16.


 誰もいないグラウンドというのはなかなか見る機会がない。昼休みは元気を持て余した生徒たちがボールを蹴っているし、朝や放課後は運動部たちの活動の場となる。授業中でさえ大抵どこかのクラスが入れ替わりで授業に使っている。そう考えると、今窓の外に横たわる無人のグラウンドは『非日常』そのものだった。
 非日常――そう、出来れば受け入れたくないし避けたい現実。
「テストまであと一週間しかないのか」
 嵐の呟きに、龍夜は大きく溜め息をついた。
 時の流れは残酷で、一カ月ほど前に中間テストを終えたばかりだというのに、一週間後にはもう二学期末テストが控えていた。「ひとりで勉強してると何となくさぼっちゃうよね」という遥の発言と「お願いします勉強教えてください」という寛司の発言を合わせ、嵐が「勉強会をしよう」と言い出したのは昨日のこと。テスト前は部活動も停止となる為、勉強会は時間に余裕のある放課後、2E教室で催された。
 期末テストは英語数学国語理科社会の主要五教科に加え、音楽美術体育技術家庭科といった実技四教科の勉強も必要となる。しかし、家庭科の調理実習では不器用ながらもそこそこ美味しい料理を作ったし、美術の彫刻はこれが現代アートですと押し通した。技術点なら手応えがある。普通に授業を受けてきたのだから、筆記テストでもそう悪い点は取らないだろう。それでも全く勉強しないというのは不安でそちらにも勉強時間を割かなければならないことを考えると、メインである五教科をいかに効率よく勉強するかが好成績の鍵だ。
 しかし、現実はそううまくいかないものだ。テスト終了後にノートや教科書付属ワークを回収する教科がいくつかあり、提出の際には指定されたページの問題を解いておく必要がある。そして龍夜の手元にある理科のワークは、ページをめくってもめくっても解答欄が白紙、言い換えれば手付かず状態。社会は得意だからと早い内から手をつけており既に終わらせてあるが、苦手な数学に関しては試験範囲の確認をして付箋を貼っただけ。テストまでの残り日数を考えるとこれらのワークの試験範囲をこなすことで手一杯――いや、他の教科もあるのだから、ぎりぎり間に合うか間に合わないか微妙なところかもしれない。
 学級班活動の時のように四人で机を寄せ合い、あれが分からないこれが分からないと互いに話し合い教え合っていたが、テスト範囲と自分がこなしてきた勉強量を天秤にかけるとどうにも心配になる。テストまでに範囲全部勉強出来るかなあと頭を抱える龍夜の正面で、教えてくれと頭を下げてきた当の寛司は早くも諦めムードを醸し出していた。今も試験範囲のプリントで紙飛行機を折りながら「あーつまんねーなー」と呟いている。
「寛司やる気なさ過ぎ」
 寛司の左隣の席で頬杖をつき呆れたようにその様子を眺めていた嵐が、遂に口を挟んだ。いつもの四人の中どころか学年でも成績上位の嵐が好意で先生役を買って出ているのだから、この場にいる間くらいおとなしく勉強したらいいのに……というかするべき、と龍夜は思うのだが、寛司の集中力はすっかり途切れてしまっているらしい。紙飛行機を持つ寛司の手首がしなる。紙飛行機は彼の手を離れると、紙飛行機の割にはスピードを出して空を切り、窓ガラスにぶつかった。先端が潰れた紙飛行機は、まるで今の寛司のように力なく床に墜落した。
 寛司は机に伏せってしつこく「つまんねーなー」と繰り返していたが、突然顔を上げたかと思うと「おかしいよな!」と大声を上げた。
「だいたい俺部活しに学校来てるのに何で勉強してるんだ?」
「は?」
 龍夜と嵐、寛司の発言の意味が分からずに首を傾げる。
「俺の楽しみは部活、バスケ! バスケしたい! バスケがしたいです!」
「寛司うるさい」
「一日退屈な授業に耐えて放課後バスケでそのストレス発散させてるっていうのに、今部活ないじゃん、退屈な授業オンリーじゃん。俺ストレス溜めに学校来てる訳?」
「分かったからとにかく黙ってくれ」
 席を立ち、両手を振り回して熱弁を振るう寛司を、嵐と龍夜二人がかりで椅子に座らせ、シャープペンを握らせる。寛司の目の前でワークを開く。
「ええいお前ら! 俺に更なるストレスをかける気か!」
「黙って勉強しろ!」
「遥! お前黙ってないで何か言え!」
「えっ?」
 それまで龍夜の右隣で黙々と数学の問題を解いていた遥は、唐突に話を振られて驚いたような表情を見せた。数字を綴る手を止めてシャープペンを置く。「何か言え」と言われ、何を言おうかと腕を組む。
「お前もバスケを愛する男なら部活がしたくてたまらないだろ! この薄情者たちに何か言ってやれ!」
「えーと、それじゃあ」
「そうだ言ってやれ!」
 遥は数学の問題を解いたノートをめくって嵐に見せた。
「この問題の答えが何で2個もあるのか教えてほしいんだけど」
「ああ、それは……」
 背負い鞄の中から数学の教科書を出して該当の公式が載っているページを開いた嵐が遥に講義を始める。ちょうど似たような問題を解いていた龍夜もせっかくなので便乗し、嵐先生のありがたいお話に耳を傾ける。一気に勉強ムードになってしまった教室で、ひとりやる気のない寛司は心の底から叫んだ――真面目か! と。
 遥への講義が済んでなお勉強する気のなさそうな寛司に、龍夜はきっと寛司が忘れているであろう大事なことを伝えた。
「先週の金曜日に新崎先生が何て言ってたか覚えてる?」
「……何か言ってたっけ?」
「今度のテストで赤点取ったら部活停止、部活の時間に補習だって」
 新崎曰く。入学したてで初々しくまだ緊張感の残る一年生や最高学年で受験を控えやはり緊張感のある三年生とは違い、二年生とは『中だるみの学年』と呼ばれ、あらゆることに気を抜きがちである。日頃の生活然り、学業然り。二年生になってから成績が右肩下がりの生徒も少なくないようで、ここらで一発がつんとやってやるべきだ、と職員室でも言われてしまっているらしい。そこで決まったのが部活動停止と補習。今回の期末テストで九教科中一教科でも赤点を取ってしまった生徒は終業式の日まで部活動への参加が許されず、更に補習が課されることになったのだ。「本当はこんなことしたくないんだけどねえ」と新崎も言っていた通り、本来であれば生徒が自発的に勉強するのが望ましいのだが、そうも言ってはいられないのが職員室の現状なのだろう。
「えっそんなこと言ってたっけ!」
「言ってたよ……」
 体育の成績以外は下から数えた方が早い寛司こそこういった話をきちんと聞いておくべきなのだが、案の定大袈裟に驚いてくださった。昨日配布された学年便りにもそんなことが書いてあったように記憶しているがそれも読んでいないようだ。
「え、ねえ、赤点って何点?」
「そういえばそのボーダーラインの話は聞いてないね」
 嵐のその発言に、寛司は「何だよそれ俺何点取ればいいんだよ!」と頭を掻きむしって上体を大きくのけ反らせた。問題はそこじゃないのだが、指摘したところで今の寛司には何も響かないに違いない。
「赤点ってだいたい平均点の半分じゃない?」
 そう口を挟んだのは遥だ。今日の目標まで到達したのか数学のノートを閉じ、今度は英語の教科書を広げて新出単語をピックアップしている。
「えっそうなの」
「少なくともうちの姉ちゃんの高校はそうみたい」
 会ったことはないが、遥には二つ上の姉がいると話には聞いている。伏和中からそう遠くないところにある伏和市立高校に通っている、現役女子高生だ。
「平均点の半分って……テスト終わんないと赤点決まらないってこと?」
「で、テストが簡単だった場合は平均点が上がるから、赤点のボーダーラインも上がるね」
「意味分かんねえ! 超困る! 超困るよ!」
 叫ぶ寛司の肩を、嵐がぽんぽんと二回叩いた。
「前言撤回するよ、寛司」
「え?」
「『一週間しかない』んじゃない。『まだ一週間ある』んだ」
「……は?」
「一週間ある、一週間ちゃんと勉強すれば……」
 言いながら嵐は、寛司の机に教科書、ノート、ワーク、それ以外にも市販の問題集を積み上げる。鞄の中から机の中から、九教科分出てきたそれらは、寛司の前に本の壁を作る。龍夜の席からは、今寛司がどんな顔をしているのか窺い知ることは出来ない。
「みっちりやって平均点以上を取れば、赤点なんか気にならない」
「おいおい、無茶言うなよ」
「無茶じゃないよ。むしろ、勉強したくないけど部活だけやりたいっていう寛司の言い分の方が無茶苦茶だ」
 嵐の主張はもっともである。大いに賛成だ。視界の端では遥も大きく頷いている。
 賛成三票、多数決により嵐の主張が採用となる。
「分からないところは俺がフォローするから、とにかく寛司は本気で勉強しなよ」
「マジかー……」
 本気で勉強するのが本気で憂鬱なのだろう、寛司の溜め息混じりの呟きが聞こえてきた。続けて壁の向こうから現れた手が、壁の一番上に積まれていた国語の教科書を取る。ページをめくる音に重なって「こんなのやったっけなー」と聞こえてくるのだから先が思いやられるが、補習を回避する為にも頑張ってもらわなければ困る。
 幾度目の溜め息だっただろう、とにかくうんざりするほど溜め息を聞き、聞き流すというスキルを習得しかけていた時のこと。「いい加減腹くくりなよ」という嵐の台詞は寛司に向けられたものなのだろうが、龍夜も何となく顔を上げた。
「寛司、一学期の通知表もらった時のこと覚えてるでしょ?」
「うん」
「さんざんな成績を白石に見られて、大笑いされたー! って、めっちゃ怒ってたよね」
「うっ」
 なんと、四カ月前にはそんなことがあったのか。龍夜と話している時の星魚を考えるとそんなことをするような人には思えないが、寛司と星魚は幼馴染で腐れ縁の間柄だ、そういうこともあるのだろう。
「悔しかったなら見返してやれよ、勉強で」
「……うん」
 なるほど嵐先生、いいことを言う。借りを返すなら同じフィールドでなければ意味がない。成績を笑われたのなら次のテストで好成績を取ればいい。そして堂々と見せつけてやるのだ、自分はこれだけ成長したのだ! と。



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