15.


 遠くから聞こえてくるのは新体操部が流しているクラシック音楽、吹奏楽部の合奏。それを打ち消すようにテニス部の掛け声が聞こえてくる。陽が出ているにもかかわらず、学ランのボタンを全て留めてようやくちょうどいいと感じる気温。スポーツの秋という言葉がよく似合う、身体を動かすのにちょうどいい気候だ。
 それに対して龍夜は図書室のカウンターに座り、最近話題となっている児童書を開いていた。この本はもともとイギリスで人気を集めていたファンタジーで、最近発売された日本語訳もあっという間にベストセラーとなったのだそうだ。昼のワイドショーでもその人気ぶりは取り上げられ、番組を見た龍夜の母親もこれを買いに本屋へ走った。そして「あんたもたまには本読みなさい」と渡してきたのである。
 普通の少年が謎の手紙を受け取ったことをきっかけに冒険するファンタジー、というあらすじだけ見ればどこにでもありそうな平凡な話。それでも確かに面白いと感じるのだから不思議である。先が気になるところではあるが区切りのいいところでしおりを挟み、開いたまま重いハードカバー本をカウンターに置いた。
「貸出ですか?」
 目の前に立ったセーラー服の生徒に声を掛けると彼女はこくりと頷いた。本を受け取り、提示してもらった学生証に書かれた彼女の学年学級出席番号をパソコンの指示通りに入力する。それから本のバーコードを読み取って、二週間後の返却日を記入した名刺サイズの藁半紙と一緒に手渡した。
「貸出期限は二週間です、忘れずに返却してください」
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げて背を向けた彼女はまっすぐ出入り口へと向かった。開け放たれた窓から入ってきた夕方の冷たい風がカーテンを揺らす。風は机上の本のページをめくって紙とインクの匂いを含み、開かれた出入り口の扉から廊下へと出て行った。
「ちょっと風強いかな」
 窓際で外の様子を眺めていた星魚が龍夜を振り向いた。
「そうだね」
「窓閉めるね」
「半分くらいでいいよ」
 広い割に人のいない静かな図書室に、窓がサッシを軋ませる高い音がやたらと響く。外からの声は窓に遮られて小さくなり、図書室内の音は更に小さくなった。
 放課後、どの部でも活動に精を出している時間である。基本的に一、二年生はそちらに参加している為図書室利用者などないに等しいが、それでも図書室を開放しているのは、先ほどの彼女のように図書を借りたり勉強をしたりする三年生がいるからであった。部活の顧問には既に委員会活動ですと連絡してあるから、顔を出さずに怒られることもない。本棚の整頓は昼休みの内に済ませてしまった上に利用者もいない。することがない。暇な時をこれ幸いと、せっかくなので龍夜は読書の秋を満喫していた。
 しかし星魚はずっと窓の外、テニスコートを見ている。テニス部の彼女はきっと練習の様子が気になるのだろう。
「白石」
 普通に声を出したつもりが、室内の静かさに負けたのか無意識に声を抑えようとしてしまい、語尾が裏返る。こちらを見た星魚の目を見ることが出来ず反射的に目をそらし、そのあまりの不自然さを自覚して「ごめん」と呟いた。
「ごめん、その……部活行きたい?」
「え、どうして」
 首を横に振る星魚にもう一度「ごめん」と返す。
「だって、ずっと外見てるから」
「まあ、すぐそこで練習してると思うと気になっちゃうよ」
 今年五月から新しく入った一年生たちがエントリー出来る最初の公式戦が秋の新人戦である。これまでずっと先輩たちの練習の補佐や基礎練習のみだった一年生たちが、ようやく公の場で活躍出来るようになるのだ。星魚たち女子軟式テニス部も例外ではなく、来月に控えている試合に向けて、後輩たちが練習に精を出していた。
 龍夜は男子バスケットボール部で一番の新参、実質一年生より後輩である。以前まで通っていた中学校のチームで試合に出たことはもちろんあるが、伏和中バスケ部員としての初めての公式戦は一年生同様新人戦である。一年生たちが初めての試合に力を入れるのも分かるし、昨年それを経験しているがゆえにそれを気に掛ける二年生たちの気持ちも分かる。
「行っていいよ」
「でも」
「俺じゃなくて後輩たちのこと気にしてあげなよ、先輩なんだから」
「だけど、委員会は委員会だし」
「後は俺一人でも大丈夫だから」
 心の中で、多分、と付け加えたが口には出さない。
「……いいの?」
「うん」
 今日はもう利用者も来ないだろう。下校の時間になったらパソコンの電源を落として電気も消して施錠するだけだ。鍵は職員室に返却すればいい。心配することはない、大丈夫だ。多分。
「ありがとう!」
 ぱっと笑顔を浮かべると、星魚は軽い足取りで図書室の真ん中を突っ切った。廊下に姿を消し、顔だけ室内に突き出す。
「今度お礼するね!」
 そう言い残すと廊下を走っていったのか、足音はすぐに遠くなり聞こえなくなった。
 ぽつん、と。
 この広い空間に一人。
 この状況を作り出したのは自分だが、想像以上に寂しいものだ、と龍夜は思った。陽が落ちかけている。もうすぐ空が赤くなる。寒色と暖色のグラデーションは、今手元にある児童書の表紙と少し似ていた。
「あれーお兄さん一人ですか」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、ちょうど留衣が入ってきたところであった。衣装ではなく学校指定のジャージ姿、さすがに毎日女子用の衣装を着せられている訳ではないらしい。
「白石なら部活行ってもらったよ」
「知ってる。今すれ違った」
「あ……そう」
 留衣こそ部活はどうしたのだ。訊ねると、本日やるべき活動、つまり衣装制作は全て終わらせたので自主的に休憩をとっているのだと言う。
 暇でしょ、まあね、と他愛もないやりとりをしていると、ばたばたというやかましい足音が近付いてきていることに気付いた。誰であるか、何となく察しはつく。理由などない、直感で。
「よぉ龍夜! 働いてるか?」
「何だよー」
 想像通り現れたのは寛司。伏和中バスケ部のユニフォームの上に学校指定のジャージを羽織っている。白と黒の地味な指定ジャージから覗くユニフォームの明るいオレンジ色がまぶしかった。
「『何だよ』はこっちの台詞だって、せっかく心配して見に来てやったのに」
 基本的に騒々しいのは厳禁である図書室でも寛司は通常営業、大声で喋ってくださる。他に利用者はいないのだから今くらいは目を瞑ることにした。
 それにしてもユニフォームにジャージだなんて、これでは全身で『部活の最中に抜け出してきました』と言っているようなものだ。どうやら本当にただ抜け出してきたそうで、しかもその理由が「ちょっとトイレへ」なんていうお粗末なものだったからすぐに戻らなければならないらしい。
「もう一人が星魚だから、あいつに任せっきりにしてるんじゃないかと思って」
「酷いなあ、俺だって自分に割り当てられた仕事くらいは自分でやるよ」
「それはそれは失礼しました」
 おどけて肩を上下させる寛司の表情が面白くてつい吹き出す。つられて留衣も笑う。
 吹奏楽部のトランペットの音だけが甲高く響き、合奏が途切れる。一瞬、クラシック音楽もテニス部の歓声も消える。
 ほんのつかの間の静けさは、つかの間の騒々しさの終わりを告げた。
「高坂君にとって初めてのことばっかりだろうから気になってたけど」
「だから大丈夫だって」
「それじゃあ俺たち部活戻るわ」
「うん」
 また明日。右手を上げる。
 上げた右手を下ろした時には、図書室には元の静けさが戻っていた。遠くから聞こえるクラシック音楽。合奏。窓のすぐ外からは「ファイトー!」「反応遅いよ!」というテニス部員の声。窓からテニスコートを見下ろすと、ジャージに着替えてラケットを構えた星魚がコートの中を走っていた。
 秋の風がコートにいるテニス部員のジャージを煽り、龍夜の髪を乱した。
 コート脇に植えられた桜の枝にしがみついていた乾いた葉を、風たちが引きはがしていた。



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