12.


「……何してんの、お前」
 寛司の問いかけに、留衣は「こっちの台詞だよ! 何しに来たんだよ!」と怒鳴り返してきた。
「え、いや、アサヤン何で怒ってんの」
「怒ってないよ!」
「超怒ってるじゃん超怒鳴ってるじゃん」
「怒って! ない!」
 一歩こちらに踏み出してくる。床にまで届く淡いピンク色のドレスが揺れる。裾から覗いた爪先は学校指定の上履きでなく濃いピンク色の靴に覆われていた。
「あっ靴まで」
「随分と気合入った女装なんだな」
「うるさい!」
 うっかり火に油を注いでしまった。
 あーもう、だから嫌だって言ったのに! と、頭を抱えてその場にしゃがみ込む留衣をなだめ、よく分からないままではあるがとにかく謝り、何とか落ち着かせることに成功した。
 留衣のイライラの原因であるドレスだが、せっかくの舞台衣装だ。汚れたり皺が寄ったりしてはまずいだろう。そう思った龍夜は、留衣の横まで椅子を引いて座らせた。寛司がもうふたつ椅子を運んできたので、龍夜はそれに腰を下ろした。鞄を背負ったまま座ったせいで、やたらと姿勢のいい座り方になってしまった。
「で? 僕に何の用なの?」
 ばつが悪そうに口を尖らせた留衣はこちらを見ようとしない。浅く椅子に腰かけ足を投げ出し全体重を背もたれに預けた様は、女性らしい色やデザインのドレスとはかけ離れていた。
「先生から頼まれてきたんだよ。ほらこれ」
「うん?」
 寛司の差し出した原稿用紙を一瞥し、内容を確認するとすぐにそれが何であるか理解したようだった。
「ああこれか。わざわざありがとう」
 立ち上がった留衣は窓際の棚に置いてあった自分の背負い鞄を開けた。中から出したのは表紙に『2E図書委員会』と書かれたファイルである。それに原稿用紙を挟むと再び鞄にしまった。帰宅してから自宅のパソコンで、ワープロソフトで打ち直すのだそうだ。
「げ、家で委員会の仕事やるの?」
 有り得ないわぁと寛司が首を横に振る。確かに、いつも体育館や体育倉庫を片付けたり体育祭を仕切ったりしている体育委員会が自宅でやる――というより自宅で出来るような作業なんて、龍夜も一応考えてみたが特に思い付かなかった。自宅で委員会の作業など、寛司には無縁のことだろう。
「僕だって出来れば家でやりたくなんかなかったけど、明日の朝までに図書委員長に原稿のデータ渡さなきゃならないから」
 図書通信は完全に分業で作っている。各委員が分担して、新着図書のお知らせやコラム、推薦図書についてなどの記事を書き、そのデータを図書委員長がまとめて新聞の形にする。誰か一人が原稿を作り忘れると多くの人に迷惑がかかる。だから手を抜いたり提出を遅らせたりする訳にはいかないのだと留衣は言った。責任感に溢れた大変良いお言葉だと龍夜は思った。
「あれ? 締め切り明日の朝なの?」
 寛司が訊ねると、留衣は「うん」と頷いた。
「じゃあ出し遅れたって、悪いのはこんなぎりぎりに原稿寄越した先生じゃね?」
「あーそれは、僕が先生に原稿頼むのを忘れてたから……」
 たった十五秒前に感動した責任感が、急に薄らいで見えた。
「とにかく原稿はありがとう、用が済んだなら帰ってもらえるかな」
 まるで犬を追い払うかのように留衣は両手を振った。きっと彼は心の底から、龍夜と寛司がさっさとここから出ていくことを願っているに違いない。しかしそうは問屋が卸さない。留衣の頭のてっぺんから爪先までをにやにやと眺めている寛司が、おとなしく引き下がると思ったら大間違いである。
 改めて留衣の容姿を観察する。男子の中では背が低い方、というより、おそらく伏和中二年男子の中では一番小柄だと推測される。体格はどちらかというと女子に近く、童顔で目が大きい。声変わりもまだ。そしてこの衣装。
 そう、一見女子なのである。
「そんな面白い格好した奴を見逃すかっつーの」
「見逃してくれ! 帰ってくれ!」
「やだー留衣ちゃん怒った顔もかーわいい!」
「黙れよ寛ちゃん!」
 龍夜も男である、可愛いと言われていい気がしないのは何となく分かる。しかし、だったらなぜ、そんな彼がこんな衣装を着ているというのか。問題はそこだ。
「朝間君さ、何でそんな格好してるの」
 龍夜の問いに、留衣は「好きでやってるんじゃないよ」と頬を膨らませた。
 本日の演劇部の活動内容は衣装制作。部員たちが手分けして用意した衣装の材料を持ち寄り、次の舞台で必要となる衣装を作っていく。そこそこ形の整ってきたものについては実際に着ながら微調整をしていくのだが、このドレスを着る本人、2年D組の小和田望は本日欠席という連絡を受けた。着る人はいないし、留衣と演劇部部長以外の部員も今日は少し遅れると聞いていたし、今日は衣装制作を断念する、そういう選択肢もあった。しかし、やはり衣装は完成させたい。しばらく悩んでいた演劇部部長だったが、衣装と留衣を交互に見つめた末にあることに気が付いた。ちょうどこの場にいる留衣と望の衣装のサイズはほぼ一緒である、ということに。
「……で? 小和田さんの代わりにアサヤンがマネキンやってるって?」
「そういうことです」
「望んで着てるんじゃないんだ」
「当たり前でしょ!」
 着せた本人はというと、用意したあれがないこれがないと鞄の中を引っ掻き回していたが見つからなかったらしく、留衣をひとり取り残してそのままどこかへ行ってしまった。おそらく教室まで探しに行ったのだろう。まったく、いい迷惑である。この格好についてフォローしてくれる第三者がいなければ、留衣はただの女装少年、ただの変態である。そんな姿を、よりによってクラスメイトに見られるなんて、恥でしかない。
「安心しろ、男ってのはだいたい変態だ」
 寛司は真顔でそう言っていたが、ちっともフォローになっていないと龍夜は思った。
 上履きのゴム底が床を叩く音が近くなってきた。三人揃って顔を上げ、扉の方を向く。扉が開く。
「昨日買ったリボン教室に置きっぱなしだったよ」
 留衣にドレスを着せた本人、演劇部部長、2年B組の梅枝愛が戻ってきた。ストレートの黒髪が乱れ、息が荒いことから、教室からここまで急いで走ってきたことがうかがえる。呼吸を整えながら「ごめんごめん」と室内に入ってきた愛を、留衣はぶすっとした表情で何も言わずにただにらみつけた。
 これはまずい――龍夜に眠る野生の勘が警鐘を鳴らした。これは俗にいう泥沼の修羅場だ!
 同じくこの空気を感じ取ったのであろう寛司が椅子を蹴って立ち上がった。用なら済んでいる。ここにいる意味はない。龍夜も慌てて立ち上がった。
「じゃあ俺たち失礼します!」
 二人で声を揃えると視聴覚室を飛び出した。前を走る龍夜が外階段に足を掛ける頃、新体操部の流すクラシック音楽に合わせて、留衣の叫び声が聞こえてきた。
 人間誰でも、怒れば多少なりとも他人に怖いと感じさせる。留衣とて例外ではない。教室ではあまり大きな声を出すようなことはないが、少し認識を改めざるを得ない。とにかく今見たことは、留衣の為にもさっさと忘れるべきだろう。
 それよりも。
「委員会ねえ」
 留衣は、この原稿の打ち込みが最後の仕事だなあ、と言っていた。これを済ませれば、前期図書委員としての務めは終わりとなる。仕事はこれから新しく就任する後期図書委員へと引き継がれることとなる。
 後期委員が決定する、それはつまり、龍夜も何かしらの委員会活動に関わらなければならない時が近付いていることを意味していた。
 今日の生徒会役員選挙で後期生徒会役員が決定する。正に今行われている開票作業は今日中に終了し、明日には新役員が発表されるだろう。その新役員を中心に、来週には後期委員会委員長が決まる。そうしたら次は、クラス毎に各委員の構成メンバーを決めていく。転入生という免罪符で九月中は委員会などの仕事から逃れていた龍夜だったが、後期からはそういった活動にも参加していくこととなるのである。
「どの委員会が楽かな」
 ぼそりと呟いて寛司を振り向くと、「消極的だねえ」と返ってきた。
「どれも面倒に決まってるじゃん」
「……やっぱそうか」
 前期寛司が委員だった体育委員会や嵐が務めていた放送委員会、留衣の図書委員会の他に、この中学校にはいくつも委員会が存在する。どんな活動をしているのか、委員会の名前からは正直見当もつかないものもある。まずはその辺りを調べないとなあ、そう考えながら体育館の扉を開けた。
「お前たち! どこに行ってたんだ!」
 バスケットボールが床を跳ねる音よりも先に聞こえてきたのは、男子バスケットボール部顧問である柳井の怒鳴り声だった。心臓が萎縮するような感覚を表に出さないようにしながら、目だけで時計を探す。柳井の左手首に文字盤を見つける。
(いっけね……)
 部活開始の時間はとっくに過ぎていた。



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