんて、ろくに知らなかった。
 知らないものはいくら頭を捻ったところで何も出てこない。終礼ののち部室で学校指定のジャージに着替えながら、隣で同様に着替えている寛司にこのことを告げると、彼は「ああそうか!」と手を打った。
「そりゃそうだよな、すっかり忘れてた」
「俺も、何も考えてなかったや」
 小道具なんてたくさん買い込むようなものでもない。パーティー用のクラッカーを買う程度ならひとりでも十分なのではないかと思っていたが、どこで買うかを失念していたことに気付いた今、寛司がいてよかったと思う。
 ジャージのファスナーを上げながら部室を出ると、入れ違いで後輩が二人入ってきた。寛司が「そろそろ出るぞ、急げよー」と声を掛けると、「はい!」と短く返ってきた。
 部室は狭く、だべるのには向かない。用がなければさっさと退室するのが暗黙のルールである。そのルールに則って、先に着替え終えていた遥と嵐は部室の外で龍夜たちを待っていた。二人ともファスナーを一番上まで閉め肩をすくめている。傾き始めてはいるもののまだ沈まない太陽に向かって、まだ出ているのならもっとはたらいてくれてもいいのに、と思いつつ龍夜が「やっぱ寒いよな」と呟くと、二人ともうんうんと頷いた。
 伏和中運動部の部室棟はグラウンドの隅にある。その中のひとつ、左から三番目がバスケ部の部室だ。出て正面ではサッカー部と野球部が準備運動を、陸上部が軽いジョグを始めている。植え込みで隔たれた向こうからは、テニス部の掛け声とスマッシュ音が聞こえてくる。
「行こう」
「おう」
 昨日の内に部員たちには生徒玄関前集合と伝えてあった。龍夜たちもそこへ向かう。到着するとほとんどの部員が集まっており、確認すれば、この場にいないのは先ほどすれ違った二人の後輩だけだった。彼らもすぐに現れたので軽く準備運動をし、それから一列になって校門から出る。寒風に逆らいながら部員たちは走り出した。
 学校近くは住宅地だが、少し離れると緑が目立つようになる。今視界に入る民家もこの先まで走れば数が減り、その隙間には畑が現れ始める。小学生や近所の住人が行き交う中で寛司が先頭を走り、龍夜はその隣に並んだ。寛司がスピードを上げたのでそれを追い抜く。抜き返される。もう一度抜く。そこで一度後ろを振り返る。すぐ後ろでは同級生の坂原和久が走っていたはずだが、気付けば随分小さく見えるようになっている。
「やば……」
 寛司をつついて後ろを指差し、現状を気付かせる。寛司もしまったというような顔をする。二人はペースを落とし、ショーサンコースの一つ目の曲がり角で足を止めた。
「一週目はゆっくりって言ったのお前だろ」
「馬鹿みたいに飛ばすなよ」
 追いついてきた和久、それから広隆に非難され、「ごめん」と苦笑いを返すしかない。しかし返した時には二人とも既に走り去っており、その次に走ってきた後輩から不思議そうな顔をされてしまった。
 全員がここまで走ってきていたことを確認し、最後尾で集団から遅れつつあった後輩に声を掛け、その後ろについて今度は最後尾を走り始めた。
 ショーサンの一辺目は平坦な道だったが、角を曲がって二辺目に入ると上り坂に入る。決してきつい坂ではないがとにかく長い。家も道行く人ももう見当たらず、建物はあっても農具が入っている(と思われる)小屋くらいだ。平地では余裕を見せ、隣同士で話をしていた部員たちも、このあたりからは会話が途切れるようになる。
 徐々に身体が温まってきた。温かいどころか、うっすら汗をかいている。頬を叩いていた冷たい風も気にならなくなりつつある。しかし耳だけは冷たく、手で覆えばその温かさが気持ちいい。
 冷え切った耳は部員たちの息遣いと足音だけを拾い続けていたが、その中に「ねえ」という寛司の声を聞き取り、視線をまっすぐ前から隣に移した。
「何」
「明日の午前中、部活あるじゃん」
「うん」
「午後は暇? 何か予定ある?」
「ないよ」
 何というか、龍夜の方は息が切れ始めているというのに、よく喋る男である。自分に体力がないだけなのは認めてはいる。しかしそれにしても上り坂で息を切らさないなんて、寛司の体力がうらやましい。
「よしじゃあ部活終わったら一回帰って、飯食ったら買い出し行こう」
「……クリスマスの?」
「そうそう。せっかくだからちょっと遠出しようぜ」
「いいね」
 必要最低限のものを用意するだけなら駅前の商店街でも十分だの、でも面白いもの買おうと思ったらやっぱり遠出した方がいいだの、寛司はその後もしばらく何やら話していたが、全部に反応していてはこちらの息が続かない。適当に頷き返し、前を走る後輩に続いて角を曲がった。
 三辺目は下り坂、意識せずともスピードが上がる。坂の下、前を走る部員たちの姿が見える。影がはっきりしないのは、部室を出た時よりも更に傾いた太陽のせいだろう。これから学校前まで戻りもう一周走る間に陽は沈む。そうすれば今日はもう下校だ。
 道路脇の畑が途切れ、住宅街に戻ってくる。民家の前を走る。買い出しと簡単に言うが、寛司は何を買うつもりなのだろう。何を用意すれば面白いだろう。考えながら走る。
 三つ目の角に差し掛かる。角にある家は電飾やサンタクロースの人形で飾られており、そのイルミネーションはこの近くでも有名なのだと嵐が以前言っていた。クリスマスなんだなあ、と胸中で呟く。
 龍夜が角を曲がった時、角の家の電飾がぱっと点灯した。色とりどりの温かな電飾が、ショーサンのコースに華を添えた。



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