1.


 四時限目の授業時間終了の合図、チャイムがキャンパス中に響き渡った。しんと静まり返っていた教室内だったが、チャイムとほぼ同時に溜め息、そして学生たちが囁き合う声がこぼれる。それまでは教科書に載っている数式を熱心に黒板へ書き写していた教授だったが、自身の左手首に巻く腕時計と黒板脇に設置されている壁掛け時計を見比べ、「来週はこの続きからやります」と言い放った。
 この言葉が本当の意味で授業終了の合図となる。学生たちは教科書を閉じ、ペンやノートをしまい、両腕を大きく伸ばして伸びをした。
「あー終わり終わりっ」
 そう言って立ち上がった芳澤悠の顔はさっぱりとしており、そのくせ額は野暮ったく赤くなっている。そういえば……笹川啓一はこの九十分間を振り返った。今の授業で悠の真後ろの席に座っていたが、彼が顔を上げていた覚えがない。目の前には障害物などなく、大変視界良好であった。
「お前ずっと寝てたやろ」
 呆れた啓一は持っていたボールペンで悠の腰をつついた。
「寝てただけのくせに何でそんな授業やり切ったみたいな顔してんねん」
「九十分静かに耐え切ったよ」
「寝てて尚且つやかましいとか真剣に煩わしいわ!」
「だからおとなしくしてたじゃん」
「当ったり前や!」
 ごちゃごちゃ言い合っている間にも時間は進む。たった十分間の休み時間など、あっという間に終わってしまう。現に、次にこの教室で授業を受ける学生たちが姿を現し始めていた。彼らの為にも早く移動しなければならない。穣誠人に急かされ、荷物をまとめる。教室を出て、気付けばさっさといなくなっていた星野大祐を追った。
 四時限目は必修科目であったため皆で雁首揃えて出席していたが、五時限目に設けられている講義は自由科目である。必ずしも受講する必要はない。興味のある授業だからと選択している大祐と、単位認定が甘いという噂を聞きつけて選択している悠はこの後もう一コマ拘束されるが、啓一と誠人はこれで放課となる。
「じゃあ大祐、こいつ寝てたらちゃんと起こしたれ」
 悠を指差して大祐に頼むと、「分かった」とピースサインが返ってきた。
「おお、頼もしいな」
「もちろん」
 そう言うと、大祐はそのピースを悠の顔に向ける。腕を伸ばす。
 そしてその指を、眼鏡のレンズに一本ずつ突き立てた。
「えええ何すんだよっ」
「目潰し」
「は?」
「寝てても痛みを感じたら起きるでしょ」
「違う意味で目開けられなくなるよ!」
「大丈夫だよ」
「何が!? ねえ、何が!?」
 この様子なら心配いらないだろう。きっと大祐はルームメイトの為に一肌脱いでくれるに違いない。安心した啓一は、レンズの中心にべったりとつけられた指紋の所為で視界不良になった悠と、視界不良にした張本人の大祐を残し、誠人と連れ立って経済学部棟を後にした。「あんな風に脅されたらさすがに悠も寝ないよね」なんて誠人は言っているが、多分悠は次の授業で寝直すだろうし、大祐は任務を全うしようとするだろうなと啓一は思っていた。
 ガラス張りの本部棟前には、窓ガラスに自分の姿を映して練習しているダンスサークルのメンバーが複数人いた。キャンパス内を走り回っている学生たちはテニスサークルのジャージを着ている。来月には期末テストがあり、それが終われば夏期休暇。きっと彼らは、休暇中にある何らかの大会に備えての練習なのだろう。
「ええなあ……」
 その一言は無意識の内に呟かれていたようで。
「ん? 部活?」
「えっ」
 誠人から返ってきた言葉に、啓一は驚かされた。
「いや……」慌てて首を横に振る。「部活とかサークルとか、入ろうっていう気は全然ないんやけどな」
「そうなの?」
「俺、なるべくバイトしたいし」
 実際啓一は、先月から駅前の月櫻という居酒屋でアルバイトを始めていた。客からドリンクや料理の注文を受けたり、それらを提供したりするホールスタッフだ。ホールの仕事は案外スポーツに近く、結構単純な力仕事である。客として飲食店を利用している時は考えもしなかったが、働き始めてから知った。ホールスタッフは想像以上の重労働だった。
「今日もこれからバイトやしな」
 そう付け加えれば、それ以上突っ込まれることもなく、誠人は「そっか」と小さく頷いた。
 一度寮に戻り、教科書などのバイト先で必要のないものを、トートバッグの中から全部出した。それを自分の机の上に並べ、「誠人」と声を掛ける。
 振り向いた誠人は、外出用のちょっと綺麗なジャージから部屋着の若干毛玉が目立つジャージに着替えていた。
「……」
 外出着と部屋着を区別するのは、それは全く問題ない。問題ないのだが、ジャージからジャージに着替えるその感覚は、一緒に生活を始めて三カ月になる啓一にもいまひとつ理解出来なかった。
(外では窮屈でもきっちりキメて、うち帰ったらリラックス出来る服に着替えるものとちゃうんか! ずっとジャージなんて、外でもうちでもずっとリラックスモードやん!)
 誠人本人はジャージが大変お気に入りの様子だから、そこのところには突っ込まないが。突っ込まないが、疑問に思うくらいは許されるだろう。
「何?」
 いずれにせよ、彼のきょとんとした顔を見る限りでは、説明したところで啓一がなぜそのことに疑問を抱いているのかということすら理解していただけないに違いない。
 そんな疑問はさておき、肝心の本題をぶつけた。
「……あー、今日の食堂当番って誠人やったっけ?」
「そうだよ」
「俺、今日バイト先で飯もらってくるから晩飯はなしで、よろしく」
「はい、了解」
 食堂でいつも食事を作ってくれているおばちゃんには、食事が要らない旨を事前に伝えてある。この事前連絡は食材調達の都合上しなければならないことである。しかし作るのはおばちゃんだが、配膳をするのは食堂当番の寮生。何人分配膳する必要があるのか、当番にも伝えておかなければ、料理の過不足の原因となってしまう。
 そんな細かい連絡がいちいち必要なのか。最初は面倒だと思っていたが、それにもようやく慣れてきた。時々忘れそうにはなるけれど。
「……そうか、今日は啓一もいないのか」
 ジャージのファスナーを閉じながら呟かれた誠人の言葉に、啓一は首を傾げた。
「俺『も』?」
「うん、綾瀬さんたちも、今日は外食だって言ってたよ」
「四人揃ってか?」
「そう」
「へえ」
 啓一たちの隣の部屋では、教育学部二年の先輩たちが四人、生活している。昨年から特にトラブルもなく生活を続けているのだから四人とも仲が悪い訳ではないのだろうが、授業以外で四人が揃って出掛けるところはこれまで見たことがなかった。偶然なのかもしれないが、悠なんかは勝手に不仲説を持ち出して騒いでいたこともあった。
 それが、四人揃って外食とは。珍しい。
「気になるなあ」
「せやな、どこ行くんやろ」
「何かの実習が一区切りついたとか? 打ち上げ的な?」
「それはあるかもしれんな」
 しかし憶測で話をしていても仕方がない。これ以上は、先輩たちに会った時に訊けばいいだろう。とにかく今啓一がするべきなのは、さっさとアルバイト先へ向かうことだ。洗濯し畳んでおいた居酒屋の制服を、教科書を出して軽くなったトートバッグに詰める。クローゼットの扉裏に備え付けられている姿見で全身をチェックしてから腕時計を見、まだ時間に余裕のあることを確認した。
「じゃあ、いってきます〜」
「はい、いってらっしゃい」
 片手を上げると誠人は手を振り返してきた。彼に見送られ、啓一は今月最後のアルバイトの為に駅前へと向かった。



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