18.


 翌週、月曜日の朝。龍夜がいつも通りに登校すると、いつも遅刻ぎりぎりの寛司が珍しく早く登校していた。寛司の席の周りには遥と嵐が寄り集まり、何やら覗き込んでいる。
「皆揃って何見てんの? 子供が見ちゃいけない本?」
「馬鹿野郎、子供に夢を与える本だよ」
 どれどれと嵐の後ろから覗き込むと、そこにあるのはケーキ、ケーキ、ケーキ。子供たちの憧れ、豪華なクリスマスケーキのカタログが広げられている。
「あー本当に夢を与える本だ」
 一度自分の席に背負い鞄を置き、それから寛司の席に戻った龍夜は、横から手を伸ばして二、三ページめくった。オーソドックスなショートケーキ、こんがり焼き色のベイクドチーズケーキ、丸太の形のチョコレートケーキ、どれも美味しそうだ。裏表紙を見ればコンビニエンスストアのロゴが入っている。登校前に店頭のフリーペーパー用ラックから持ってきたものらしい。
「随分とやる気だねえ」
「やる気も何も、クリスマスにケーキはつきものだろ」
「俺はケーキよりチキン派なんだけど」
「チキン! それだ! それも必要だな!」
 寛司が机に入れた手は、再び出てきた時には国語のノートを掴んでいた。突っ込んで最初に触れたのがたまたま国語のノートだったのだろう。裏表紙から開いて最後の白紙ページを一枚ちぎり、嵐に向かってシャープペンを突き出した。
「え、何?」
「嵐、書記を命ずる。メモしたまえ、チキン」
「ああ、はい」
 指示通り、『チキン』の三文字がノートに並ぶ。他には何が必要だろうと考える寛司をつつき、「それで」と遥が口を開いた。
「ケーキ買うの?」
「そこから議論するのかよ」
 カタログを見ているくらいだから買うことを前提で話が進んでいるのかと思い込んでいたが、実はそうでもないらしい。驚く龍夜に、遥がケーキのカタログを指し示した。指の先にはホールケーキの価格が示されている。
「たかだか中学生のお遊びで買うにはちょっと高価過ぎるんじゃないかと思って」
「そうだね……」
 だいたいこういったクリスマスケーキというのはファミリー向けに販売されているのだと考えると、割り勘にするとしても、中学生たちの小遣いでは手を出しづらいのは当然かもしれない。
「うーんどうするか」
 椅子の背もたれに体重を預けて天井を見上げた寛司を。
「お困りのようですね?」
 上から覗き込んだのは稚子だった。
「うわっ」
 椅子の前足を浮かせ、後ろ足二本で取っていたバランスが崩れた。危うくひっくり返りそうになり、寛司の両脇にいた遥と龍夜が慌てて手を伸ばす。二人がかりで寛司の肩を掴んで支え、寛司自身でも机にしがみつくことで事無きを得たが、椅子だけは重力に逆らうことなく倒れて大きな音を立てた。
「何だよ藤真びっくりさせるなよ!」
「びっくりしたのはこっちだよ」
 倒れた椅子を立てながら、稚子がわずかにかすれた声を出す。稚子としては驚かすつもりなんてなかったのだろうが、それまで会話に加わっていなかった第三者である稚子から突然話しかけられ顔を覗き込まれるということは寛司にとっても想定外であり、彼が驚いてもおかしくはない。
「で、藤真、どうしたの」
 話を戻して、改めて嵐が訊ねると、稚子は「そうそうそれだよ」と机の上のカタログを取り上げた。
「クリスマスなんでしょ?」
「うん」
「ケーキが必要なんでしょ?」
「うん」
「じゃあ私が作るよ!」
 そんなありがたい稚子の申し出に。
「それはお断りだ!!」
 寛司が誰よりも先に大きな声で却下した。
「何でよ、いいじゃん、手作り」
「何ででも! 駄目ったら駄目!」
 女子の手作りである。女子から好意でケーキを手作りしてくれると言ってきてくれたのである。これを嫌がるなんて、稚子からの申し出を寛司が断るなんて、龍夜にはその理由が思いつかない。
「えー」
 何でだよ、と続けようとした龍夜の肩を、嵐が叩いた。
「いろいろあるんだよ」
「いろいろ?」
「そう、いろいろ」
 その『いろいろ』について聞きたいんだけど。そう突っ込む前に、朝一のチャイムが鳴ってしまった。これから朝の読書の時間である。この時間にクラスメイトたちに読書をさせるのが図書委員である龍夜の仕事である。自分の役目を放り出してこれ以上会話を続ける訳にはいかない。仕方がない、詳しいことは後で聞くことにして、龍夜は教卓前に立った。
「皆席に着いて、読書を始めてください」
 龍夜の呼びかけに応じたクラスメイトたちが自分の席に戻っていく。ただ椅子に座ってぼーっと宙を見つめている奴には本を出すよう促し、一時間目の数学の宿題をやっている奴にはそれをやめるよう注意し、全員が本を手にしたことを確認する。それから龍夜も席に戻り、以前母親から読むよう薦められたファンタジー小説の続編を背負い鞄から出した。しおりを挟んだページを開き文字を目で追ったが、なぜか内容が全く頭に入ってこなかった。
 週末を挟んだせいか、ほとんどの教員が先日のテストの採点を終えていた。この為この日はほとんどの授業で答案用紙が返却され、多くの生徒がテストの結果に一喜一憂していた。そこで気になってくるのはやはり、我らが男子バスケットボール部部長、双馬寛司のテスト結果である。彼が赤点で補講受講者となってしまうと、これから二週間近く、部長抜きでの活動を強いられることとなる。これでは後輩に示しがつかない。後輩から「えっ部長補講受けてるんですか、赤点だったんですか、頭悪いんですか」なんていう目で見られたら、それは寛司が気の毒というものである。
 寛司のテスト結果を聞こうにも、授業の合間の休み時間は移動教室だったり寛司が教科係の仕事で不在だったりと、なかなか話をする機会を作れなかった。龍夜が寛司を捉まえられたのは正午を過ぎてから、給食前の時間。席に着いて給食当番の配膳を待つ寛司の肩を叩き「どうよどうよ」と訊ねると、寛司は龍夜と目を合わせて腕を組んだ。
「それがさー、いい案が全然浮かばなくて」
「は?」
「『は?』って、藤真の手作りケーキをどうやって阻止するかって話だろ?」
「違うよ赤点の話だよ。寛司が赤点だったらクリスマスパーティーどころじゃないじゃん」
 赤点、と聞いて寛司は両手を叩いた。
「あーその話か! 聞いてくれよ!」
 笑顔でそう言いながら、机から四枚のプリントを出す。それらは全てテストの答案用紙、今日の午前の授業で返ってきた、数学、保健体育、英語、家庭科のものである。用紙右上隅の点数欄はくしゃくしゃに折りたたまれているが、解答欄のマルとバツの数から何となく点数を推測することは出来る。
「まーったくもう、嵐先生ってば頑張り過ぎてくれちゃって!」
 用紙を寛司から受け取り点数欄を開く。点数欄脇の赤字は解答用紙返却の際に言い渡されたテストの平均点である。寛司が書き込んだものだろう。
 四科目の点数を見比べ、龍夜は首を傾げる。保健体育と家庭科は平均点よりわずかに上だが、数学と英語は平均を下回っている。一週間前に遥が言っていた赤点(のラインだと思われる平均点の半分)はクリアしているようだが、嵐先生が頑張り『過ぎ』というのは、それこそ言い過ぎではないだろうか。
 ……まあ寛司本人は自慢気だし、いつもよりは好成績なのだろう。納得しよう、うん。頑張ったのだ寛司は。ああ、とても頑張った。
「あとは国語、理科、社会」
 龍夜が指折りながらまだ返却されていない科目を確認すると、その後を寛司が引き継いだ。
「それから音楽、美術、技術科だな」
「そっちは自信あるの?」
「何とかなってるんじゃないかな! 俺、頑張ったもん」
「頑張ったのは嵐じゃん」
「そう言うなよ、勉強したのは俺だ」
「ああ、そう」
 日頃の話を聞く限りでは、寛司が特別苦手意識をもっているのは数学と英語のようだ。それが既に返却されており平均点の半分以上をとっているのだから、テスト当日に実力が発揮出来ていたのならばそれほど憂うことはないだろう。
 それならば次はケーキの話だ。寛司はなぜあんなにも稚子のケーキを拒絶するのだろうか。話題に出そうとしたその瞬間、三角巾にマスク、エプロン姿の圭哉が二人の隣に現れた。
「早く給食持ってってよ、まだなのお前らだけだぞ」
 言われてみて教室内を見回せば、皆席に着き、いただきますの掛け声を待っている状態である。圭哉たち給食当番にごめんごめんと頭を下げ、皿に取り分けられた炊き込みご飯、味噌汁、揚げ物と牛乳をトレーに乗せていく。まだ余っていたご飯を「せっかくだから」と寛司が大盛りにし、再び圭哉から急かされる。
 二人が席に着いたところで、給食委員の清晴が声を張った。
「それじゃあ、手を合わせてください。いただきます」
「いただきます!」
 また理由を聞きそびれてしまった。聞こうとして聞けないだなんて、我ながら情けない。昼休みには気になることを全て聞き出してしまおう。龍夜はそう考えながら、ストローを牛乳パックに挿した。
(……和風出汁の炊き込みご飯には、間違いなく牛乳は合わない)
 以前から疑問に思っていた『なぜ給食には牛乳なのか』について隣の席の皐月と議論しながら箸を進める。主食がコッペパンや食パンの時ならともかく、米と牛乳は相性がよくない。龍夜が断言すると皐月もうんうんと頷いていたが、こちらの会話を聞いていたのか、龍夜の前の席に座る大輝が横槍を入れてきた。
「でもさ、同じ米でもこれがオムライスなら、飲み物が牛乳でも文句なくない?」
「あ、確かに」
 それは盲点だった。
「……でも給食でオムライスなんか出たことないけど」
「まあね。でも要するに俺が言いたいのは、牛乳が合わないのは米というより和食なんだよ」
「なるほどそれだ、それなら文句ない」
 だろ? と大輝は満足そうに笑みを浮かべているが、それなら基本的に和風味が中心の学校給食に、なぜ牛乳がつけられているのか。結局『なぜ給食には牛乳なのか』という疑問が解決しないまま時間が経ち、清晴の「ごちそうさまでした」を聞く羽目になった。
 食事を終え空になった食器を配膳用ワゴン上の籠に返却し、龍夜は教室を出ていった寛司の後を追ってトイレに入った。隣で用を足す寛司に「で? 何で藤真のケーキが嫌なの?」と切り出す。
「ここで食べ物の話とは、龍夜さん、衛生的じゃないね」
「ここで食べる訳じゃないからいいでしょ」
「その通りだ、今この場にケーキなんかないな」
 ファスナーを上げベルトを元通りに締め、手洗い場で手を濡らす。手をぶらぶらさせて乾かしながら「藤真って料理下手だっけ?」と更に訊ねると、寛司は首を横に振った。
「いや、結構上手いよ」
「そうだよねえ」
 訊いてから馬鹿な質問をしたと龍夜は思った。先月の調理実習の時、隣の班は効率よく作業が進んでいたことを思い出したのだ。その中心になっていたのが稚子、無駄なく手際よく調理を進めており、彼女と同じ班だったら楽だっただろうなあと思ったものだ。
「じゃあ何が不満なのさ」
「うーん、遊び心が過ぎるというか」
「遊び心?」
「そ。去年も俺たちクリスマス会やったんだけどさ、ありゃあ悪夢だった」
 その『悪夢』とやらを思い出したのか、寛司が眉を寄せた。
 龍夜が転入してきて三カ月余り。短い時間ではあるが、稚子が責任感の強い人間であることを理解するには十分だった。その責任感は、昨年の寛司主催のクリスマスイベントでも発揮されたのだそうだ。イベント事なのだから盛り上げねばなるまい、そう考えた稚子は当日人数分のカップケーキを用意した。それを美味しそうに食べる遥たちを見て、寛司もケーキに手を伸ばした。一口食べて、異常に気付いた。本来柔らかく甘いはずのケーキが寛司の口内を全力で刺激した。それもそのはず、稚子が用意したケーキの内のひとつには、たっぷりのワサビが仕込まれていたのだ――。
 話を聞いている最中は何とか堪えていたが、その努力は最後までもたなかった。我慢出来ずに龍夜は吹き出してしまい、寛司からは「笑うなよ!」と睨まれてしまった。
「ごめんごめん……それにしてもロシアンルーレットか、そりゃあ酷いな」
「だろだろ? そう思うだろ?」
「うん、甘い西洋風のケーキにワサビは相性がよくないよねえ」
「突っ込みどころはそこじゃねーよ!」
 突然大声を出す寛司。ちょうどすれ違った2Eの給食係の視線をひとり占めしてしまう。一瞬の前方不注意で、彼らの押すワゴンがふらつく。ワゴンの上では山のように重ねられた茶碗がぐらぐらと揺れていた。あのまま茶碗が倒れることなく無事配膳室へ返却出来ることを祈りながら、龍夜は先を歩く寛司を追った。
 とにかく、寛司が稚子特製ワサビ入りカップケーキにトラウマを抱えていることはよく分かった。しかし寛司が“今年も稚子が何かしら仕掛けを施したケーキを作ってくること”を危惧しているということは、他のクリスマス会参加者(ちゃんと聞いた訳ではないが何となく顔ぶれは想像出来た)からは、例のカップケーキは好評だったということである。大勢から好評であったのならば、第二弾が期待されるのも当然だ。
「別にいいじゃない、ワサビくらい」
「お前はあの恐怖を知らないからそう言えるんだ!」
 むくれた寛司が2E教室のドアを開けた。
 ドアの正面、教室廊下側最後列の席に座るのははるかである。そのはるかの席の周りには、普段から彼女と仲のいい稚子や星魚だけでなく、遥、嵐までが集まっている。何やら打ち合わせをしている。
「じゃあ藤真、よろしくね」
「任せてよ! 今年も頑張るからね」
 念を押すように言う嵐に、稚子が笑顔で頷いていた。考えるまでもない、打ち合わせの内容は、例のクリスマス会だ。
「えっえっ何!?」
 上ずった声を出しながら寛司が一同を見回す。
「何勝手に何か決めてんの!?」
「何って、ケーキ担当だけど」
「えっまさかまた藤真がケーキ作ってくんの!?」
「何か不満でも?」
「不満はないけど不安でいっぱいだよ!」
 その後しばらく寛司の説得というよりも嘆願が続いていたが(「いいか藤真、ケーキの用意はお前の義務じゃないぞ」「分かってるよそんなこと」)もちろん聞き入れられることはなく、嵐のメモには『ケーキ:藤真』と書き込まれた。一人では大変だろうと星魚がその補助を申し出、『ケーキヘルプ:白石』と付け加えられる。
「場所は遥ん家でいいの?」
「いいよ」
 という会話ののち『会場:木倉』の字が増える。聞けば、仲の良い木倉家の両親は二人でデート、女子高生の木倉姉は彼氏とデートで一日家を空けるらしい。家族には許可を取ったと遥本人は言っているし、ありがたくパーティー会場として使わせていただくことに決めた。
 残りは簡単だった。ファストフードレベルでいいなら、と嵐がチキン調達を立候補し、飲み物ははるかが用意することになった。他に用意するものといえば、会場装飾用の飾りやクラッカーなどの小道具くらいである。
「じゃあ双馬と高坂と、二人で相談して何かよさそうなの用意してきてよ」
 はるかの一存で二人の役割も決定し、あとはクリスマスに向けて各個人が準備を進めるのみとなった。強いて言うなら、誰も赤点に引っかからず、気分よく当日を迎えられることを望みたい。クリスマス会ではなく“補習お疲れ様会”になることだけは、避けたい。



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