2.


 まだ開いていない客用出入り口の前を通り過ぎ、店舗裏に回って通用口の扉を開ける。扉のすぐ脇で煙草を吸っていた従業員に挨拶し、三階まで階段を駆け上がる。上って左手の部屋、男子更衣室に入った。
「おはようございまーす」
 個人用ロッカーの並べられた狭い和室、その中央にはちゃぶ台が置かれている。バイト仲間が二人でちゃぶ台を囲み、かごに盛られたみかんを食べている。かごには『ご自由にお食べください 厨房』という貼り紙がされていた。
「おっ笹川君、おはよう」
「ちーっす」
 ひとりは同じ梢葉大学の工学部の三年、坂下風馬。もうひとりはこの近所の高校に通っている久野康祐。康祐は啓一と同じホールスタッフだが、風馬は大学に入学してからずっと厨房スタッフを続けており、客に提供する料理を作っている。
「出勤早いっすね」
「まあね」
 そう答えた風馬は店指定の調理白衣に、頷いた康祐もウェイター服に着替えている。訊けば二人とも学校での授業なり用事なりが早めに済んでしまい、かといって別のことをして時間を潰すほど暇があった訳でもなく、結果的に早めに来てしまっただけなのだと言う。
 啓一たちの住む大学付属寮の卒業生でもある風馬は、現在大学近くの安アパートで一人暮らしをしている。厨房スタッフなら料理もお手の物だろう。前にそう尋ねたことがあったが、高火力のコンロや料理用のソースなど調味料が豊富に揃った厨房と一人暮らしの台所ではそもそものスペックが違うらしい。それに、財布に給料が入るアルバイトと自分の胃に入るだけの自炊ではモチベーションも違うらしい。
「早く笹川さんも着替えないと、そろそろ行きましょう」
 康祐に急かされて自分に割り当てられているロッカーを開けた。指定のシャツとスラックス、エプロンだけ取り出してバッグは放り込み、手早く着替える。それまで着ていた私服も突っ込んでロッカーに鍵をかけた。
 行き先はまずは同階の事務所、タイムカードに出勤時間を記録する。それから事務所正面の従業員用厨房に移動だ。
「行くか」
 仕事前の腹ごしらえの為、啓一に続いて風馬と康祐も腰を上げた。今日のまかないは豚の葱塩ダレ丼だった。
 啓一たちバイトは開店と同時に出勤時間を記録し食事をすることになっている。開店準備はバイトたちが食事をしている間に、早くから仕事に入っていた従業員たちによって進められていた。バイトたちが仕事に出るのは店が営業を開始してから三十分後。どうやら早くも客が入っているようだった。
「おはようございます!」
 厨房を覗き、料理を作り始めている厨房スタッフに挨拶する。そのスタッフたちに紛れる風馬を見送って啓一と康祐はホールに出、働き始めている従業員にも「おはようございます!」と頭を下げた。
 まだ十七時半、客は少ない。二組しかいない客から注文を取りつつ、料理を出しつつ、他にすることがなくなったらバーカウンターの内側に貼ってあるカクテルメニューを覚えていく。ドリンクを用意するのもホールスタッフの仕事だ。ビールサーバーの使い方は仕事を始めてすぐに覚えたが、カクテルの作り方まではまだ頭に入り切っていなかった。作る分にはここにあるレシピを見れば問題ない。しかし客から「これどんなカクテルだっけ?」と訊かれた時にはすぐ答えられるようにしておかなければならないのだ。自分の両親があまり酒を飲むような人ではなかったので酒の名前を全然知らず、啓一は覚えるのに手こずっていた。
 啓一がレシピとにらめっこしている間に康祐が注文を受けてきた。
「中、ツー。ワン、スクリュー」
「中、ツー。ワン、スクリュー」
 注文を復唱しながら、言われた酒を用意する。中ツー、生ビール中ジョッキふたつ。ワンスクリュー、スクリュー・ドライバーひとつ。作らなければならないカクテルは後回しにして、とりあえず中ジョッキにビールを注いだ。
 続けてカクテルの準備だ。グラスに氷を入れ、ウォッカとオレンジジュースを決められた分量だけ注ぐ。軽くかき混ぜて(この動作は『ステア』というらしい、康祐から教えてもらった)マドラーを挿し、伝票を確認して客のところへ運んだ。注文したのは化粧が濃い目の女性で、こんな時間に居酒屋にいるくらいだから大学生だろうな、なんて思った。
 その足で別の客から注文を受け、ハンディに打ち込む。料理の注文は厨房に送ってカウンターに戻る。中に納まっている康祐にドリンクの注文を読み上げた。
「中、ワン。ワン、テキーラ」
「中、ワン。ワン、テキーラ」
 復唱してビールを注ぐ。客のところへ運んでカウンターに戻ると、康祐は慣れた手つきでテキーラ・サンライズを作っていた。確かに彼は啓一よりも前からここで働いているが、前と言っても一カ月かそこらである。アルバイトだから毎日ここで働いている訳でもなし、それなのに、カクテルを作るのに必要なものを用意する動作がスムーズなのである。いちいち何が必要なのか確認もしないで棚から酒類を選び出しているのである。
「物覚え早いなあ」
 その様子を眺めながら啓一が感心していると、康祐のたれ目が一度大きく開き、それから伏せられた。少しはにかんだ様子で、「親が酒好きなんで、うちでもよくカクテル作ってるんすよ」と返ってきた。
「へえ、それで酒の名前なんかも詳しいんやな」
「まあ、そんなとこです」
 テキーラ・サンライズは名前の通りテキーラベースのカクテルだ。テキーラとオレンジジュースをグラスに注いでステアし、内壁を伝わせてグレナディン・シロップを底に沈める。シロップの赤からジュースのオレンジへのグラデーションを日の出に見立ててこの名前が付けられたのだと、康祐は教えてくれた。
「ほんまに詳しいなあ。で、ぐれなでんしろっぷ、って何?」
「グレナディン・シロップ。ザクロのシロップですよ」
 働き始めは暇を持て余し気味だったが、十八時を過ぎると客が増え始める。忙しくしつつ、啓一は十九時から入っている予約テーブルのセッティングを従業員から任された。
「十九時から四名、倉橋様……うん?」
 予約席の札をテーブルに置き、予約表を確認しながら首を傾げる。
 寮の隣室で生活する四人の教育学部二年の先輩たち。今晩外食予定の四人の内、一人の姓が倉橋である。
(まさかなぁ)
 倉橋など、珍しい名字でもないだろう。確かに条件は合致しているが、四名の倉橋様などいくらでもいるに違いない。そう決めつけ、テーブルを囲む椅子の前に取り皿と割り箸を並べた。
 そして予約の十九時。
「いらっしゃいませー」
 声を張り上げ入り口を振り返ると、そこにはよく知った『倉橋様』が立っていた。
「あ、ちわっす」
 学外で出会ってしまった隣室の先輩に何と声を掛けるべきか。一瞬迷い、それだけ言って頭を下げる。普段は先輩後輩という関係であるが、ここでは客と店員である。その立場の違いに、先輩である倉橋淳也も少なからず戸惑っているようで、「ああ、どうも」と言いながらずり落ちた眼鏡を押し上げていた。
 予約の四名様入ります! カウンターと厨房に声を掛け、先ほど用意した席に案内する。予約席の札を回収してエプロンのポケットに突っ込んだ。
「笹川ここでバイトしてたんだな。知らなかったよ」
 椅子に座りながら綾瀬拓都が言い、「そうだね」と館山策弥が頷く。
「はい、ええと、先月から」
「未成年でも居酒屋で働けるんだ」
「働くだけならいいみたいですけど、俺のことより、先輩ら成人してましたっけ?」
 啓一がそう尋ねると、拓都はにやっと笑った。彼の隣に座った糸井健太の肩を抱き、学生証を出す。
「今日で俺たち全員成人になったんだ! ……ほらお前も出せよ」
「え、うん」
 拓都に小突かれた健太が提示した学生証には、今日の日付が印字されていた。
「あっ誕生日、おめでとうございます!」
「うん、ありがとう」
 大学受験の際に一浪していた策弥と淳也は昨年の内に既に成人しており、拓都は今年の四月に誕生日を迎えた。同室の四人の内、一番誕生日の遅い健太が今日成人し、せっかくだから四人で飲み会をしようということになったのだと言う。
 その話を聞いた啓一は「とりあえずビール」というオーダーを受け、一度カウンターに引っ込んだ。店長に知人が来店したこととその知人が本日誕生日であることを伝え、中ジョッキを四つ持って再び健太たちのテーブルに出向く。
「生ビール中ジョッキです」
 テーブルにジョッキを並べ、「おめでとう!」と乾杯している四人を横目に伝票に一枚紙を挟んだ。
「ここ俺の社割利くんで、会計から一割引しますね」
「マジか! 助かるぜ!」
「それから、よかったら誕生日ケーキサービスしますけど」
「本当!?」
 会計一割引に反応したのが拓都、ケーキに反応したのが健太である。普段ポーカーフェイスの健太がちょっと嬉しそうなのは、今日が誕生日だからという理由だけではないだろう。

 啓一が料理の注文とケーキの旨を伝えに厨房に向かった。テーブルのお客四人は出されたお通しの枝豆をつまみ、健太をつついた。
「初めて飲んだビールの味はどう? 健太」
 策弥に尋ねられた健太は首をひねった。
「前にどこかで甘党は酒が苦手だって聞いたんだけど、その通りだね」
「というと?」
「ただの苦い汁だねえ。合法的に飲めるようになったからって、ビールに特別な感動を抱けないや」
 大人が美味しそうにビールを飲んでいるから期待していたのに! 大人に騙された気分だ! これが成人した健太の正直な感想であった。



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