1.


 一カ月前よりも少し、本当に少しだけ、日差しが弱くなってきている気がする。とは言え、暑いことに変わりはない。太陽の直射日光に加えて校舎の壁や足元のアスファルトからの反射光も浴び、高坂龍夜はうめいていた。
「暑いー……マジ暑いー……」
 農家のおばさんよろしく(というのは偏見だろうか)頭からタオルを被っていても、熱は布地を突き抜けて刺さってくる。タオルで隠しきれていない首筋では、メラニン色素が活発に活動中だろう。女子のように肌に気を遣っている訳ではないが、日焼けして黒くなった自分というのも嫌だなあと思う。
「暑ぅ……」
 本日何度目かなんてもう忘れるほど口にした形容詞を更に呟き、グラウンド西側の“見学者席”と呼ばれるアスファルトのスペースに座り込んだ。周りに木が植えられているので日陰になっており、そこだけは涼しい空気が漂っている。冷やりとした地面は気持ちよかった。
 と。
「何やってんだよ龍夜!」
 タオルを剥ぎ取られ、パコンと何かが頭に直撃した。特別痛くはなかったが条件反射で頭を押さえて振り向くと、右手にリレー競技用バトン、左手に龍夜のタオルを持ってこちらを見下ろす双馬寛司が立っている。多分あのバトンで殴られたのだろう。だがそれは、正直どうでもいいことで。
「タオル返せよ」
 言うと顔面にバサリとタオルが、重ねて言葉が投げられた。
「練習するんだから。早く始めて早く終わらせようって、さっき言っただろ」
「そうだっけ」
「そうです、俺が言いました!」
 何となく記憶の隅に残っているような気もするので「あー」と言っておく。のろのろと立ち上がりかけて、一歩左に移動した。バシッという、先ほど龍夜が殴られた時よりもずっと景気のいい音が響く。寛司の頭がかくんと前に曲がり、つい一瞬前まで龍夜の頭があったところを通り抜けた。自分の反射神経も、なかなか捨てたものではなさそうだ。こうして、二次災害は防げている訳だし。
「痛ー……何す……」
「馬鹿! バカンジ!」
 寛司の台詞を遮って白石星魚が顔を出す。「そんなことくらいで殴るなんて、アンタ何考えてんの!」
「大丈夫だった?」と声を掛けてくる星魚に曖昧に答え、あの気持ちいいくらいの音を思い出した。おそらく、いや、絶対寛司の方が痛い音だったように感じるが、引っ叩いたのは女の子だしまぁ大丈夫だろうと勝手に完結させる。
「行こうか、高坂君」
 星魚に腕を引っ張られクラスメートたちが集まっている所へと歩き出す。途中興味を覚えて寛司を見れば、不満そうな顔で、でも何も言えずに星魚の後ろ姿を睨んでいた。

 九月最後の日曜日、つまり来週末。市内の他の中学と同様、この伏和中でも体育祭が行われる。今日あったのはその練習で、体育祭の花形、クラス対抗リレーで優勝する為だ。大半の生徒たちにしてみれば勝った負けただなんてどうでも良い話だが、担任が「優勝したらお菓子とか買ってきて、皆でお祝いしようかー」と言ってから、彼等二年E組のクラスメートたちは自然と練習するようになった。話の流れからして、担任が菓子を用意する訳で。新米教師が財布と相談しながら生活しなければならなくなった、というのはまた別の話だ。
「お前さ、足速いんだからもうちょっとやる気出せよ」
 下校中そう言われて、龍夜は隣を歩く寛司の顔を見た。今月転入してきたばかりの龍夜は当然知らなかったことだが、四月当初、クラスで各委員会役員を決める際、寛司は満場一致で体育委員に任命されたらしい。星魚から聞いた話だ。で、その体育委員という立場上(だけでもないが。彼はお祭騒ぎが好きだ)、練習の先頭に立っている訳である。
「俺別に体育会系じゃないし。寛司と違って」
「……何かソレ、微妙に失礼じゃないか?」
「そう? そんなつもりはなかった気がする」
「『気がする』って何だよ、『気がする』って……」
 初めて新しい教室に入り隣の席だったのが寛司。そして、前の中学でも入っていたバスケ部にやはり入部しようとして見学に行き、そこにいたのも寛司。割と人見知りする方の龍夜が会って間もない人とこんなにも話せているのは、寛司の性格だけでなく、そういったところにも理由があるのだろう。
「でも正しいでしょー、体育だけ成績5だもんね」
「あ、何かそれっぽいよね。寛司は見た目からそうっぽい」
「星魚も要らんこと言うな」
 そうは言ってみても聞き入れて貰えないのが寛司である。
 T字路で龍夜は右に、寛司と星魚は左に折れた。二人は世に言う幼馴染で、家もすぐ近所なのだそうだ。
「じゃあねー」
「うん、じゃあ」
「明日も練習あるからな」
「……うん、分かったよ」
 手を振る星魚に同じように返し、新しい自宅へ足を向ける。
 明日雨降らないかな、なんて本気で考えたりもした。

 最近新しく建てられたマンションが並んでいる。どれも似たような外見の為、引っ越してきたばかりの時には何度か迷った。初めて一人で出掛けた時は隣のマンションに入ってしまい、部屋の前で表札を見、そこで初めて間違えたことに気付いた。それから暫くは妹と一緒に出掛けることにしていた。妹はこういうことを覚えるのが早い、同じ親から生まれ、同じ環境で育ったはずなのに。
 新学期までに何とか覚えたマンションに入る。エントランス正面のエレベーターに乗り、三階のボタンを押した。最上階の七階じゃなくてよかったと思っている。大きなものは業者の人が運んでくれたとはいえ、やっぱりあの荷物たちを運ぶのは大変だったのだ。
 降りてすぐ左側の扉を開けた。
「ただいま、暑い」
「おかえり、冷凍庫にアイス入ってるよ」
 母ではなく妹の好里の声が返ってきた。玄関先に鞄を放り投げて言われた通りに冷凍庫を開ける。安価で人気なソーダ味のアイスキャンディーを咥えて鞄を蹴りながらクーラーの効いたリビングに行くと、好里は前に録画してあった映画(何なのかはよく知らない)を同じようにアイスをかじりながら観ていた。
「母さんは?」
「知らない。買い物」
 知ってるんじゃないか、とは思ったが余計なことは言わずに自分の部屋へと戻る。未だに片付け終わっていない段ボール箱の上に鞄を置いて、制服のままベッドに転がった。ドアを開けっ放しにしている為、冷たい空気が流れてくる。「ドアくらい閉めなよ」と言ってきた好里は、ここからは確認のしようがないがおそらく、こちらをちらりとも見ていないだろう。映画の音量も気になったので(ちょっと大き過ぎるんじゃないか)ドアを閉め、それからやっぱり、また横になる。
 アイスがとけ始めている。ベッドの上に垂らせば母は、多分怒らないが文句を言うに違いない。そんなものを聞く気もないのでもぞりと起き上がり、さっくり食べてしまう。意地汚いと思いつつ糖分を吸って甘くなった棒を舐めながらキッチンへ。軽く水で流してから棒をゴミ箱に捨て、ついでに自分の手も洗った。
 もう一度リビングに戻る。テレビの画面を見、やっぱり何の映画か分からずに自室のドアを開けた。
 着替えようとして服の入った箱を探した。が、部屋を見回してもあのでかでかと黒サインペンで書かれた『衣類』の字が見つからない。邪魔だという理由で隅に寄せたり真ん中に置いたり、部屋の中でころころと場所を変えていたが、それで箱自体がなくなるはずがない……というより、そんなことがあったら困る。どこに行ったんだろうと考えかけて、思い出したように鞄を持ち上げた。
「あった」
 『衣類』の箱、発見。
 片付けをしようとは思っても、今すぐではなく今週末にでも、となってしまうのが、部屋が片付かない最大の原因である。



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