17.


 出来るだけのことはやった。最善の対策をした、というのはあくまで自己評価だが、それでも決して悪くはないだろう。実際、昨日今日と八教科分の試験を受けてきたが、どれもそれなりに手応えを感じている。
 そして二学期末テスト二日目、五時間目の理科。これが最後の試験だ。
 解答用紙も問題用紙も全て配布され机の上で伏せられており、机の右端では愛用のシャープペンと消しゴムがスタンバイしている。教卓の前には2A担任の佐倉が立っており、教室全体を見回している。
 龍夜も教室全体を見渡せる席に座っている。テストの間だけは普段の座席順ではなく、出席番号順に座らされているからだ。伏和中の出席番号は氏名の五十音順で決められているが龍夜は二学期からの転入生である為、名字がカ行でも番号は最後の三十四番。いつも授業中座っている教室真ん中あたりの席ではなく廊下側最後列で、少し視線を上げると、稚子が背筋を伸ばして試験開始を待っているのが見えた。
 チャイムが鳴る。
「では、始めてください」
 佐倉の試験開始合図と同時に、教室中から紙のめくる音がした。龍夜も問題用紙を表に返す。解答用紙の一番上、氏名欄にクラスと出席番号、自分の名前を記入し、問題全体に目を通した。
 大問一は一問一答形式だ。今回の試験範囲である化学変化と原子・分子について、分子名に対応する化学式や、逆に化学式に対応する分子名を記入する。水はH2O、CO2は二酸化炭素。このあたりのニュースで日頃からよく聞くようなものは、先生もサービス問題のつもりで出しているのだろう。三問目にある硫化水素という分子は授業で初めて聞いたが、硫化水素を発生させる化学実験でにおいを嗅いでみて、意外とよく知っているものだと気付いた。硫化水素は、卵を腐らせたようなにおいだったのだ(実際卵を腐らせたことなんかないのだが、なぜか誰もが腐った卵のにおいだと言っていたし、このにおいは腐卵臭と言うのだと習った)。腐卵臭は理科室に留まらず廊下にまで流れ出て、休み時間に通りがかったバスケ部の後輩から「先輩超くさいです!」と言われてしまった――そんなことを思い出しながら解答欄にH2Sと書き込む。
 龍夜は理系科目がそんなに得意ではない。暗記が苦手で、数学なんかは公式を覚えるのにいちいち苦労してしまう。理科も専門の言葉が多く、それらを覚えるのはとても苦手だ。しかし実験をして手を動かす機会が多いせいか、どんなことをして何が起こったかはよく覚えていた。
 授業中に実験で取り扱った事項に関する問題が多く出されていたおかげか、解答欄が順調に埋まっていく。試験を作った二年の理科担当教師である源田が2E教室に入ってきたのは、龍夜が大問二の穴埋め問題を終え大問三へ移ろうとしていた時だった。厳ついのは名字の響きだけで、本人は縦にばかり長い、ひょろりとした男性教師だ。栄養が横方向の成長にはたらかなかったのか、厚手のセーターを着ているというのにとても身体が薄く見える。
 源田は佐倉に会釈するとチョークを手に取って黒板に向かい、左手に持った問題用紙を見ながら訂正箇所を書き出した。それはワープロの変換ミス程度の試験には大きく関係しないもので、他に印刷不鮮明で問題が読み取れない箇所もない。試験問題文に関する質問は誰からも挙がらず、源田は「残り時間も頑張ってくださいね」と言い残して教室から出ていった。
 再び人の声がなくなった教室で、ペン先が紙を滑る音がやけに大きく響く。改めて大問三を見る。酸化銀の還元に関する問題だ。これも実験をやったから覚えている。シャープペンを握り直し、解答用紙に化学反応式を書き込んだ。
 試験開始のチャイムが鳴ってきっかり五十分後、もう一度チャイムが校内に鳴り響く。機械的な鐘の音は九教科目の試験の終了の合図であり、二日間に渡る二学期末テストの終了の合図でもあった。
 張り詰めていた空気が緩み、クラスメイトたちの溜め息があちらこちらから漏れる。
「終わったーっ!」
 その声はほぼ真横から聞こえた。そちらに目を向ければ寛司が解答用紙を放り投げて両手を上げ、ガッツポーズしている。
「まだ終わってないぞ双馬、解答用紙を集めるまでが期末試験だ」
 佐倉に言われて手を下げた寛司は放り投げた解答用紙を拾い、前の席に座っている清晴の肩をつついて渡した。龍夜も解答用紙の氏名欄をもう一度確認してから前の席の吉崎香波に渡す。
 自分の知識を全て出し尽くした。もう何も出てこない。残るのは疲労感と、全てやり尽くした達成感。それが何となく気持ちいい。
 全員から回収した解答用紙の枚数を確認すると、佐倉はそれを輪ゴムで束ねて茶封筒に入れた。
「はい、皆お疲れ様。席を戻したら掃除の支度をするように」
 佐倉が教室から出ると同時に教室内のざわめきは一段と大きくなった。テストどうだった、最悪だった、もう駄目だ、俺意外と出来たぜ、自慢かこの野郎、裏切り者め! 等々。なるほど、手応えがあったなんて言おうものなら龍夜も裏切り者扱いされてしまうのか。それは面倒だ。筆記用具他私物を抱えると、龍夜は黙って自分の本来の席に戻った。
 この後は先ほど佐倉が言っていたように掃除の時間となる。その後はホームルーム、そして一週間振りの部活が待っている。寛司の真似をする訳ではないが龍夜も久々に思いっきり体を動かせるのは嬉しい。頭は疲れていても足取りは軽い。ペンケースやノート類を机の中に入れて机を教室の隅に寄せ、担当の掃除場所である会議室に向かった。
 西校舎の一階に会議室はある。普段は鍵がかかっており、開いている時は先生方や外部から来た客(おそらく市の職員だとか、その辺りだろうと思う)が何やら話し合っているから、掃除の時以外に入ったことはない。まあ、机と椅子が並んでいるだけなので面白味もないし、そんなに侵入する必要性を感じたこともない。
 会議室では既に、同じ会議室担当の松葉大輝と野崎可南子が掃除を始めていた。既に二人とも手に箒を持ち、床の埃を掃き集めている。
「あっ」
 負けた。
「悪いなー高坂、今日は雑巾よろしく」
「うわあ嫌だあ」
「ほらほら、文句言わないの」
「うわあ……」
 会議室掃除の担当は全部で五人、内訳は箒が二人、雑巾が三人だ。『誰がどちらをするかは毎日早い者勝ちで決めよう』と、最初の掃除の日にそう言いだしたのは可南子だったか。先に会議室に着いた者から順に箒か雑巾か好きなものを選ぶ、好きな方を選べなくても遅く来た本人が悪いのだから文句言いっこなし――と。
 ただ今、十二月である。学校の水道からは当然冷たい水しか出ない。それなのに進んで濡れ雑巾で掃除したがる者はおらず、要するに龍夜も箒がけをしたい方で、いつも早めに来るように心掛けていたのだが今日は二人に負けてしまった。
 渋々掃除用具入れから雑巾を出す。龍夜に少し遅れて、残りの会議室担当である稜介と香波が姿を現す。もう二枚雑巾を手に取って渡すと、二人とも龍夜同様「うわあ」と呟いていた。
 開け放した窓から窓へ、冬の冷たい風が通り抜ける。濡れた雑巾から、手から、風は熱を奪っていく。寒い。換気もそこそこに窓を閉め、掃き集めたごみをちりとりで回収し、机を拭いて掃除を終わらせた。普段から多くの人間が行き来する教室とは違いあまり人の出入りがない会議室はそこまで汚れることがない。簡単な掃除だがこれでも十分及第点だろう。
 窓から外を見ると、中庭では三年生が寒さに首をすくめながら掃き掃除をしていた。
「外は寒いよなあ」
「冬だからねえ」
 龍夜が吐き出し、可南子が受け答える。「寒いのは嫌だなあ」と更にぼやく龍夜の顔を覗き込んで「でもでも!」と言ったのは香波だ。校則に引っ掛かるか引っ掛からないかぎりぎりのラインまで明るく染めた茶髪が、彼女の肩の上で跳ねている。
「テストも終わったし、もうすぐ冬休みだし!」
「うん」
「クリスマスとか超楽しみじゃん!」
「ああ、クリスマスね」
 もう中学二年生である。サンタクロースの存在を信じている訳ではないが、母親はケーキや料理を用意してくれるし父親はプレゼントを用意してくれる。そういう意味では楽しみだ。香波の言う『楽しみ』は龍夜のそれとは異なるようで、可南子相手に余所の中学校に通っているとかいう彼氏の話をしていたが、残念ながら龍夜にはそういった相手がいない為『楽しみ』に共感が出来なかった。
 そういえば最近新しく発売になったゲームが面白いと嵐が言っていた。頼んだら買ってもらえるだろうか。そんなことを考えながら教室に戻ると。
「おい龍夜! 決めたぞ! クリスマス会を決行する!」
 教室掃除をしていたはずの二年E組のお祭り男、双馬寛司が満面の笑みで報告してきた。

 二学期も残り二週間足らず、冬休みに突入すれば会うこともほぼなくなる。それではつまらないので何かしら理由をつけて遊びたいというのが寛司の本音らしい。そしてその理由として大変都合がいいのがクリスマスである、と。
 確かに、十二月に入ってからというもの、テレビ番組もコマーシャルも近所の商店街もクリスマス一色となっている。浮足立つ世間の波に乗っかりたいのはよく分かる。が。
「え、俺たち嫌でも会うじゃん、冬休みも部活だろ?」
 龍夜の疑問も当然である。体育館の都合で女子バスケットボール部や男女バレーボール部との兼ね合いもある為どの程度時間がとれるかは未定だが、暮れと正月以外はほぼ登校日だと思っていいに違いないのだ。
 部活終了後の帰り道、クリスマス会の趣旨を説明してくださった寛司に意見すると、「そりゃあ、俺たちはな」と彼も頷いていた。
「でもな、俺たち以外は……ほら、星魚とか椎木とか」
「藤真とか?」
「……まあ、うんそう、会わなくなるだろ?」
「確かになあ」
 星魚は女子軟式テニス部、はるかは女子バレーボール部だ。どちらも精力的に活動している部活だから、時間が合えば冬休み中にも会う機会はあるかもしれない。しかし稚子の所属している美術部は、個人で制作する時間が長いことを考えると、あまり学校で集まって活動ということは少ないだろう。
「健気だねえ寛司君」
「どういうことだよ」
「まあまあそう深いこと考えずに」
「いや言えよ」
「いやいや」
「いやいやいやいや」
 とにかく、寛司の言いたいことは龍夜にもよく分かった。分かったし、面白いとも思う。
「いいんじゃない? 楽しそうじゃん」
 細かい問題点は抜きにして率直な感想を述べると、寛司はにかっと歯を見せて笑い、「そうだろそうだろ!」と右手の親指を立てた。細かくない問題点として第一に挙げられるのが寛司の補習の件だが、嬉しそうなところに水をさすのも申し訳ない。指摘はまた後日にしようと思った。
 今日は金曜日である。幸い土日に部活もない。この週末は何もかも忘れ、テストの疲れを取ることが最優先だ。



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