1.


 ぎらぎらと照りつける太陽の光はカーテンにより遮られている。代わりに室内は蛍光灯の明かりで満たされており、エアコン様様のおかげで非常に涼しい。肌を焦がす強い日光も身体が融けてしまいそうな熱もここにはない、ここにあるのは肌に優しい人工の光と涼やかな空気。今が八月ということをうっかり忘れてしまいそうなくらいに快適だが、じわじわとやかましい蝉の鳴き声がそれを許してはくれなかった。
 八月十日、世間はお盆直前。多くの人間は夏期休暇を迎え、実家に帰ったり旅行をしたり、プライベートの時間を満喫しているのだろう。
 ところが自分はどうだ。どうして解答欄が並ぶ上質紙を前にシャープペンシルを握っている? どうして頭を抱えている?
(あーくそっ、これが終わったら夏休み……これが終わったら夏休み!)
 芳澤悠は心の中で繰り返しそう呟き、まるで苦痛を我慢する為の呪文のように自分自身に言い聞かせることで、ここまで八十五分間耐えてきていた。
(あと五分我慢すれば夏休みなんだ!)
 悠をはじめとする梢葉大学の学生たちは、七月の終わりから前期の授業の総まとめとなる期末テストを受けていた。二週間設けられたテスト期間中に、自分が受講している講義の数だけ試験を受ける。中にはテストがなくレポートを提出することで単位認定をしてくれる講義もあるが、必修など大多数はテストにより成績をつける。今彼らが受けているのは語学必修、英語だ。テスト期間最終日の最終コマ。この試験が終わることで、梢大生全員がテストを受験し終えるのだ。
 試験時間前にテキストを見て無理矢理頭に詰め込んだ英単語を解答用紙の空欄に書き込んでいく。問題なんか読んでももう頭に入らないし、どうせあと五分だ、読む時間もない。汚い殴り書きだが何も書かずに提出するよりはいいだろう。適当に書いて、それで当たっていたなら儲けもんだ!
 最後の空欄にピリオドを打つと同時にチャイムが鳴った。
「はい、やめ。では解答用紙を集めます」
 教壇に立つ教授の声が響く。それに反応して動いたのは教授のゼミに所属している学生たちだろう。悠たち経済学部生の英語を担当しているのは、確かこの大学の文学部の教授だったはず。だからあの学生たちは文学部の先輩に違いない。試験開始前、教授と一緒に入ってきた彼らを見て、悠の隣に座っている星野大祐がそんなことを言っていた。あれももう九十分も前の話になる。
 机の間を練り歩く先輩に解答用紙を渡し、悠は大きく伸びをした。「終わった!」と叫んで立ち上がると、「解答用紙を全て回収し終えるまでがテスト時間だ、まだ私語は慎め」と怒られてしまった。
 全員分の用紙を回収した教授はその枚数を数え、試験を受けた学生の人数と照らし合わせた。一致したのか、用紙全てをワニ口クリップで止める。
「それではこれで試験終了です、お疲れ様でした」
 教授の口からそう告げられ、悠は大きくガッツポーズした。
「今度こそ終わった!」
「おう、お疲れさん」
 前の席に座っていた笹川啓一が、椅子の背もたれに腕をかけて振り返った。いやにニヤニヤしている。「何だよ」と尋ねれば「別にぃ」と返ってきた。
「ただお前、学習せえへんなあと思って。一昨日も解答用紙集めてる時に大声出して怒られたやんか」
「う、うるさいな」
「まあまあ」悠と啓一の間に穣誠人が割り込む。「とにかく終わったんだからいいじゃないか、帰ろうよ」
「せやな」
 床に転がしてあったトートバッグにペンケース、問題用紙を放り込む。気付いた時には一人でさっさと教室を出ていってしまっていた大祐を追う。共通講義棟の出入り口で追いつき、四人横並びで歩く。西門から一歩踏み出し大学敷地の外に出たところで、悠は両腕を空に向かって突き上げた。
「夏休みだ!」

 梢葉大学の西門を出て細い道路を挟んだ向かい側に、三階建ての建物がある。梢葉大学付属学生寮だ。誠人、啓一、大祐、そして悠は、今年の春から梢大経済学部に通う同級生であり、この寮で共同生活を送っているルームメイトであった。
 彼ら一年次生にとっては、今回が大学に入学して初めての試験だった。寮の先輩からは「高校の中間テストや期末テストなんかと違って受からせる為ではなく落とす為の試験だ」と聞かされており、試験前はそれはもう焦ったものだった。
 というのも、成績不振の場合は寮則により、学生寮を退寮となってしまうのである。
 学生寮は実家が遠方にある学生が勉学に不自由しないようにと大学側が建てたものだ。しかし学生はたくさんいるし、さすがに全ての学生の生活補助は出来ない。だから補助を受ける者(つまり寮生)はその条件として、せめていい成績を残せよと、つまりそういうことなのだ。
 必修科目で赤点を取り単位が不認可となれば、来年もう一度その講義を受講しなければならないだけでなく、この寮も追い出されてしまう。四人部屋ではあるが比較的綺麗な風呂トイレ付き、三食付き。そして家賃は大学周辺の物件と比べてもずっと安い好物件である。せっかく獲得した快適な学生寮の居住権を、成績が悪いだなんてつまらない理由で手放したくはないというのが寮生たちの本音だ。その為悠なんかは「やばいやばい」と試験が始まるまでずっと言い続けていたが、全てが終わった今は、とても晴れやかな顔をしていた。
「いやあ、夏休みだねえ。ビバ! サマーホリデー!」
 笑顔で言い、ソファに沈み込む悠。「英語なのかイタリア語なのかはっきりせいや!」と律儀に突っ込んでくれた啓一もその隣に身を投げ出す。
 寮建物には戻ったが部屋には戻らず、四人はロビーの扇風機の前を占領して涼んでいた。部屋に戻ればエアコンもあるが、今日は一段と暑い、朝から閉め切りだった部屋には熱気が充満していることだろう。教室を出てからここに辿り着くまでものの五分、しかしそのたった五分の間に汗だくになってしまった彼らには『こもった熱気に耐えながら部屋が冷えるのを待つ』というミッションをこなす勇気がなかったのだ。
「夏休みの予定は?」
 悠の正面に座った誠人が、ジャージの裾を折り上げながら尋ねた。それを受けた大祐は首を傾げて唸っていたが、結局出した答えは「特にないや」という味気ないものだった。
「え、ないの」
「特別何がやりたいっていうのが思い浮かばなくて」
「何かそれ分かる、俺もだ」
 大祐の発言に、夏休みを心待ちにしていたはずの悠が同意する。
「人一倍夏休み楽しみにしとったやん、予定あるんちゃうの?」
 驚いた啓一が声を上げると、悠は「もちろん楽しみにはしてたんだけどさあ」と頭の後ろで両手を組んだ。
「テストの最中はさ、これが終わったらあれをやるぞーこれをやるぞー、っていろいろ考えるじゃん」
「まあな、テストの後の楽しみがあるから頑張れるってのはあるな」
「でもテスト終わると、燃え尽き症候群じゃないけど疲れちゃって、まあいいやーって思わない?」
「あーあるある」
 啓一が身を起こして同意する。きっと身に覚えがあるのだろう、何度も首を縦に振っている。
 ちりん、と風鈴の音が鳴った。悠から見て左側には植木鉢やマガジンラックが一列に並んでおり、その向こう側は食堂となっている。ロビーと食堂の間にぶら下がった風鈴が、扇風機の風に揺れたらしい。ゆらゆらと動く風鈴を何となく眺めていると、そんな悠を眺めていた誠人が笑い出した。
「あのさ、上見てると口開くよね」
「えっ、俺口開いてた?」
「うん、開いてた開いてた」
「いつも以上の間抜け面やったで」
「間抜け面は余計だ!」
 しかし、上を向くと口が開く、というのは悠にも思い当たるものがあった。例えば悠と啓一は身長差が二〇センチメートルほどある為、立った状態で目を合わせようとするとどうしても啓一が悠を見上げる形になる。何てことのない会話が始まる直前、啓一はだいたいぽかんと口を開けて、彼の言うところの『間抜け面』をしているのだ――まあこれは、本人にはまだ内緒にしておいてやろう。



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