11.


 最初は少し冷たいと感じていた体育館の床も、長い間体育座りを続けていると自分の体温で温まってきた。温まったからといって座り心地がよくなったかというとそんなことはなく、硬い床のせいでいやに尻が痛い。更に。
(……長いな……)
 本日の五時間目、学活。その内容は、生徒会選挙演説であった。
 伏和中学校では半期毎に学内組織の構成役員が変わる。四月から九月の前期と、十月から翌年三月の後期とで区切り、期が変わる度にメンバーを入れ替えるのである。体育祭が終わり十月が訪れ衣替えが済んだ今、正に再編成の時期。そこでこの選挙演説だ。学内の生徒全員が体育館に集められ、壇上で演説する生徒会立候補者の演説を聞いている。会の司会進行役は前期生徒会役員が務めており、これを終え選挙の投票を集計したら彼らの役員生活も終わりとなる。
 生徒会は、会長、男女副会長、男女書記の五人により構成される。龍夜の所属するクラス、二年E組からは芝原透が男子書記に立候補しており、先ほどクラスメイトの高橋慎太と萩稜介による応援演説が終わったところだった。
 書記は他に三年生が立候補している。冬に高校入試を控え、内申点を伸ばすなら後期生徒会か学級委員就任が最後となるだろう。試験の点数で争う一般入試ならともかく、推薦入試を狙っている受験生ならやはり内申点が欲しいのではないだろうか。立候補している三年生がどう受験するつもりなのかなんてもちろん知らないが、やはり相手は三年生だし、書記の座くらい譲ってあげればいいのに。尻の痛みに耐えつつ、龍夜はそんなことをそんなことを考えていた。
 女子書記に立候補した生徒の応援演説が終わるのとほぼ同時にチャイムが鳴った。五時間目終了の合図である。生徒会顧問の先生から投票に関する注意事項の連絡があった以外は特に何もなく、司会の前期生徒会役員が簡単な挨拶をして閉会となった。龍夜は立ち上がって大きく伸びをすると、両手の拳で自分の尻を軽く叩いた。
 しんどかったのは龍夜だけでなく寛司も同様だったようで、上半身をひねり首の後ろをさすっていた。
「一時間床に座るってつらいね、俺あんまり演説の内容頭に入らなかった」
「龍夜あれちゃんと聞いてたの? えらいなー」
「えっ」
「俺思いっきり寝てたわ」
「えっ」
 どうやら五時間目の間、五十分間ずっと下を向いて寝ていたらしく、首の後ろが伸びきってしまったらしい。そりゃあ痛くもなる訳だ。
 教室に戻ると、学級委員の萩稜介が投票用紙を一人一枚ずつ配っていた。自分の席に戻りボールペンを握る。投票用紙には五つの役職名が書かれ、その隣に自分の投票したい立候補者の名前を記入する欄が設けられていた。
 立候補者たちは何日も前から市長選前の政治家よろしく選挙活動を行っていたから何となく名前は耳に残っている。しかし聞いていただけでは、フルネームを空で、しかも漢字でなんて書けない。あの人何て名前だったかなあと考えたところで思い出せるはずもなく、素直に選挙演説の前に立候補者たちが配っていった選挙公約のプリントを見ながら用紙を埋めていると、寛司が隣の席から覗き込んできた。
「ねえねえ誰に投票する?」
「それ言っちゃったら無記名投票の意味ないじゃん」
「まあまあそう言わずに」
 伸びてくる寛司の手から投票用紙を取り上げる。
「選挙演説聞いてなかったんなら公約でも読みなよ」
 記入し終えた用紙を二つ折りにし、選挙公約を寛司に渡すと「え、ああ、ありがとう」と返ってきた。右手をひらひらと振ってそれに答え、席を立ち教卓に置かれた投票箱に入れた。
 担任の新崎が教室に入ってきた時には、クラスの大多数が投票を済ませていた。残りも新崎が投票を急かせばすぐに集まり、回収された票は帰りの挨拶の後、稜介と理花が生徒会室に届けに行った。
 終礼後、今日あった出来事を日直日誌に書き綴っている寛司を観察していると、「部活の時間ですよー」と遥が声を掛けてきた。遥の後ろに立っている嵐も両手にはバスケットシューズを片方ずつぶら提げている。部活の準備ばっちりだ。
「あれ、今日寛司日直だったっけ?」
「そうだよ。俺朝から働いてたっしょ」
 視線を日誌に落としたまま寛司が答える。答えたはいいが、一度に複数のことを処理出来ない彼は話していると文字が書けず、左手でがりがりと頭を掻いた。
「あー確かに、今朝来るの早かったっけ」
「早いどころか一番だったよ、最初に来て教室と廊下の窓開けたの俺だもん」
「いつも遅刻ぎりぎりなのによく早起き出来たねえ」
「失礼だな遥!」
 この調子で言い合っていては、いつまで経っても日誌が書き終わらない。日誌が書き終わらなければ部活にも行けない。龍夜は仲裁に入ると寛司にさっさと日誌を書くよう促した。
「遥と嵐は先に部活行っててよ」
「分かったけど、龍夜は?」
 首を傾げた嵐だったが、「寛司の日直の手伝いだから」と答えると納得したようで、うんうんと頷いていた。
 先日、龍夜は伏和中に転入してきてから初めて日直が回ってきた。それはいいのだが、一日の仕事の流れなんてよく分からない。日直に任されるのは日陰の仕事ばかり、注意して日直の動きを見ていてもどこに行って何をしているのか掴みきれなかった。掴めなかったからといって適当なことをする訳にもいかず、龍夜は寛司にヘルプを頼み仕事を教えてもらった。だから今日はそのお礼として、一日寛司の手伝いを買っていたのだ。
 先に体育館へ向かった二人に早く追いつく為にも、早く全てを済ませなければ。寛司が日誌を書いている間、龍夜は机を縦横まっすぐに整列させた。風で膨らむカーテンをまとめ、開け放してあった窓を全部閉めて鍵をかけた。
「書き終わった?」
「まあ、何とか」
 寛司は日誌を閉じるとシャープペンをペンケースにしまい、ペンケースは背負い鞄に放り込んだ。
 あとはこの日誌を新崎に渡すだけである。窓の施錠をもう一度確認し、荷物を全て抱え、教室の電気を消して一階の職員室に向かった。階段を下りていると、外からサッカー部の掛け声が聞こえてきた。
 新崎は職員室の自分の席で、他クラスの生徒のノートをチェックしていた。
「先生ー日誌出しに来たよー」
「はい、ご苦労様」
 日誌を受け取り今日のページをチェックする新崎の横で、寛司が机を覗き込む。龍夜も控えめに目を向ける。女子生徒のノートだろうか、丁寧な手書きの文字が並び、ところどころカラフルな図が入っている。これはもしかして。
「先生、ノートチェックあるの?」
「この前の授業で言ったでしょ、明後日の社会の時間に回収するからね」
「まじで!」
 やばい! 忘れてた! 職員室の真ん中で頭を抱える寛司。その声は職員室内にいる他の学年の先生方からも視線を集めてしまい、少し居心地が悪くなる。新崎も呆れたような顔をしているし、これは怒られるなあ、と頭の隅で考えていた龍夜だったが。
「もう中学校生活も半分過ぎたんだから敬語くらい覚えなさいね、双馬君」
「えっ」
 新崎の注意は想像の斜め上をいくものだった。
 目を通し終えた新崎が日直日誌の教員欄にサインをした。これで日直の仕事はすべて完了したことになる。仕事を完遂したことで満足感を得た二人は意気揚々と職員室を後にしようとした。しかし新崎の方はまだこちらに用があったようで、「待って待って」と呼び止められた。
「ねえこれ、代わりに渡してきてくれないかな」
 新崎から渡されたのは原稿用紙だった。
 新崎たち二年生担当の教師陣はこのあと会議があるらしい。自分で渡しに行くべきなのは分かっているが、当然会議に穴を開けられない。だから申し訳ないがこの原稿を担当の生徒に届けてくれ、新崎はそう言った。
 原稿は、毎月図書委員が発行している図書通信のものだった。図書通信では毎回、教員数人がお勧めの本を紹介するコーナーがある。新崎は来月分のそのコーナーを依頼されていたらしく、最近賞を取った作家のデビュー作について、二百字以内に収まるようにまとめられていた。
 渡す相手は2Eの図書委員。誰だったっけ? と寛司に尋ねると、男子はアサヤンだよ、と返ってきた。アサヤン、朝間留衣のことである。
「今は部活中、だよなあ」
「何部なの?」
「演劇。だから視聴覚室にいるんじゃねーかな」
 視聴覚室は、職員室のある南校舎から中庭を挟んで反対側、北校舎の三階にある。校舎と校舎の間にある外階段を上りながら見下ろしてみると、中庭の東半分では剣道部が素振りを、西半分では新体操部が柔軟体操をしているのが見えた。前屈をして両手のひらがぺたりと地面についている。龍夜は「新体操部の女子って身体柔らかいんだなー」と素直な感想を漏らしただけなのに、「お前エロイな」と言われてしまった。とりあえずチョップを寛司の頭に振り下ろしておいた。
 視聴覚室に行くと、演劇の衣装であろうロングドレスを身にまとったショートカットの生徒の姿があった。生徒は彼女のみ、他にはいない。
「すんませーん。朝間留衣いる?」
 こちらに背中を向けているドレスの彼女に声を掛けてみたが、彼女はこちらの応対をしようとせず、視聴覚室内にあるドアに飛びついた。なぜか隣の視聴覚準備室に逃げようとしている。そうはさせないとばかりに、寛司はずかずかと入り込んで彼女の肩を叩いた。
「ねえ」
 肩を震わせ、泣きそうな顔で振り向いた彼女――いや、彼。
 彼こそが朝間留衣、本人であった。



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