0.


 二階南側に面している、日当たりも風通しも申し分ない部屋。強いて不満点を挙げるとすれば、玄関から一番遠いせいで、重い物を外へ運び出すのがなかなかつらいということだろうか。
 その部屋から既に二つ、今抱えているものを含めば三つの段ボール箱を運び出した。が、それでもまだ二つ残っている。妹に頼まれた分も含めばもう六つ。力仕事は得意じゃないと言ったのに、妹から、更に母からも「男でしょ?」と言われてしまい、結局運ばざるを得なくなってしまったのだ。箱の次は机だとか棚だとか、箱以上に面倒なものが待っている。もうすぐ親戚の伯父、伯母たちが手伝いに来るらしいが、気が重いことに変わりはなかった。
 照り付ける八月の太陽光のおかげで暑いし、さっさとこの段ボール箱たちを運んでしまわなければ作業は進まない。箱を家の前に停まっているトラックの荷台へ押し込み、熱気から逃げるように自室へ戻って勉強机の前に立った。
 机の上に並んでいたり引き出しに詰まっていたりしたものは、もう段ボール箱へと移してある。空っぽの机にぽつんと置かれている缶――多分紅茶の缶だ、難しそうな英単語が並ぶ中に“TEA”と書いてあるのを見つけたから――を手に取って蓋を開けると甘い匂いがした。昨日の夕方、友人が届けに来てくれたものだ。
 彼女の所属する軟式テニス部は団体戦で地区予選二位、そして県大会でも勝ち進んでいた。確か、今日も試合だと言っていたような気がする。なのにわざわざクッキーを焼いてくれて。自分の引っ越しのことなんかよりも彼女の試合の方がずっと大切だろうにとは思うが、それも彼女の性格だ。
 一枚咥えて、四つ目の箱を抱え上げる。誰か手伝いを呼びたいなぁと考えて最初に浮かんだ友人のことを思い出し、やめた。彼の父親はもともと身体が丈夫な人ではないと知っていたが、先週から体調を崩して入院しているらしい。
 皆忙しそうだなぁとは思うが、もしかしたら、一番忙しいのは自分なのかもしれない。他人事のように考え、カーテンを取り払った窓から外を見た。見覚えの有る乗用車が、家のあいている駐車場に入ってきている。やっとお手伝いさん――親戚が来た。
 一階、多分リビングから、父の呼ぶ声が聞こえた。クッキーを飲み込み「何ー?」と答える。
「早くそっち終わらせて、こっちを手伝え」
「分かったー」
 五つ目の箱には『衣類』と書かれている。壊れ物が入っていないのならまぁ別にいいやと思い、ぼこぼこと蹴りながら階段へと向かった。

 父親の転勤による引っ越し。有りがちな小さな事件で、子供側としては大きな事件。それをきっかけにして見つけた新たな友人、そして新たな自分。何も変わっていないようで、確実に変わっている何か。
 見えない繋がり。
 忘れていたもの。
 もしかしたら見えていなかったのは自分だけで、自分が忘れていただけで、全てはこうなるように仕組まれていたのかもしれない。本当のことは誰も知らないし、知ることは出来ない。ただ言えるのはひとつだけ。

ここにあるのが、全てなんだ。



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